それからが、タイヘンな騒ぎになったんだ。噂を聞いた参詣客が近郷近在はもちろん、遠くから夜中でもゾロゾロ押しかけてくる。鶴見駅から5キロの道はアリの行列のようだ。“丑の刻(うしのこく)詣で”といって真夜中でも往復してお参りするんだ。その人たちで道中は、押すな押すなの騒ぎだった。
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明治41年(1908年)、お穴様
提供:秋山要さん(鶴見区駒岡) |
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出店が100軒以上も…
当時の新聞じゃ、「日に1万人以上の人出」と書いたそうだ。なにしろ、あの頃の駒岡部落の人口はせいぜい500人か600人だったろう。
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その20倍もの人が毎日押しかけるんだから、大騒ぎだったわけだなあ。
抜け目のない近所のばあさんがその行列を相手に線香売りを始めたのが最初だった。それからは掘っ立て小屋の出店があれよ、あれよ、と言う間に百軒以上も並ぶ。甘酒屋、ソバ屋、塩せんべい屋……、そして芸者屋もできたり、その商人相手の風呂屋や急場の出店を建てるために材木屋までできちゃった。
お賽銭は毎日ザルに何杯も…。線香が燃え盛るその炎は六尺以上もあがり、その火の勢いで周りの立ち木まで燃える騒ぎがあったなあ。
明治43年、この賑わいが急に下火となった。当時、日本で有名な考古学の先生、坪井正五郎博士がこの“お穴様”を調査したところ、古来の人の墳墓だということがわかったからなんだ。
なにせ、昔はゼニがなくて医者にもかかれなかったから、こんな騒ぎになるんだ。農家では時計もなく、ニワトリの鳴き声で朝起きるんだからなあ。
★「お穴様」の模様は「写真が語る沿線」の「鶴見区」にも掲載、参照ください。
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