編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.898  2016.02.26 掲載
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地域
  
「大倉山(第2回)」 ウォッチング

       
★昭和63年12月発行『とうよこ沿線』第45号大倉山特集「Do You Know 大倉山?」から
前半の取材・文:鈴木ゆうこ(日吉) / 後半の取材・文:佐藤由美(日吉)



  その1.     大倉山の近況


   エルム通り、あれこれ

 大倉山駅の改札を出ると前を走る一本道。これが大倉山のメインストリート。
 左に行くと、綱島街道、港北区総合庁舎に至る東□商店街(レモンロード)。右側が今話題の西口商店街(エルム通り)。



新装なったエルム通り

 

 これまでにもう100もの視察が来たというが、歩いていると、カメラで街並みを撮影している人がいつも一人や二人はいる。でもほとんどの人は通りを200メートル行き、フラワーアオキの所でギリシャ風が途切れると、くるっと∪ターンしてしまう。すぐ横はのどかな畑。商、工、農と高級住宅地が混在するこの町のユニ−クな一面だが、これが大倉山のいいところでもある。でもここも近々2棟のビルが建ち、この先の商店街と繋がる計画という。

 このエルム通り、かつての“さかえ通り”を知る住民の評判はどうだろう。
 「歩きやすい」「きれい」とおおむね好評だが、「日本にギリシャ風はヘン」「業種が片寄っている」「広場がほしい」「駐車場をつくり、路上駐車をなくして」など厳しい意見も。

 さて、昼はギリシャの音楽が流れ、夜はガス灯風の街灯が雰囲気を出している舗道の並木、何の木だかわかるかな?
 残念ながらエルム(楡=にれ)ではないが、実はこれ、映画『愛染桂(あいぜんかつら)』に出てくる桂の木。ハート型の葉っぱは縁結びのお守り。エルム通りで愛が芽生えるかも…。


  大倉山のシンボル、もっと活用を!

                     こんもりとした丘の頂上、ギリシャ風の白亜の建物はひときわ目をひく。今回エルム通りのモチーフともなったこの大倉山記念館、この一帯の呼び名の元でもあり、今や大倉山の象徴だ。



大倉山のシンボル、大倉山記念館(旧大倉精神文化研究所)


 大倉精神文化研究所の拠点として昭和7年建てられたが、昭和56年に横浜市が公園予定地として買収した際、寄贈され、改修工事ののち59年より公開されている。

 創設者の大倉邦彦氏というのは、洋紙店経営のかたわら、仏教や東洋思想を研究し、東洋大学・学長も務めた異色の実業家。古今東西の精神文化を考え、青少年の健全育成をめざす、という今ひとつよくわからない存在だが、興味のある向きには、現在も定期的に公開講座も開かれているので、受講してみてはどうだろう。

 水曜コンサートが好評のホールの他、集会室、ギャラリーがあり、夏のライトアップ・フェスティバル、秋の芸術祭をはじめ、四季を通じて楽しい企画が目白押し。絵、俳句、カラオケ、鉄道模型の展示など、ユニークな利用もどうぞ。
 半年前からの予約が必要だが、平日なら割と余裕があるとか。白い建物を背に、公園でパフォーマンスなんていかがかナ。
   大倉山記念館 O455441881





  その2.  様変わりする大倉山


    名所・大倉山梅林も変わる



昭和32年の大倉山梅林
               撮影: 中村稚晴さん(師岡町)

 記念館を含めた高台一帯は、大倉山公園として数年来工事が急ピッチで進められている。記念館前の遊歩道も、裏手の梅林一帯も、みちがえるように整備された。かつて雨でぬかっていた散策路は舗装され、商店街に下るひなびた裏道は、階段ができてオリーブ坂″と命名された。そして管理棟の建設や、池とせせらぎの整備はまだ続いている。

貴重な自然のままの緑に手を加えることに反対の声もあるが、東急によって12面のテニスコートができるはすだった当初の計画よりは、緑は救われているようだ。


  かわいい石仏めぐりは、いかが?

 大倉山を歩いていると、道端に何気なく祠があり、かわいらしい石仏が祀ってあるのをときどき見かける。

戦国時代、小机城の戦いに巻きこまれ、また水害とも戦ってきた庶民の願いを感じながら、石仏めぐりというのも、ほのぼのした気分になれそうだ。










     歩道に彫刻?

 横浜市の″緑と水のネットワーク″施策として大倉山公園と並んで整備されているのが、太尾新道。
 現在、太尾道から港北下水処理場付近までプロムナードづくりが進んできている。
  1030メートル幅の歩道には植樹が行われ、アスレチック遊具も備えつけられた。最終的には新横浜から大倉山記念館まで延びる予定だという。



広場のゲートには、鶴見川にゆかりのある鷹や水鳥のレリーフが

 ここに今度、彫刻が置かれることになった。来年11月MM21地区の横浜美術館で行われる横浜彫刻展(ヨコハマビエンナーレ‘89)の入選作品の永久設置場所としてここが選ばれたのだ。しかも初めから″この場所の景観に似合う作品″という条件つき公募。
 今、全国の彫刻家の目が太尾新道に注がれている。挑戦してみたい人は、
 横浜彫刻展実行委員会 0456612149へ。

   太尾新道沿いのもう一つの工事

  ここは港北下水処理場の屋上。といっても高さは地上2〜3階程度、広さは2ヘクタール。このコンクリートの屋上に土を盛り、テニスコート、ゲートボール場、野球場、散策路をつくってしまおうというもの。



工事中の港北下水処理場屋上

 まだ基礎工事だが、完成すれば、60年にできた港北スポーツセンターとともに、区民の貴重なスポーツゾーンになりそうだ。



  その3.  商店街発展物語


    農道転じて幹線に

 大倉山の駅前通り。かつて一面の田園に囲まれた農道であった。大正15年に駅が置かれたのち、自然発生的に店がポツポツでき、庶民的な商店街となった。

 ところが昭和38年、この先の新羽付近が準工業地域となり、さらに第三京浜の港北インター・チェンジができて事情は変わった。たった6メートル幅のこの通りが幹線道路となり、路線バスや大型トラックまで頻繁に往来するようになったのだ。そのため道はいつも混雑、運転手はイライラ、歩行者はビクビク。商店街を避けて裏道を通行する人たちも増えてくる始末。

 おまけにここは、横浜へも渋谷へも便利なところ。急激に開発が進み、住宅が増えても、お客の方はさっぱり。



昭和56年、改造前の通り


改造後、上と同じ場所

 そんなわけで、道路問題も含めた商店街近代化の声が上がってきたのは昭和40年代後半。そして昭和53年、菊名から東口綱島街道沿いに港北区役所が移転してきて話はいよいよ盛り上がった。大手スーパーや金融機関の進出もあり、東□の通行量は、それまでの日に2千人から、一気に数倍に増えたのだ。

   ポーンと100万円

 こんな中、すごい人物が現れた。地主の前川平吉さん(故人)が、「歩きやすい街に」と100万円を寄付したのだ。
 これに刺激されて商店主たちも立ち上がった。4つの商店街が連合して大倉山商店街振興組合を設立、中でも最も近代化を急ぐ東口が、東口商業協同組合(吉原昭彦理事長)をつくり、県や市に働きかけ始めた。

 3年にわたる運動の結果、昭和56年、神奈川県初の商店街近代化事業として採択され、工事が始まった。駅から綱島街道までの商店が自主的に15メートル後退して歩道をつくり、カラー舗装化。電柱、電話線、水道・ガス管の整備も、県や市の協力で行われた。



昭和56年、東口の郵便局あたりの工事が進む

 こうして昭和59年、新しく生まれ変わった東口商店街がレモンロード。時期を同じくして完工した東横線がガード拡幅とその下の新装大倉山駅、駐輪場などとともに、大倉山駅前はすっかりみちがえるようになった。道は歩きやすくなり、商店も着実に活気づき始めた。



   エルム通りの誕生

一方、駅の西側はまだ車の間を人がぬって歩く危険な状態。背後には高級マンションが林立しているというのに、住民たちはよその町へ買い物に行ってしまう。

 東口に負けじ、と西口近代化開発委員会をつくって57年から検討を進めた結果、昭和61年に西口商業協同組合を設立、″ギリシャ風の街並″への第一歩をふみ出した。
  見上げればそこに見える白亜の大倉山記念館。そのイメージに合う、地中海風の街にしよう! ここまではすんなり。

 西口商業協同組合がすごいのは、ここからふつう3年かかるところを1年半でやってしまったこと。これには、再開発に情熱を燃やす商店主たちのまとまりの良さや、地元の協力もあるが、外部の専門家に仕事を分担して効率的に進められたことも成功の一因。

街のトータルデザインや建築作業の調整は鹿島建設、資金融資は横浜銀行、そして組織をまとめ、リーダーシップをとった上野敏清事務長の存在が光る。


 このあとは新聞や雑誌で報道されたとおり。





生協活動で培った手腕を活かして商店街をまとめた、上野敏清事務長

ギリシャヘの視察団派遣、商店の2メートル後退と道路の大工事、通りのネーミング公募、アテネのエルム商店街との姉妹提携、地元を巻きこんだ大々的なエーゲ海フェスティバルと次々話題を独占。最後まで改築をしぶっていた店まで自主的に改装を始めたりした。



ギリシャ風の見事な円柱


エルム通りは看板もユニークだ





 行政に先立ち、自分たちの力で統一的な町づくりに取り組んだことへの反響は大きく、そのノウハウを学ぼうと、連日全国から視察団が訪れている。中にはこれに触発されて、見学に来たその日のうちに会合を持った商店街もあったという。小規模組織ゆえのいくつかの問題を抱えながらも、西口商店街の実績は、他方面に影響を与えている。



昭和63年(1988)12月4日、エルム通り完工式

撮影 :とうよこ沿線編集室

 大倉山商店街はさらに第3、第4の工事を計画しており、最終的には延長16キロの再開発になる予定である。農道から個性的な商店街へ――大倉山の変身はまだまだ続きそうだ。





  その4.  鶴見川水害物語


  江戸時代から続く、
       暴れ川・鶴見川との闘い

 エルム通りをひたすらまっすぐ行くと、太尾堤という交差点がある。
  交差しているのは太尾新道。実はこの道、かつて鶴見川の堤防であった。

 鶴見川は町田市の山中に源を発し、緑区を通り、大倉山付近で大きく蛇行し、鶴見で海に注ぐ横浜市唯一の1級河川。
 ところがこれがたいへんな暴れ川で、大雨のたびに大洪水。中流域では特に太尾・新羽の低地が大被害を受けた。

 江戸時代から再三にわたる工事の陳情が行われた。篠原〜神奈川の分水路案も何度も出された。しかしそのたびに流域の村落間で利害対立が起き、国の対応も遅く、実現には至らずじまい。
  大正時代に入り、関係各村代表が「鶴見川改修期成同盟会」を結成、やっとまとまった改修運動が盛りあがるが、関東大震災でふりだしに。

 昭和136月末から7月にかけての大雨は、多摩川からあふれた水が鶴見川に流れこむ大惨事。


昭和13年7月上旬、大倉山の平地は大洪水。左の建物は大倉山駅舎

その惨事の被災地から改修の遅れを非難する声が高まり、「鶴見川改修期成同盟会」を前身とする「鶴見川水害予防組合」の働きかけもあって、ついに昭和14年、悲願の国費改修が決定した。

 その後、流域の開発によって木が伐採され、地表がコンクリートなどに変わるに従って、雨水を地中に浸透させ一時的に溜めておく働きが失われ、新たな形の水害が頻発するようになった。
 工事は遅々として進まず、同組合と鶴見・港北区住民代表による強い要求の末、緊急改修がやっと完了したのは、つい5年前。



 が、まだ工事は完全に終わったわけではない。流域の一層の市街化にあわせ、総合的な整備計画が進められている。
 その一つが新横浜オアシス計画。
鶴見川と鳥山川にはさまれた一帯(新横浜〜港北インターの区間)に広さ84ヘクタールの遊水池″をつくり、平常は公園などとして利用、緊急時には一時的に大量の水を貯め込めるようにするもの。

  鶴見川多目的遊水池とは…

 この多目的遊水池の上は、新横浜公園になっている。ここは鶴見川と鳥山川の合流地点、港北区小机町と鳥山町地籍にある。公園内には日産スタジアム、いや横浜国際総合競技場と言ったほうが分かりやすいだろう。Jリーグのサッカーの試合が行われた球技場だ。



鶴見川多目的遊水地(新横浜公園)所在地

国土交通省京浜河川事務所ホームページから


横浜国際総合競技場(下は鶴見川多目的遊水池)

このスタジアムは、遊水池に1000本以上の基礎の柱を立て、建設された。このサッカー場の下にある池では増水時に鶴見川・鳥山川の水を貯め、正常になったところで川に放水する、水量の調節作用をするのだ。それは、洪水から街を守るための安全・安心の装置なのである。

 ゆったりとした流れで心を潤す鶴見川。いつも安心な川の実現を一日も早く望みたい。



  その5.  街の話題 No.1


 これぞレトロ。茅葺きの家

大倉山駅を東へ抜け綱島街道を横切り、ほどなく行くと、緑の深い住宅地の中、2軒の茅葺き屋根の家が見られる。

1軒は、池田新吉家。屋号は「森の下」。建築後150年経つという、江戸期天保年間の作。宮大工だった曽祖父・惣八さんがつくったお家で、柱も敷居も今でもしっかり頑強。ただ一番の悩みは、屋根の葺き替え。茅の調達と屋根葺き職人さんがいないこと……。そこで、池田家では、“茅場”を作って茅を栽培し、物置に毎年保存し溜めているというから、ご立派。

もう1軒は、鈴木好(よしみ)家。屋号は「宮大」。江戸末期に建築されたお宅だ。鈴木家は、当時から代々宮大工を家業とし、付近の師岡熊野神社や、法華寺もその代表作の一つ。

先祖伝来の家を守る2軒のお宅。どちらの家も、大倉山の自然と程よく調和し、その前にたたずむと、思わず遠い昔にタイムスリップしてしまいそう。



鈴木 好家

撮影:一色隆徳(祐天寺)

   大倉山から遺跡出土

 昭和6110月、急傾斜地崩壊対策工事を行なった際、崖面から板石塔婆と五輪塔が出土。この供養塔は板石塔婆の造立が盛んだった室町時代初期、応永年間の頃のものと推定。

 発見された黒川太郎家(太尾町16911)の裏山が、「一つ山」と呼ばれることから「一つ山遺跡」と命名。 江戸時代、北条氏の子孫が身分を隠すため深く埋められたという説もあり、当家では、ご先祖の霊として大切に供養している。(出土品は、神奈川県立埋蔵文化センターに保存)

 この辺りには以前にも、太尾神社脇に横穴墓群が確認されており、丘陵上には集落跡の存在も考えられるそうだ。歴史的にも、文化的にもまだまだ、研究の余地がありそうだ。

  万ションならぬ、億ションだ

 大倉山に「マンション村」と呼ばれる一画がある。ハイム、グリーンコーポ、藤和グループなどモダンな建物の連立するところだ。



大倉山ハイム


丘の上のヒルタウン

特にハイムには、各界で活躍する著名人が多い。とかく個になりがちな生活に、コミュニケーションをはかる、納涼祭り、古本市の開催、短歌、コーラスなどのグループ活動も盛ん。

 こちらのマンションは、ヒルタウン。緑に包まれた閑静な、たたずまいだ。庭園には滝も流れ、小鳥のさえずりも聞こえる。

 さて、気になるお値段の方だが、その売り値は、ハイムで7、8百万〜1億円。ヒルタウンで、1億前後〜2億5千万円也。新築当時の3倍の値上がり。
 マンションに住みたしと思えども、夢のような高嶺の花……。

  港北区総合庁舎と区役所

 レモンロードの開発の、きっかけともなった港北区総合庁舎は、駅から徒歩3分、綱島街道沿いにある。
 区役所、保健所、公会堂、近くには消防署もあり、移転に伴う交通量の増加も、うなずける。

 区役所の1日の利用者数は、約2千人。3月末から4月がピークで、月・土曜日が混雑する。結婚、離婚、出生届、各種相談など、次から次と人が来ては、手続を済ませては去ってゆく。
 その中で、意外と知られていないのが、食堂。コーヒー150円、カレー280円、定食350円、極めて安い。昼どきを避ければ、案外穴場かも。




古来の神事を今に伝えるーー師岡熊野神社

 
社殿の創建は、仁和元年(885年)。現在の本殿は、正徳3年(1713年)に建てられたといわれる由緒ある神社。



本殿の造りは「流造」。向拝(廂)が設けられているのが特徴

筒粥(つつがゆ)の神事(豊年祈願)をはじめ、縄の大蛇を掲げて悪魔払いをする“しめより”の神事や、雨乞い、土用丑の日の神事など、古式ゆかしき珍しい行事が行なわれている。

神社は昔から、若者の修練の場であったため、力石はつきもので、当神社にも4つ安置。その1つには、「四拾五貫目・樽村清兵衛・常五郎」と刻まれた石があり、現在の樽町の二人はよほどの力持ちであったことがうかがえる。四拾五貫目は約168キロ、オリンピックの重量挙げ選手だったらメダリストだったかな。今では、力比べもする人もなく、半分土に埋もれたまま、可哀想!



これは神社の御神紋「三つ足カラス」。神武天皇の道案内した神話が…









半分土に埋まった力石

付近には歴史に包まれた「い」「の」「ち」の3つの池があり、このうち「い」の池は、昭和63年度横浜市地域文化財に登録された。また、埋めたてられた「ち」の池は、現在、綱島街道端に児童公園となっている。(伝説は、「東横沿線の民話――熊野神社の い・の・ち池」参照)

山の上には、市民の森が広がる。アカガシ・コナラの森の中、権現山広場を経て、天神平広場まで歩くと、そこは、レクレーション施設。クヌギ、ケヤキのうっそうとした杉山神社へ抜けられます。(約40分)

カンナさばきも鮮やかに
      
田中建具店・田中太一さん(80歳)

 13歳から修業を始め、この道一筋67年。現在も現役で大活躍。
  昔は、ガラス戸などの建具仕事が多かったが、今は、欄間の組子物がほとんどだそうだ。

「腕がにぶっちゃいけないんで、始めたんですよ」という、お神輿作りも、なかなか見事なもの。店先に飾られた大・小2つの神輿は、思わず立ち止まって見とれる人もいる。また、親類の子供たちに、小型のものを贈っては、喜ばれているそうだ。
 最近の親方に何かおめでたいことがあったようだ。

 


お手製の神輿の前で

その訳をうかがうと、この店を共に支える、息子の利男さん(49)が第2回全国技能グランプリで優勝したという快挙だ。ますますお元気な、田中さんご一家だ。

    新羽のお師匠さん″

 江戸時代中期以降、地域の教育機関として、寺小屋が大きな役割を果たしていた。港北区にも、全域にわたり存在し、江戸期寛政年間には新羽町の西方寺にもあった。今でも、当時お祀りしていた石の天神様が残っている。

  一方、太尾の磯部幸四郎、新羽の小池真吾といった村のお師匠さんも活躍した。
 小池真吾は、大豆戸の小沢家に生まれ、単身江戸へ出、一流の書家・道本(どうほん)先生に師事し、師が徳川15代将軍慶喜に書を教える際、共に登城した。その後、新羽の小池家に入り、寺小屋を開いた。

 現在、4代目にあたる小池昌司さん(74)宅では、当時の教科書や掛け軸が残っている。読み、書き、唐詩、理科、農業など、さまざまな学問がなされていたようだ。小池家は、近年まで地域の人々から「お師匠さん」の屋号で通っていたそうだ。



  その6.  街の話題 No.2


寒さなんて吹き飛ばせ。子供は風の子!

 見てください、この元気に走りまわるチビッコたちの姿を! この寒中にこの格好とは……!?



ほら、つかまえた! それ、逃げろ! きょうも元気にハダカで鬼ごっこ

 

こちら、大曽根保育園。実はこの保育園では「@丈夫な体をつくる A皆で仲良く遊ぼう――」をモットーに、8年前から″はだか保育″を始めたのです。どうりで、納得。

「大倉山は、自然が残っているせいか、素直な子供らしい子が多いですね」という、園長の角美佐子さん(49)を始め、先生方も元気そのもの。
 紙のお金で遊ぶお店屋さんごっこ、本物の杵を使うモチつき大会などを通して、ふれあい教育にも努める。
 成果あってか、今年は園内での大きなケガは、一度もないそうです。
 コートの襟を立てているあなた、見習ってみれば?

城跡にお住まいーー冨川登家

 大倉山の北山裾、殿谷(とのやと)に旧家あり。

昔、小机城の城主が、ここに出城を築き、その末裔には第8代八郎右衛門廣知がいた。
 明應9年庚申(1500年)この辺りは、捉飼場(とりかいば。将軍様の鷹狩りの鷹を調教する場)で、彼は名誉ある、野廻り(案内係)を務めた。
 「捉飼場の農民は、様々な誓約に苦しめられたそうよ」と語る百合子さん(61)。彼女は今も名主文字による古文書類を大切に保存されている。当時の御姫様の姿が偲ばれる。

  さあ、新鮮な野菜はいかが…

エルム通りの傍に、こんな可愛い八百屋さん? 実はこれ、近くに畑を持つ安藤郁子さん(57)の野菜類の売店。



手づくり野菜を売る安藤さん

小さい台には、採れたばかりの野菜・果物・花が山盛りいっぱい。
「店は、2日おきくらい。昼前から売れ切るまでです。始めてから、もう7年くらいになるかねぇ…」。
 お客さんは会社員、学生、主婦、子供。中には、料理法を教えてくれる人や、店が開く前から熱心に待っている人もいるそうだ。

 エーゲ海の風に吹かれて、新鮮な野菜を丸かじり――なんて、なかなかしゃれていると思いません?







グループ活動が盛んです。我ら大曽根商店街

 さあ、いらっしゃい、いらっしゃい! 威勢のいい売り声が飛び交う、ここは大曽根商店街。
  自慢のタネと言えば、何といっても第一に、朝市。



満員御礼! 大曽根朝市風景

毎月第3日曜日、午前9時から1時間。45メートルの道の両側には、品物がびっしり。野菜、日用雑貨、衣類など。市価の2割安から半値で、とにかく安い! もう、15年以上も続けられているというから、その伝統も驚き。

  そして第2には、グループ活動。ソフト、バレーボール、サッカー、テニスなど。地元大曽根小学校は、毎日活動で目白押し。
 中でも、ひときわ目立つのが、ジャズダンス。8年前、体育指導員会主催による、岡野内恭子さんらの呼びかけに、80名が参加。以来、
岩東先生の指導のもとに、皆そろってワンツー、ワンツー。
 現在は、自
主活動。18歳から60歳まで、60名の会員が、楽しく汗をかいて、健康づくりにレッツ、トライ!

この他にも、家族で楽しむインディアカ、お年寄りのグラウンドゴルフ会。毎年115日に開かれる大曽根マラソン、今年で3回目のウォークラリーと、地域住民と商店街の共催による楽しい計画も、ゾクゾク。

 いい湯だナ〜。わたし、美人?

 冬はやっぱり風呂が一番。忙しい時期、温泉に入ってのんびりしたいなア〜と思う人も多いはず。ハイ、ハイあります。ここ大曽根商店街に、本格的なラジウム鉱泉が…。

 創業、昭和24年の「共立湯」改め、「大平館」、湧水の鉱泉を汲み上げ温泉に利用してます。元をたどれば、綱島温泉と同じ水脈、しかしこちらのほうが濃いそうだ。

湯船をのぞくと、なんと黒い! コーラ並みの色、これが本当のラジウム。効用は、肩こり、貧血、血行が良くなるので、肌が美しく美人になれると評判だ。あなたも、どう?

斜面緑地を守れ! 大曽根マンション紛争

 昨年3月、住石扶桑工業が計画したマンション建設に、地元住民約100人による反対運動があった。

主な理由は、こうだ。
 @数少ない自然林である A周辺道路が狭く、交通上の危険が伴うというもの。交渉を進めた。5月、横浜市議会は、継続審議を打切ったが、住民は7月に「陳情書」を区役所へ提出。8月、再陳情は継続審議となった。
 街頭デモ、坐り込み等、住民が一体となり運動し、8日の、20時間あまりに及ぶ責任者との話し合いの結果、、ひとまず決着。業者側は、着手した工事を停止中に。

 東横沿線の、「菊名記念病院建設反対運動」の例とともに、環境保全の住民意識が徐々に高まりつつある昨今、大倉山の自然を今後どのように守ってゆくか、大きな課題である。 それは市民一人一人の自覚にかかっている。




  その7.  大倉山で出会った人


鳥になりたい私で
             大曽根・井上幹さん (78歳)

 「土手を歩いて来るとね、もうあの辺から、鳥たちがワァワァ鳴いて集まって来るんですよ」
 片手にエサのパン袋、双眼鏡を首から下げ、幹さんは今朝も野鳥に会いにやってきた。



「そお一れ」と井上さん。まかれたエサに群がるユリカモメたちはまさに降ってくると表現した方が、ぴったり

餌やりを始めて5年。早渕川と鶴見川の合流する中州あたりは、ユリカモメ・カルガモ・ウミネコ・アオサギなど野鳥の休憩場。とくに10月〜5月のこの場所は、野鳥の宝庫になる。

幹さんが中でも好きなのは、ユリカモメ。「カモメのジョナサン」を読み、感動してから。この鳥、別名を「ミヤコドリ(都鳥)」というのも心憎いそうだ。
 「家ではコタツに入って、ものぐさウォッチングですよ、ハ、ハ、ハ」と笑う。本人は自室の曇りガラス戸に、10センチ四方のセロハンを貼り、庭に集まる小鳥をのんびりと、ながめるのだそうだ。
 息子さんの勧めで始めたバードウォッチングは6年、健康法の一つ。東照寺(綱島)での坐禅会も、もう7年も続けている。
 頭上をカワウの編隊が、ゆうゆうとよぎる。思わず声をかける幹さん、「空が青くて、気持ちいいねぇ」


何事にもハングリー精神で
                   大曽根・田中スミ子さん(?歳)

 「経理事務所で、スナックの経理をした時これだ!″って思ったんです」。東京生まれの川崎育ち、こちらへ来て、9年。

「年齢? 四捨五入して40よ」と答えておくわ

女手ひとつで開いた店は、3年半。何でもやってやろうという精神で、つけた店名が「ハングリー」。
 パン教室に通って覚えたピザが、ご自慢のメニュー。ご主人は板前さん、ただ今、2人の男の子(135歳)のママさんだ。

飾られた油絵は、自作の物(2年連続、浜展入選)。毎日、市場へ出かけ、仕入れも自分でやる。夢は、店舗を増やすこと。やりたいことはたくさんある。
  幻想的かつ情熱的、ママさんの描く女性像は、何故か、面影がオーバーラップして見える。


趣味は多くて書ききれません
         師岡町・中野安治さん(57歳)

 将棋・トランプ・チェス・読書・音楽鑑賞など。とにかく多才。若い頃から彫刻を学び、こちらに移り住み30年。

友人と始めた「カンボジア問題を考える港北の会」も、多くの人の賛同も得、主催のチャリティコンサートは、今年で7年目を迎えた。参加者は全員ボランティア。地域の人の協力で、ピアノ、演奏、唄、踊り、と祭りさながら(413日は、カンボジアの祭り。来年も港北公会堂で開催)



泣きどころは貧乏。暴走族の騒音に怒りを感じる彫刻家なのです

募金は、会場で赤十字に渡される。一方、地道な署名活動も進め、全国350人の連盟(カンボジアの要請で、文化人・芸術家に限る)を、シアヌーク大統領に送ったりと、やるからには、半端じゃない。
 今年夏、タクラマカン砂漠を見て感激。リアリズムの追求は果てしない。

ブルーポピーに魅せられて
           師岡町・千葉盈子さん

 幼い頃から自然が好きで、鳥を見に山へ入ったのがきっかけ。高山植物に興味を持ち、日本の山をあちらこちらへ。

 この時、ご主人から「ブルーポピーを訪ねる」ヒマラヤ行きツアーを勧められた。夢だっただけに早速出発。以来、花につかれて、登山撮影を繰り返す。ネパール・インド・中国・ブータン。5年前に退職し、写真を整理。2年前、写真展を開催。その反響の大きさに、ご本人がびっくり。


「写真は素人です。でも自然とは古いおつきあい」と話す右から2人目の千葉さん

趣味がこうじて何とやら。「ブルーポピーは、40数種。青、赤、白とさまざま。風になっていろんな高山植物に逢いたいわ!」という。
  来年21621日、10年間集大成の写真展を予定。






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