これぞレトロ。茅葺きの家
大倉山駅を東へ抜け綱島街道を横切り、ほどなく行くと、緑の深い住宅地の中、2軒の茅葺き屋根の家が見られる。
1軒は、池田新吉家。屋号は「森の下」。建築後150年経つという、江戸期天保年間の作。宮大工だった曽祖父・惣八さんがつくったお家で、柱も敷居も今でもしっかり頑強。ただ一番の悩みは、屋根の葺き替え。茅の調達と屋根葺き職人さんがいないこと……。そこで、池田家では、“茅場”を作って茅を栽培し、物置に毎年保存し溜めているというから、ご立派。
もう1軒は、鈴木好(よしみ)家。屋号は「宮大」。江戸末期に建築されたお宅だ。鈴木家は、当時から代々宮大工を家業とし、付近の師岡熊野神社や、法華寺もその代表作の一つ。
先祖伝来の家を守る2軒のお宅。どちらの家も、大倉山の自然と程よく調和し、その前にたたずむと、思わず遠い昔にタイムスリップしてしまいそう。
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鈴木 好家
撮影:一色隆徳(祐天寺) |
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大倉山から遺跡出土
昭和61年10月、急傾斜地崩壊対策工事を行なった際、崖面から板石塔婆と五輪塔が出土。この供養塔は板石塔婆の造立が盛んだった室町時代初期、応永年間の頃のものと推定。
発見された黒川太郎家(太尾町1691の1)の裏山が、「一つ山」と呼ばれることから「一つ山遺跡」と命名。 江戸時代、北条氏の子孫が身分を隠すため深く埋められたという説もあり、当家では、ご先祖の霊として大切に供養している。(出土品は、神奈川県立埋蔵文化センターに保存)
この辺りには以前にも、太尾神社脇に横穴墓群が確認されており、丘陵上には集落跡の存在も考えられるそうだ。歴史的にも、文化的にもまだまだ、研究の余地がありそうだ。
万ションならぬ、億ションだ
大倉山に「マンション村」と呼ばれる一画がある。ハイム、グリーンコーポ、藤和グループなどモダンな建物の連立するところだ。
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大倉山ハイム |
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丘の上のヒルタウン |
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特にハイムには、各界で活躍する著名人が多い。とかく個になりがちな生活に、コミュニケーションをはかる、納涼祭り、古本市の開催、短歌、コーラスなどのグループ活動も盛ん。
こちらのマンションは、ヒルタウン。緑に包まれた閑静な、たたずまいだ。庭園には滝も流れ、小鳥のさえずりも聞こえる。
さて、気になるお値段の方だが、その売り値は、ハイムで7、8百万〜1億円。ヒルタウンで、1億前後〜2億5千万円也。新築当時の3倍の値上がり。
マンションに住みたしと思えども、夢のような高嶺の花……。
港北区総合庁舎と区役所
レモンロードの開発の、きっかけともなった港北区総合庁舎は、駅から徒歩3分、綱島街道沿いにある。
区役所、保健所、公会堂、近くには消防署もあり、移転に伴う交通量の増加も、うなずける。
区役所の1日の利用者数は、約2千人。3月末から4月がピークで、月・土曜日が混雑する。結婚、離婚、出生届、各種相談など、次から次と人が来ては、手続を済ませては去ってゆく。
その中で、意外と知られていないのが、食堂。コーヒー150円、カレー280円、定食350円、極めて安い。昼どきを避ければ、案外穴場かも。
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古来の神事を今に伝えるーー師岡熊野神社
社殿の創建は、仁和元年(885年)。現在の本殿は、正徳3年(1713年)に建てられたといわれる由緒ある神社。
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本殿の造りは「流造」。向拝(廂)が設けられているのが特徴 |
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筒粥(つつがゆ)の神事(豊年祈願)をはじめ、縄の大蛇を掲げて悪魔払いをする“しめより”の神事や、雨乞い、土用丑の日の神事など、古式ゆかしき珍しい行事が行なわれている。
神社は昔から、若者の修練の場であったため、力石はつきもので、当神社にも4つ安置。その1つには、「四拾五貫目・樽村清兵衛・常五郎」と刻まれた石があり、現在の樽町の二人はよほどの力持ちであったことがうかがえる。四拾五貫目は約168キロ、オリンピックの重量挙げ選手だったらメダリストだったかな。今では、力比べもする人もなく、半分土に埋もれたまま、可哀想!

これは神社の御神紋「三つ足カラス」。神武天皇の道案内した神話が…
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半分土に埋まった力石
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付近には歴史に包まれた「い」「の」「ち」の3つの池があり、このうち「い」の池は、昭和63年度横浜市地域文化財に登録された。また、埋めたてられた「ち」の池は、現在、綱島街道端に児童公園となっている。(伝説は、「東横沿線の民話――熊野神社の い・の・ち池」参照)
山の上には、市民の森が広がる。アカガシ・コナラの森の中、権現山広場を経て、天神平広場まで歩くと、そこは、レクレーション施設。クヌギ、ケヤキのうっそうとした杉山神社へ抜けられます。(約40分)
カンナさばきも鮮やかに
田中建具店・田中太一さん(80歳)
13歳から修業を始め、この道一筋67年。現在も現役で大活躍。
昔は、ガラス戸などの建具仕事が多かったが、今は、欄間の組子物がほとんどだそうだ。
「腕がにぶっちゃいけないんで、始めたんですよ」という、お神輿作りも、なかなか見事なもの。店先に飾られた大・小2つの神輿は、思わず立ち止まって見とれる人もいる。また、親類の子供たちに、小型のものを贈っては、喜ばれているそうだ。
最近の親方に何かおめでたいことがあったようだ。
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お手製の神輿の前で
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その訳をうかがうと、この店を共に支える、息子の利男さん(49)が第2回全国技能グランプリで優勝したという快挙だ。ますますお元気な、田中さんご一家だ。
新羽のお師匠さん″
江戸時代中期以降、地域の教育機関として、寺小屋が大きな役割を果たしていた。港北区にも、全域にわたり存在し、江戸期寛政年間には新羽町の西方寺にもあった。今でも、当時お祀りしていた石の天神様が残っている。
一方、太尾の磯部幸四郎、新羽の小池真吾といった村のお師匠さんも活躍した。
小池真吾は、大豆戸の小沢家に生まれ、単身江戸へ出、一流の書家・道本(どうほん)先生に師事し、師が徳川15代将軍慶喜に書を教える際、共に登城した。その後、新羽の小池家に入り、寺小屋を開いた。
現在、4代目にあたる小池昌司さん(74)宅では、当時の教科書や掛け軸が残っている。読み、書き、唐詩、理科、農業など、さまざまな学問がなされていたようだ。小池家は、近年まで地域の人々から「お師匠さん」の屋号で通っていたそうだ。
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