茂吉が妙蓮寺訪れたのは昭和12年(1923)の10月。当時住んでいた青山から、東横線を利用して来たと思われます。
妙蓮寺の駅から商店街を抜け、菊名池を過ぎると、今は住宅が密集していますが、当時は畑が広がるのどかな風景だったことでしょう。
坂を登って数分歩いたところに、かつてロシア人がニコライ教の伝道所を置いていた場所があります。礼拝でもやっていて珍しい光景だったのか、茂吉はここで5首ばかり詠んでいます。
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伝道所跡。現在は赤レンガの塀と生け垣に囲まれた民家となり、面影はない。立っているのは案内くださった神部健之助さん |
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風呂桶なども据ゑつけありて露西亜びと
山ふところに傳道をせり
ガリラヤのむかし目のまへに見るごとき思ひしながら 吾も蹲跼(しゃが)みぬ
現在は、残念ながらその跡形すら残っておらず、一般の住宅が建てられています。
そこからさらに数分歩くと右側に富士塚の住宅地を見下ろす高台に出ます。遠くに東横線、綱島街道、松見町の高台が見渡せる眺望のよい場所ですが、当時はこの辺りにトウモロコシやゴボウの畑があったらしく、茂吉は次のような歌を詠んでいます。
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もろこしはあかく實りて
秋の日の光ゆたかに差したるところ
秋の日のそこはかとなくかげりたる
牛蒡(ごぼう)の畑越えつつ行けり
西の八幡さまの方に傾く夕日が畑を照らして美しかったのでしょうか。現在は温室が並び、鉢植えなどの栽培をしているようです。
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トウモロコシ畑跡。三角屋根のビニールハウが近代的とはいえ、この一帯はかすかに面影が残っている
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そのまま道なりに石段をおり、民家の間の狭い路地を抜けると富士塚1丁目と2丁目を区切る広い通りに出ます。これを右に折れると間もなく右手にはきれいなマンション(ヴェルドミール菊名)、左手には駐車場と、奥にビ二−ルハウスが見られます。現在は埋め立てられて軽やかな起伏を示すこの付近も、当時は急斜面の丘があり、雑草を焼き払う野火も見られたようです。
すすきの穂日に照らされて
かがやける丘のふもとに心しづめぬ
ゆくりなく野火をし見たり風のむた
赤き炎は飛びつつゐたり
斜面を飛ぶ火の粉と、ふもとに生い茂るすすきの情景がなんとなく目に浮かぶような気がします。
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かつて野火が見られた丘の斜面も、現在はわずかに隆起した土手程度の高さしかない。ここ10年ほどで大きく様子が変わったとか |
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