編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.895  2016.02.23 掲載
★写真はクリックし拡大してご覧ください。
地域   「菊名」 ウォッチング
★昭和62年3月発行『とうよこ沿線』第37号菊名・妙蓮寺特集「Do You Know 菊名?」から
取材・文:高橋かすみ(向河原)

 

 今や横浜の新都心として着実に発展しつつある新横浜。
 東横線からそこへ向かう玄関口として、菊名駅は重要な役目を担っています。 どういう訳かこの駅は、東急線と国鉄線を乗り換えるのに全くのフリーパス。 ラッシュ時以外は、国鉄の職員すら不在という噂です。

こらこら、キセルなんて悪いこと考えちゃいけませんよ!




  その1.  まず、菊名駅に降り立つ


  昭和47年に菊名駅を大改造したが…

 国鉄・東急共通である菊名駅唯一の改札口を出ると、目の前には東急ストアが大きな口を開けてお客を迎えています。いつもワゴンセールやうまいもの大会など何かしらやっている入り口はとても賑やか。

菊名駅の大改造で、このストアを含む駅舎ができたのは昭和47年のこと。

 横浜線の下をくぐる東横線レールが集中豪雨のたびに冠水して不通となり、菊名駅手前で折り返し運転されていた、という話もそんなに昔のことではありません。


昭和47年の駅改造工事後の菊名駅東口駅前

 駅周辺の町並は、東横線によって完全に東西に分断されています。駅構内の連絡通路、駐車場脇の路地、駅北側の跨線橋など、歩行者はなんとか線路を越える手段がありますが、自動車の場合は大変。













 ホームからはみ出した1両のために1日延べ9時間半も閉まっている、と問題になっているホーム北側の踏切を渡るか、迷路のような一方通行の狭い道を、渋滞に巻き込まれながら大回りするしかありません。


一日9時間半も締まっている“開かずの踏切

 おまけに、駅周辺に車を止められる場所もありません。二輪車ももちろん放置禁止区域に指定されているから、むやみに止められません。菊名駅へは徒歩で行くのが一番! 東口を路線バスも走っているものの、バスを待つ人の列はやっと猫の額ほどの駅前広場を埋め、やっと乗ったと思えば大渋滞。もともと三方を丘に囲まれた狭い地域ではあるのですが、なんとか改善されていってほしいものです。


歩行者のそばを車がすり抜けて行く東口駅前通り。危い!



  その2.  幻の東横線コース秘話


  東横線開通前、昔の菊名

 今はこんな菊名駅前ですが、この発展に至るまでには多くの逸話があります。

 古くからこの辺りは稲毛道(綱島街道)や川崎道(緑区中山方面から川へ向かう)主な街道の出合う交通の要地でした。旧道沿いにはいくつかの標柱や、昔ながらの職人さんのお店も見られます。

 東横線開通前まで、大綱橋のたもとから、菊名の江戸屋(現在の駅東口付近)を通り、東神奈川の二谷まで乗合の幌馬車が走っていたといいます。また、うんと古い話になりますが、川崎道沿いの高台(菊名小などもある丘の尾根)には前期縄文時代の菊名貝塚もみられ、この付近に集落のあったことがうかがわれます。



昭和22年当時の旧街並。右の住宅が菊名貝塚の跡で、現在は運輸省の寮

 写真提供:権田益雄さん(鶴見区上の宮1丁目)

戦国時代には小机城主の代官、金子出雲守の城塞(金子城)が現在の新横浜駅裏付近にありました。その空堀が現在も残っており、金子氏ゆかりの人々もこの付近に多く居住していたようです。

   菊名住民念願の東横線が開通!

 この地に鉄道を通す話が出たのは大正12年頃。当初は大倉山から新横浜、篠原池を通り、反町経由で神奈川駅へ出るコースが考えられていました。(奇しくも今の市営地下鉄路線と似ています)。


 すでに明治41年、絹製品の輸送路線として開通していた横浜線と交差させるためにはその方が好適だったためのようです。しかしその企画は篠原町住民の反対でつぶれ、現在のコースに変更されたのです。

 駅の位置についても、当初は現在より200メートルほど南に予定されていたようです。付近の土地を買収し、のちに分譲した東京横浜電鉄(現東急電鉄)は、田園調布のように放射状に広がる街並を想定したのでしょう。駅前に口−タリーを置いたのです。けれども結果的に駅はそこには作られず、ロ−タリーと広い道路だけが残りました。現在の錦が丘付近が、それです。



幻の菊名駅、錦が丘のロータリー。街区は整然とした放射線状の住宅地である

 こうして大正15年、東京横浜電鉄は丸子多摩川(現多摩川駅)から神奈川駅(現在廃駅)まで開通しましたが、菊名は農村地帯で乗降客は少なく、同社によって住宅地として開発分譲されることになっていった訳です。土地も初めはなかなか売れず、無料乗車券など、いろいろな特典がつけられたとのことですが、今の状況からは想像もできないような話ですね。

 新横浜も今や地価高騰の最たるものですが、新幹線開通の時にも土地のやりとりで不正問題が多かったらしく、それを題材に小説化(梶山季之著『夢の超特急』)、映画化(同小説原作『黒の超特急』)がなされました。
 (これについては、『とうよこ沿線』第18号の「とうよこ沿線物語 新横浜編」をご覧ください)。




  その3.  おもしろい場所を探してみよう!


  西口から…

 

 西口に出て北の方に歩いてすぐ、椎橋医院があります。ここは江戸時代から続く旧家で、総ヒノキの門は、時代を感じさせる大変立派なもの。敷地には、今でも古いつくりの建物や、ちょっとした林がみられます。



椎橋家の江戸時代作の重々しい門
 

 駅の方に戻り、右手の道を入っていくと、ユニ−クなお寿司屋さんみさき寿しがあります。年1回の食べ放題の日は見逃せません。
 横浜線のガードをくぐるとすぐの中華レストランおがさやは西口でいちばん古いお店。いつもお客さんでいっぱいです。
 そこから始まるウエストモールは、再開発によって昭和52年に完成した商店街。赤レンガの敷石がモダンでしょ?
 坂をこえて錦が丘に入ると、桜の並木があります。昭和9年、皇太子殿下(今上天皇)誕生を記念して植えられたもので、当時は300本ほどあったそうですが、戦争などで切られてしまい、現在は残念ながら数十本しか残っていません。



アーケードの下にたくさんの店が並ぶ西口ウエストモール商店街

東口に出ると…

 線路を渡って東口に出て、駅前の方に戻っていきましょう。青木ビルは菊名でいちばん大きいショッピングビル。

その先、綱島街道に出ると左側に「菊名」という地名の由来となった菊名山 蓮勝寺があります。
 
鎌倉末期、ここ一帯に野菊の咲き乱れる様は、極楽のように美しく、蓮勝上人がお堂を建てたのが始まり。ここで左ギッチョの運慶が毘抄門天を彫って祀りました。それが今、“横浜七福神”の一つ、毘抄門天のお寺さんに。創建以来一度も火災・人災に遭わないことから厄除け、開運のご利益テキメンと多くの参拝客を集めています。



昭和20年代、茅葺き屋根の菊名山 蓮勝寺

 

 河田たんす店斉藤経師店は古くからの技術を伝える貴重なお店。他に旧道沿い妙蓮寺寄りに柳田竹材店持田かわら店大藪石材店なども残っていますが、近年桶屋、麹屋がなくなってしまいました。
 大倉山寄りスボートピア裏手の
富士食品工業(ジェントリースープでおなじみ)も前身は醤油醸造所だったそうです。赤く塗られた長屋門が面影を残しています。




「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る