編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.894  2016.02.22 掲載
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地域   「白楽・東白楽」 ウォッチング
★平成2年1月発行『とうよこ沿線』第49号白楽・東白楽特集「見たか聞いたか 白楽事情」から

 

 ひと昔前は、この地域を総称するのに「ハクラク」というよりは

「ロッカクバシ(六角橋)」と言ったほうが、通りが良かった。

40年間も横浜市電のターミナル駅だったからだ。

それが今は、「ジンダイ(神奈川大学)がある白楽」と言ったほうが、外部の人にはわかる。

 こんな新旧織りなす良さを持つ街・ハクラク、今回はその見聞録……。






  その1.  今昔、変ったものと、変わらないもの


 神奈川熊野神社・宮司自作、ゆかり唄

 神奈川熊野神社の宮司・照本力さんが自作の「神奈川宿」ゆかり唄49首にコメントを添えて編集室に送ってこられた。その中から特集地に関するものだけを紹介しよう。

  こんこんと今も湧き出る御膳水

 神奈川区斉藤分町の善龍寺の横町を左に入った所に、今も満々と清水が湧き出している。

 幕末、神奈川本陣の石井源左衛門が、木管で水道を引き、明治元年1011日、明治天皇の東幸のみぎり、この本陣にご宿泊し、ご料の水に供されたため「御膳水」という。またその昔、太田道灌がこの場所に黄金を埋めたと伝えられ、またの名を「黄金水」ともいった。

   夕暮れて鳥越渡る雁の群

 鳥越の地は、東白楽の東の丘、現在の孝道教団の山続きである。文政7年(1824)記された「金川砂子にも歌われている地。つい最近まで、横浜の港を一望し、近くは本牧の岬、遠くは房総を眺める絶景の丘であった。ここは浦島伝説の浦島山に続いている。

 この眺望にひかれ、清純女優で鳴らした川崎弘子と戦後のラジオ番組「笛吹き童子」でお馴染みの笛の名手・福田蘭童が丘の中腹に住んでいた。また、文化功労者で万葉学者の犬養章先生も神中奉職時代の若き日にお住いであった。今も当時の教え子たちが「鳥越会」をつくり、往時を偲んでいる。

    白楽の清水飲みつつ馬子の唄

 先代新羽屋の当主・中村源兵衛さんから聞いた話だが、白楽は「伯楽」であり、馬の意。中国上代、馬のよしあしを相するに巧みであった人、転じて馬喰(ばくろう)。
 江戸時代、神奈川宿に駅馬・伝馬の制度がしかれ、近郷より荷馬が集りたむろし、この辺りの清水で喉を潤す光景がよく見られたという。

    平尾前 中川とりて平川町

 東白楽駅と反町駅の間に平川町通りが走っている。そこに以前、東横線の「新太田駅」があったが、戦後廃駅となった。
 西方の旭ヶ丘に「平尾内膳(地頭)の物見の松」という塚があって、俗に「一本松」といった。この地の字名「平尾前」と町名「中川町」が合併して平川町に。

平尾塚は昭和57年頃取り壊され、住宅地となる。なお、町名「広台太田町」の「ひろだい」は、「平尾台」から転じたものといわれている。
        (東神奈川熊野神社宮司・熊本力)

 お稲荷様がこんな変わり果てた姿…

 白楽駅東口の駅前通りを一歩出ると、賑やかな商店街とは打ってかわって高台の静かな住宅地。その南東に無人のお寺「吉祥寺」がある。明治後期の頃は、“番外弘法大師霊場”として多くの信者を集めたが、あの戦争の傷跡深く、今は訪ねる信者はほとんど皆無。

 本堂をお参りし、右を見ると、なんとも哀れなお稲荷様のお堂…。

 屋根はいまにも落ちそう、柱は大声を出せば風圧で倒れそうだ。近づいてその中の祠をまじまじと眺めると、銅葺きの屋根は緑青色、本体は龍の透かし彫りなど精巧な芸術品。どんな名工が作ったものか、機械文明の現代でも作れるのだろうか、と疑ってしまうほどの傑作とみた。


吉祥寺境内の憐れなお稲荷さん

 そんな境内に、作業着姿で独り黙々と植木の手入れをする人がいた。聞けば、熱心な真言宗の信者の方で近所に住む、伊藤 正さん(70)。
 「境内の稲荷は、昭和15年のものですよ。いまじゃあ、お参りする人もいないねぇ」と、寂しそうにつぶやいた。

 それにしても、崩壊寸前の祠を辛うじて突かい棒で支えるこの有様は何とも遺憾! お稲荷さんといえば五穀豊穣、商売繁盛の神様。
 この際、白楽の皆さんが力を合わせ、再建基金を募ってみてはいかが……。
       文:佐藤由美(日吉)


  平成時代にもあった御膳水

一片の畑も野原もないこの白楽地域に今でもこんこんと湧き出る「御膳水という清水」があるとは……。早速、この所在地を照本宮司に尋ね、探訪することに。
  坂を上り、善龍寺という寺の前の急坂を下り切った所の横町に、ホントにあった。

 だがここは、山田 一さん(斎藤分町115-13)なる家の私有地。ご主人にワケを話すと、快くその湧水を案内、説明してくれた。南向きの母屋の軒下、1メートル四方ほどのコンクリートの水槽に清水が、勿体ないほど塩ビ管の中からどんどん流れ込む。
 「そう、みなさんが『流しっぱなしで勿体ない』っていうんですが、年中出ているんですから、汲め溜めする必要もありませんしね」と、山田さんは笑う。

 「孫たちはいつも水風呂にはいっていますよ」というほど冬場は水温が高く、逆に夏は「10分間と手を入れていられませんよ」というほど冷たい。お祭りの時などは近所の人たちがスイカやラムネを冷やしたりするそうだ。保健所の水質検査でもお墨付きの「湧水」。もちろん、山田家の家庭用の水は一切この御膳水で賄われる。

 水道料金もお高いご時世に羨ましい話だ。まさにご当家にとっては、黄金水″。



山田家で生活用水としている御膳水

   ここにも命の泉″が…

――白楽5番地。深川貞一郎さんというお宅の塀から清水がじゃんじゃん湧き出ている。しかも、美味しい水と評判。お茶好きな人が遠方からわざわざ汲みに来るって――こんな口コミを耳にした。

 現地に急行してみる。場所は東白楽駅から歩いて2〜3分、白楽ボウルの裏の旧道沿い。カイズカイブキの垣根の下から突き出たやや太目のパイプ、そこからちょろちょろと…。

 水源をたどると、この辺りの地主・新井一夫さん宅の古井戸。じつはこの水、明治時代、祖父の忠兵衛さんが家作人たちの洗い場として引いたもの。関東大震災や横浜大空襲のとき、焼野原のなか命からがら逃げ惑う重傷の被災者たちの喉を癒し、多<の人々の命を救ったのである。平和になってからも、横浜駅近くの青木橋あたりから大八車を引いてこの水を汲みに来る人が絶えなかったという。

 ヤカンを下げた主婦がよく水を汲む姿が見られたのは、ごく最近まで。ここで洗車をしたり、ゴミを平気で捨てたりする心無い人の存在や、市の厳しい水質検査もあって、今年の春、やむなく水口を閉鎖…。

 明治から1世紀、苦しむ人々を助け、世の移り変わりを見つめてきた歴史の泉=Aなんとも残念なことだ。
           文:佐藤由美(日吉))







  その2.  孝道山と神橋小の祭り


  横浜名物「孝道山の花まつり」

 桜木町行の電車が東白楽駅に近づくと車窓から左の丘の上に京都あたりを思わせる二重の塔や大伽藍、鐘楼がひときわ目立つ。これが孝道教団の本部。

 東白楽駅から上麻生通りを南へ少しゆくと大きな三波石の碑。ここが参道入り口。急な蛇行する道を登ると、途中左手はいま新築工事中の宝蔵大黒天の建物。頂上の広場は一面が大展望台のようなパノラマの光景。気分爽快な眺めである。東に京浜工業地帯、南にハマの新名所ベイブリッジが架かる横浜港、西に丹沢山塊に沈む素晴らしい夕陽、三方が一望のもとだ。
 この景色を見たことのない方は、一度ぜひ足を延ばしてみては…。

 孝道教団は岡野正道大統理(昭和53年天台宗・大僧正)により昭和11年、「みのる法華経・熟益正法」を教義として開かれた。以後、広く全国に信者を得て、一代で今日の基礎を築かれた。

 この教団の数ある仏教行事の中でも毎年4月8日を中心に行なわれる「花まつり」は今や横浜名物の一つ。お釈迦さまの誕生を祝うこの祭りには地元商店街や町内会また企業も参加、全山満開の桜の下、華やかな諸行事が操りひろげられる。



4月の第1日曜日は、恒例の花祭り






















  こちらは神橋小の「神橋まつり」

 ますます核家族化が進む都会…。その子供たちはおじいちゃん、おばあちゃんと接する機会が少なくなっている。たとえ家で一緒に暮らしていても、最近の子供たちは学校に塾にお稽古事にと、お年寄り以上に忙しい子もいる。
  そんな都会っ子が1年に1日、おじいちゃんやおばあちゃんと楽しく遊ぶ日、それが神橋小学校全校児童755名が参加する「神橋まつり」。

 1121日(火)、その第7回目の「まつり」が開かれた。全校各クラスを一巡してみたが、じつに楽しそう。どっと笑い声がもれる教室、歓声が沸くクラス、大声で見物人の呼び込みをする教室…。催しものも、非常にバラエティに富む。紙芝居、射的、モグラ叩き、釣り、焼きイモ、天文教室、人形劇……。クラスごとに工夫をこらした企画、とても全部は見られない。



おばあちゃんと一緒にお手玉作りの教室

 図書室では、地元のお年寄りが生徒たちと遊んでいる。お手玉を作る人、それで遊ぶ人、けん玉の人たちやアヤ取りも。折紙の折り方や笹舟の作り方を教えてもらっている集団も…。男の子たちが群がっているのは竹トンボづくりの実演。その顔は子供も、大先輩たちも夢中、真剣そのものだ。そこには、人生50年の隔たりがあるとは思えない。

 横浜市福祉推進校である同校の校長・青木和雄先生はその目的を話す。
 「教師から与える教育ではなく、児童が自主的活動の中から学ぶこと、これが狙いです。この“神橋まつり”はその活動の一環としての行事でしてね」。
 さらに具体的には「地域のお年寄りには孫たちの活動の模様を知ってもらうこと、また子供たちにはお年寄りパワーとその知恵を遊びの中から学ぶこと」だそうだ。
 高齢化社会が進行する今日、老人の生きがいと孫たちの教育現場とが一体となったユニ−クな実践である。



  その3.  多彩な文化人がたくさんいる街


   文化人を多く輩出している街

 白楽という街は、いわゆる「文化人」と称する人材を多く生み、育てたいう点でも出色の街である。

 女優・岸恵子は篠原西町に、草笛光子は斎藤分町に、と両氏ともこの地で生まれ育った。あの売れっ子作家・五木寛之氏とご高齢でも現役の声楽家・奥田良三先生、音楽家の三宅洋一郎・春恵夫妻などは白幡池の端に住む。作家といえば「木枯し紋次郎Lの作家・笹沢左保さんはこの池畔で生を受けた生粋の人。

 漫画家の先生もいる。36年間も毎日新聞にひとコマ漫画を描き続ける小林治雄さんは白楽の高台に、「ワイルド7」とサッカーで有名な望月三起也さんは斎藤分町に。またこの町には、全国をにぎわす事件が起きると必す登場する先生、社会評論家の赤塚行雄さんがいる。六角橋には「シャープ&フラッツ」のリーダー・原信夫さん。野球ファンならこの人を知らなければモグリ、野球実況中継最多放送記録を更新中の島 碩弥(ひろみ)さん。さらに詩人の近藤 東先生はお元気だろうか。

 白楽の高台には「百万ドルの英語」でお馴染みのJB・ハリスさん、「車椅子の画家さん」で有名な大塚晴康さんらがいらっしゃる。

 誌面の関係でこれで打ち切り。「なぜ、オレを」という方がいたら、ゴメン!

  「非行少年より飛行少年になれ」

   これが理念のヒコ一キ野郎

   鳥越・山森喜進さん(68歳)

 小学4年から模型飛行機を作り始めてその教、約3000機……。そのキャリア・技術・理論、自他ともに認める日本の模型飛行機界の頂点に立つ人だ。模型飛行機に関する本や雑誌の著書も多く、この分野の博士″でもある。



50年以上もヒコーキを作っていると、顔はまだ少年のよう(?)

 大正14年から現在地に住み、38年間東京都庁に勤務した定年後の今は、趣味のヒコーキ三昧の日々を送る。
 自室には設計机があり、設計図面から始める。機種ごとにデータがすべて記録整理してある。自宅には工作室も、格納庫もある。1機仕上げるのに2日で、多い時は年間100機も作ったそうだ。


 製作のほかは、横浜こども科学館で小学生の工作教室の先生をしたり、根岸森林公園や岸根公園で仲間と一緒に愛機″を飛ばして楽しむのだ。
 山森さんが飛ばしていると、どこからともなく1415人の仲間たちが集まってくる。彼らを前に山森さんは言う。「少年に夢を与え、非行少年でなく飛行少年になってほしいですね。父親と広い所で飛ばすことにより親子の対話にもなりますよ」。      文:本田芳治(菊名)


 1世紀を超える生命力、池上クニさん

        港北区篠原西町 101

 明治21年(1888年)520日生まれで、今なんと101歳。ご長男(昭和62年没)のお嫁さんとお孫さん、そして曾孫さん2人に囲まれて幸せな日々を送っていらっしゃる。



横浜市の市制施行前に誕生したクニさん

 最近は足が弱り、−日コタツで若い頃から好きだった編み物をしておられるそう だ。その作品をお子さんやお孫さんたちにプレゼントするのを何よりの楽しみにしていらっしゃるとか。
 「これも母が編んでくださったんですよ」。見事な出来栄えのセーターをお嫁さんは見せる。

クニさんが生まれた明治21年といえば、この年に日本初のビールが横浜で「麒麟ビール」のラベルで発売。翌年人口116千人の横浜市が市制施行で誕生した。横浜にまだ電燈も電話も無かった時代のことだから、彼女はいかに長寿か…。

 「長寿の秘訣は」と伺ったら、若い頃神奈川市場の近くで魚問屋を経営しており、大勢の若い衆といっしょに体を動かし良く働いたのと、今でも食事は好き嫌いなくなんでも食べること、それが健康に良かったのだろうと話された。
             文:中村和子(白楽)











  その4.  白楽の二つの寄席


   桂 才賀の「と味田寄席」

 「と味田寄席」は、白楽駅西口の静岡銀行と喫茶店との間の路地を入った右、「味処・と味田」の2階。毎月第4水曜日の夜8時から2時間、木戸銭1000円。
 当日になると、染め抜きののぼり旗が立つから、場所はすぐわかる。

 ここは7代目「桂 才賀」師匠の定席。桂 才賀といってもわからない向きにはテレビの「笑点」に出ているあの噺家。以前は古今亭志ん朝の門下、朝次であった。



今夜はなぜか艶っぽいネタで終始、才賀師匠

 そもそも彼がなぜここに定席を持ったかというと、じつは、と昧田のご主人・冨田達矢さん(39)と師匠は自由が丘学園高校時代のご学友。ともにカン二ングなどで助け合った仲だ。で、今でも月一(つきいち)で亭主と芸人という関係で助け合っているというウケ。あとは月二、ここへ通ってみればその濃さがわかるというものさ。

会場 神奈川区白楽125味処・と味田 пi4329200


   三遊亭金也の「寿恵尋(すえひろ)寄席」

 つぎは、末広園でやる「寿恵尋(すえひろ)寄席」。
 白楽駅下車5分、六角橋交差点近くの横浜銀行通り。ここは5年前から「月曜会」という経営者のグループが主催し、一時休んでいたが、3月から隔月で再開する。日時は未定だが、木曜日の夕方時開演で3時間。
  木戸銭はお食事付2500円。入場券の半券が抽選券になっていて、中入りに抽選会を行ない、食事しながら大騒ぎする趣向に。

 ここは、円楽門下、「三遊亭金也」師匠の定席だ。
 金也師匠は神奈川大学の学生時代、落研にいて、末広園でよく昼飯を食べたという。つまり、ここを会場としたのは、エサが取り持つ縁。将来も食いっぱぐれがなかろう、そんな下心があったかどうかはわからないが、金也師匠の真打ち披露もここの宴会場で賑やかにやった。



学生時代からのお馴染みのお客さんが多く、どこよりも熱が入る寄席

会場 神奈川区西神奈川391末広園 пi4322492




  その5.  商店街の特徴


  好対照の、仲見世通りとファミリー通り

 白楽駅から六角橋交差点に至る大通りの裏道に、まさに″東横沿線のアメ横″と言える「仲見世通り」がある。

道幅2メートル弱の通りの両側300メートルほどに、間口の狭い店が肩を寄せあうようにびっしり。そこを通行人も肩を触れ合うようにして歩く。この触れ合い通路″の両側は、大半が戦後から続く老舗の専門店がずらっと並んでいるから、初めて行った人は大抵びっくりする。
 それも最寄り品中心の店ばかり。漬物、魚介類、かつお節、国産魚、佃煮、果物、子供相手の駄菓子など、それだけを売る食料品店。傘、カバン、エプロン、履物……どこも品揃えを絞り込んだ専門店ばかり。そのうえ、安く、全蓋アーケードだから傘なしで歩ける。
 夜店の縁日気分を味わいたい方は、白楽駅下車でいらっしゃい!



道幅2bほどの両側に店がびっしり、仲見世通り

 この仲見世通りと直角に交わる、住宅地の中の広い通りが、「ファミリー通り」である。

専門店に変わりはないが、仲見世とは全く逆の雰囲気が面白い。店先の道幅が広い。陽の光をさんさんと受けた明るさ。個店の間口が広い。カタカナの店名が多い。核店舗にスーパー2店がある。店主は初代で若い。





 戦後ヤミ市から発展した仲見世通りが消防法や建築基準法の規制からその限界に達しつつある。そして、その成長力はいま、「ファミリー通り」という若い芽となって、白楽の街は新しい方向に伸びようとしている。



道幅も個店の間口も広い、ファミリー通り

   ラーメン屋と美容院が多い街

 当編集子は毎号の「地域特集」取材でいろんな街を歩き回って見てきたが、商店街の中の業種構成″という点からみると、白楽という街は片寄りがあって個性的だ。

 石を投げれば「ラーメン屋と美容院」に当たるほど、この2業種が多い。
 例えばラーメン屋さん。岸根交差点から東神奈川駅西口駅前までの上麻生道路沿い、また白楽駅から六角橋交差点まで、両方の総延長1キロ強に20軒以上のラーメン屋がある。ざっと、50bに1軒の割りだ。これも神大のある学生の街の特色であろう。また人口比に対して美容院の多さにも驚く。また、金物雑貨店がいやに目立つのもこの街の特徴といえよう。

 逆に少なくて不自由するのは、おソバ屋さん。あえて苦言を呈すれば、2〜3軒はあるが、落ち着いて食べられる本格的な手打ちソバ屋さんが一軒もない。背後にこれだけの住宅地を控え、こういう街も珍しい。

 ちなみに沿線の例をいくつか。旨いおソバ屋さんが多いのは尾山台と大岡山。寿司屋とブティックの多い自由が丘。クリーニング店が多い田園調布と新丸子。酒場が無い妙蓮寺。糀屋・竹屋・箪笥屋・経師屋など職人の店が目立つ菊名。大型衣料品店が多い武蔵小山。歯医者さんが多い綱島。ラーメン屋・ファーストフードの店が繁盛している慶応の学生街、日吉。
 業種構成の片寄りがその街の特徴となり特性となっている。


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