編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.893  2016.02.22 掲載
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地域   「武蔵小山」 ウォッチング
★昭和63年8月発行『とうよこ沿線』第43号「Do You Know 武蔵小山?」から
取材・文:鈴木ゆうこ / 写真:小田房秀

目黒から目蒲線で2番目の駅。

品川・目黒の区境に位置する武蔵小山は、

大きなアーケードの商店街で知られています。

「アーケードの街」と一口に言っても、

いろいろな表情を持っているはず。

歴史に支えられたこの街の、

現在の姿を追ってみましょう。




  その1. 東洋一のアーケード街、武蔵小山商店街では…


   商店街発展物語

 駅前に降り立つと、いつもたくさんの買物客。右手に12メートルの高さのモニュメントの立つ広場。そこから2方向に、パルムのショッピングモールが何百メートルも続いている。

 この武蔵小山商店街(愛称パルム)には、語り尽くせぬ長い歴史がある。
  前号の大岡山・洗足同様、この地も目蒲線開通と関東大震災によって、急激な人口増をみた地域。それと呼応するかのように大きな発展をとげた商店街は、しかし昭和20年の空襲で壊滅的打撃を受ける。ゼロからの再出発を余儀なくされた人々は、焼け跡にバラックを建て、新しくやってきた人々とともに復興を始めた。
 そして昭和31年暮れ、当時東洋一と言われたアーケードが設置され、一躍注目をあびることとなる。全長470メートルの「横のデパート」は、住宅地を背景に発展、昭和40年頃には近県まで商圏が拡大、40万人のお客を抱えるまでになった。
 (詳しくは当サイト沿線風土記をご覧ください)



入口のモニュメントの人形。オルゴールとともに15分おきに動く

    武蔵小山は安い!

 
大発展の裏には、商店主たちのたゆまぬ努力と苦労もあった。さらに、安くて実用的な商品が評判を呼んだこともある。安さの秘密は諸説あるが、ともかくアーケードのどこかで必すバーゲンがあり、人が群がっている。衣料品店が比較的多く、それも気どらない普段着が中心。

 昭和60年に、本通りと銀座通りあわせて延べ1000メートルのカラー舗装と、開閉式アーケード(天候によって天窓がスライドして開く)が完成。明るくあかぬけたお店も増え、キャッチフレーズの「めざしからロココまで」どおり、庶民的で、でも、ちょっぴりおしゃれな街になった。

 さらにこの1月には、イタリアで130年の歴史をもつミラノ商店街と友好提携が結ばれた。
 ところで、パルムで買い物していて、めざすお店がどこだったか分からなくなることはない? 長いアーケード、往復するのも楽じゃない。
  本通りは横道を区切りとして4ブロックに分かれているから、それを目安に、看板を見ていくと確実。



 看板の数字がブロックを示す。駅寄りから部、2部……と数え、4部まである

 

   血塗られて満蒙開拓団の記録

戦前の武蔵小山商店街を築いた人びとの多くは、太平洋戦争終結の2年前、満州に新天地を求めて移住した。そこでどんな悲劇が彼らを待ちうけていたのか……。
 今もひそかに語りつがれ、商店街の人びとの心のささえとなっている満蒙開拓団秘話。

命からがら生還した元副団長・足立守三氏による生々しい記録、壮絶なドキュメントが1冊の本になっている。
 武蔵小山に関心のある人のみならず、生きるということを考える全ての人に一読をおすすめしたい。
  この本のあらすじは、当サイトの「沿線風土記16 武蔵小山商店街 激動のあゆみをご覧ください。

在庫が少ないので、書店で申し込むか、送料とともに直接郵送で申し込むとよい。



「曠野に祈る」 恒友出版
1200円(送料250円)
申込先:〒106 港区六本木31522 恒友出版




















    一番通りから後地へ

 パルム1部と2部の間の通りは一番通り商店街。駅近辺では唯一のスーパー、東急ストアがある。この建物は、品川区荏原第一出張所も兼ねている。道の反対側には朗惺寺。意外に入り口がわかりにくい。東急ストアの並びには、“武蔵小山こども文庫”もある。近くに図書館がないこの地区のために、毎週日曜・水曜・土曜日の午後、本の貸し出しを行っている。

 この道の先が京栄会の商店街で、右に曲がると、朝日地蔵のある後地(うしろぢ)へ出る。タケノコの碑はさらに先を左に行ったところにあるが、分かりにくいので、地図をよく見て行こう。

   これはすごいぞ、PALジェクト

 どうもパルムが伸び悩んでいる。
  今後、消費者と商業者両方にとって望ましい21世紀の街づくりとは、どんなものだろうか…。
  それを検討していこうと、この4月から1年計画でプロジェクトチームが結成された。商店街のメンバーを中心に、商工指事所の診断員や外部講師などを招いて研修会を行ったりしている。



パレムの未来構想を語る、商店街副理事長・国枝博さん(11YA・社長)

 具体的には例えば、通りの商店の業種や商品の構成について。伝統的に、店がびっしり軒を並べ、遊びの空間がない。ゆっくり休めるような飲食店や、文化的な施設も少ない。
  買い物の後、家族でくつろげる場所が欲しい。表通りで難しければ横道にその余地はあるのではないか。
 また、裏の専用駐車場をテナントビルにする構想があるが、ハード面先行でなく、時代の二−ズに合ったソフトの検討が必要ではないか――などなど。

駅前の商店街とその奥の飲食街の再開発も話題になっている。さらに、目蒲線への東横線乗り入れに際し、大岡山から目黒まで急行が停車しないという噂があり、住民の便宜を考えて、「武蔵小山に急行を停車させる会」も発足させたという。

 大きな商店街だけに、全体が一致団結するには困難が多いようだが、パルムの未来のためにがんばってほしい。

    武蔵小山の夜の顔

 駅前通りの奥に見え隠れする「飲食街」は、夜になると活気が出てくる。それほど広くない敷地に無数のバー、スナック、居酒屋がひしめいている。これがほとんど借地の上で商いをしており、権利問題などで再開発の大きなネックになっているようだ。



狭い路地にたくさんのネオンが並ぶ

    許せません、犬のトイレ

 毎日午前1時、人通りの絶えたアーケードを見回る白衣の人物がいる。銀座通りでワンワンランド「マウンテン」を経営する動物研究家・蓮見良夫さんだ。夜になると、この通りで犬の散歩をさせる人が結構いるが、問題になるのはその排泄物の始末。
  尿は異臭を放ち、糞は寄生虫の源となる。見かねて処理を始めてもう20年。以前より良くなってきてはいるが、まだまだモラルの低い飼い主も多い。
 「こんなことをしないですむように、早くなってほしい」と訴えている。



片手にポリ袋、片手に消毒剤を持って、夜のアーケードを歩く蓮見さん


  こんなおしゃれなお店もあるよ!

パルム3部と4部の間を横切るプリンス通り。26号線手前に、通行人が思わずガラス越しに覗きこんでゆく、かわいいお店を発見。

狭いけれど明るい店内には、ノーブルな香りただようベニスの仮面やアクセサリー、銀器、キャンドル、ベネチアグラスの小物、ミニチュアなどがいっぱい! ヨーロッパ気分になっちゃうメリーゴーランドのオルゴールとか、エミール・ガレの貴重なガラス工芸品まであって、思わずうっとり。すべて店主の影山さんのお気に入りの品を集めてあるということで、気さくに相談にのってくれるから、気軽にのぞいてみよう。

 現在、商品は、国産・輸入品をとりまぜているけれど、将来はヨ一ロッパのアンティークものを増やしていきたいとのこと。美しいものに断然こだわってる、こんなおしゃれなお店が武蔵小山にもっと増えると楽しいね。
        「建都」037667753





  その2. 商店街を抜けて品川区域を歩くと…


      平塚橋から旧中原街道へ

 パルム本通りをひたすらまっすぐ700メートル、アーケードが切れたところで中原街道にぶつかる。そばの交差点の名前は「平塚橋」。現在、橋なんかどこにもないけれど、一体これは何の橋?
 実はこれ、碑文谷から流れてきて、後地(小山2丁目)で2つに分かれた品川用水の一方に架けられた橋。戦後、用水路の役目を終え、暗渠化されてしまった。



アーケードの南端を出ると、そこは中原街道の「平塚橋」


撮影:石川佐智子さん(日吉)


 ここは中原街道と、池上からくる仲通りの交点であり、戸越・小山・中延の村境でもあった。その後合併した平塚村の役場がおかれ、官庁街として発展した。現在も税務署・消防署・警察署等が集中している。

 平塚橋の少し五反田寄りから中原口付近までの約1キロ、中原街道の裏に旧道が残っている。首都高速入路にも近く、車の往来が激しい表通りとはうって変わり、昔ながらのたたずまい。今時珍しい和ぼうき店や、古びたしもた屋が並び、道端のお堂にはお地蔵さんと数基の供養塔が……。



昭和13年、旧中原街道の現荏原2丁目17番地

通る車といえば、ほとんど自転車と荷車、静かな町並みです
提供:戸張尚子さん(荏原2丁目)


左に和箒(わぼうき)とスダレの店が…








供養塔群の堂内にあった地蔵。往時をしのばせる風情が…


 その先の星薬科大学。作家・星新一氏の親で製薬王といわれた星量一氏の創設。講堂の建物がステキ。
 講堂の中は、4階まで昇れるスロープがある。






星薬科大学


  昭和20年秋、同年5月25日の空襲で焼け野原

 空襲から半年後の光景。後地小学校の子供たちが朝靄のなか登校する姿が見える。
 右手の店は焼け残ったが、小山2丁目から荏原1〜2丁目方面一帯が焼け野原。焼け跡にバラック小屋。後方のシルエットは焼け残った鉄筋コンクリートの星薬科大学の講堂。
 このときの空襲は、武蔵小山商店街では銀座通りを除き全域を焼き尽くす。
 撮影:石井悌次郎さん(小山2丁目)

   武蔵小山に多いもの!?

 とにかくコインランドリーが多い。都会では減る一方の銭湯もまだまだ、たくさんがんばっている。それだけ需要があるのだろう。周辺は密集した住宅地、アパートも多い。いわゆる邸宅の類いは少ない。

 そして、「○○製作所」「○○工業所」の小さなカンバンがあちこちに。耳をすませば民家と変わらぬ家から「ガチャガチャ」と機械音。こんな小工場が日本の産業を支えているのだろう。

 きれいに耕地整理されてはいるが、高級分譲住宅地だった田園調布や洗足と違い、震災で焼け出された商工業者たちが多く移住したことが、この地を特徴づけている。武蔵小山の物価が安いのもこれと関係ありそうだ。近年は、街にアジア系外国人も多い。





  作品発表は電話局で!?

 中原街道沿いのNTT荏原電話局は昭和初期、碑衾町・馬込町・平塚町町民有志の寄付でできた、付近では最も古い電話局。現在は品川区西部を中心に、7万の利用者をもつ。

 ここは、住民とのふれあいを大切にしたいと、伝言板を設置したり、子どもたちに親しみやすいぬいぐるみを飾ったりと工夫がいっぱい。
 また、営業フロアーの広い壁面を一般に開放、荏原文化センターの文化サークルの作品展などに利用されている。福祉施設で作られたレザークラフトなど、長期間展示して委託販売しているものもある。局ではもっともっと住民の皆さんに利用してもらいたいとのこと。日頃の成果をひとつ、あなたも披露してみては?



絵画などの作品が飾られた壁面。誰でも利用することができる


   名門小山台にも時は流れて…

 駅を西側に降りると、駅前の一等地にドーンと構えているのが都立小山台高校。府立八中として大正12年に開校、校舎建築中に関東大震災・目蒲線開通という大事件。まさに武蔵小山の発展を目のあたりにしてきた学校だ。しかし何しろ当時から、城南地区では屈指の名門、誰でも入れる学校ではなかったようだ。

  OBには元国鉄副総裁・馬渡一真、元防衛庁長官・栗原祐幸、随筆家・斎藤茂太、写真家・秋山庄太郎、元品川区長・多賀栄太郎、評論家・筑紫哲也、衆議院議員・菅直人などなど枚挙にいとまがない。地元商店街では呉服・清水屋の清水仁さんや、ブティック宝屋の鴨志田真宏さんなどが活躍中だ。

 戦後男女共学の新制高校になったが、男子校的な礼儀やおおらかな気風は脈々と受けつがれてきた。雄壮な″棒倒し″″百人ラグビー″のある運動会も伝統行事の一つ。昭和25年頃からは学年縦割りで青赤白黄の4つに分かれ、団長統率のもと、生徒の自主運営で行なわれてきた。

  56年度赤組団長だった前述の鴨志田真宏さんも「みんながその日のために青春を燃やし尽くした」と思い出を語ってくれた。

 しかし57年〜60年の校舎改築に伴い、運動会は一時中断、学校のシンボルだった八角塔も新デザインに変わり、建物ばかりか生徒の質や校風も少し変化してきたようだという。



新しい校舎になった小山台高校。八角塔の位置も変わっている

   奉仕もここまでやれば本物!

 小山台高校北側、品川区立小山台小学校のそばで、毎朝交通整理を行う名物おじさんがいる。交通規則を守らない人・車に対しては厳しく、道ゆく人びとには元気にあいさつ、「毎朝、おじさんの顔を見ないと始まらない」というサラリーマンも。


 この人、小山台1丁自に住む森貞(もり さだ)さん、88歳。昭和26年、長男誕生を機に、調布大塚小学校付近で始め、小山台に移ってきた昭和37年からは25年間ずっとここでやっているという。

 昔に比べて、あいさつのできない子、マナーの悪い車が増えたというが、子どもたちは声をかけてもらって嬉しいらしい。
 校長先生も「本当に助かります」と感謝。森さんに会うと、1日がさわやか気分になりそう。
              (取材:佐藤由美)



交通整理をする森さん。制服も自分でそろえたという



  その3. 商店街を抜けて目黒区域を歩くと…


    庶民的な平和通り商店街

 

 小山台高校の北側の方から26号線を越え、目黒本町4丁目と同56丁目の間をつきぬける賑やかな商店街。

戦前、通りにあった映画館の名前から「富士館通り」と呼ばれていたが、やはりここも空襲で全滅。復興をはかる商店主たちが平和への願いをこめて「平和通り」と名づけたという。

 パルムとは趣が異なり、食料品や日用雑貨を扱う店が多く、下町的な雰囲気。買い物客も主婦が圧倒的に多い。土曜日の大特売日には、遠く自由が丘あたりから買いつけに来る客もあり、商品のあふれる狭き通りは身動きできないほどの大混雑となる。



夕げの買い物客で賑わう平和通り。通りは活気があふれている

 この付近は古くから「月光原」と呼ばれていたが、昭和41年の町名変更で、周辺の向原・清水町・東町などとともに一括して「目黒本町」という味気ない(?)名前に変わってしまった。
 今は学校と住区にその名を残すのみだ。

       住宅地、向原

 
平和通りから目蒲線寄りは、向原住区。

碑文谷や原町・洗足に向かってまっすぐ道がのびる静かな住宅地だ。中央体育館には武道館があり、威勢のいい気合いがいつも聞こえてくる。この脇にあった青年館は最近、向原住区センターに変わった。
 武道といえば、向原小学校の近くの住宅地にある市島柔道場は、かなり有名。昭和29年から延べ1000人を超える子弟を育てたという。道場の壁には、名札がびっしり掛かっている。



 戦災で7年半で閉校、東原小学校の朝礼。昭和19年時

 震災後、武蔵小山駅と西小山駅に近い向原小学校の学区は都心からの移住者で児童数が急増し、収容能力を超えた。その緩和策に写真の東原小学校が開校した。
 一時は児童数が1000名を超えたが、写真の翌年、昭和20年5月の空襲で全焼……。同校は向原小学校に統合され、在校生は向原小学校の生徒に。結局、東原小学校の校名が続いたのは、7年6カ月の短い歳月だった。

 提供:市島柔道館(目黒本町6丁目)






















    立会川の昔と今

 向原小学校の脇を走っているのは、碑文谷八幡から続く立会川緑道。

 立会川はかつて平坦な土地を緩やかに流れ、メダカやコイが泳ぐ、子どもたちの絶好の遊び場だった。岸辺の桜並木も見事だったという。向原小学校あたりは、北からの支流が合流する地点で、よく大水が出たりもした。 昭和39年に改修されて水害はなくなったものの、ゴミを捨てたり、川に落ちたりする人が後を絶たず、結局44年暗渠化されることになり、昔の橋も風景もすっかりなくなってしまった。

 現在、緑道には向原小学校児童と地域住民による「グリーンクラブ」が花壇を作り、コミュニケーションの輪を広げている。



 今では身近な散歩道となった立会川緑道。四季の花が色を添える


   しばしお別れ、林試の森

 筑波に移った林業試験場跡地、目黒・品川両区民に林試の森″として親しまれてきましたが、総合公園として整備のため、しばらく閉鎖。
 新オープンは昭和66年春の予定だとか。



再開が待たれる林試の森

  目黒区長筆による商標入り銘菓!

 

 田舎に行くとき、手みやげに地元目黒の菓子でもあればと思ったことはありませんか?
 実はそれがあるのです。向原小学校そばの和菓子処「つたや一粋庵」の「目黒ばやし」がそれ。作っているのは、梅津健治さんと正吉さんご兄弟。伝統的な文化やお祭りをこよなく愛するお二人は、郷土の貴重な文化を残していこうと、お菓子にこう名づけました。

 梅の酸味と控えめの甘さが調和した上品なお味は、目黒のイメージにもピッタリ(?)。
  祐天寺にもお店があり、そちらの地名をとった「謡坂(うたいざか)」とか、夏場には涼をさそう金魚の水菓子(載せられなくて残念!)とか、オリジナルのお菓子が次々と考案されています。地方に行くとき必す買いに来る常連さんも多いようです。
         つたや−枠庵 037132402



つたやの手づくり菓子
 右:謡坂  左:目黒ばやし

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