編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.892  2016.02.21 掲載
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地域   「緑が丘」 ウォッチング
★昭和63年5月発行『とうよこ沿線』第42号「Do You Know 緑が丘?」から
取材・文・写真:鈴木ゆうこ/小田房秀

 呑川、九品仏川の二つの川(と言っても現在は暗渠化されている)に挟まれた緑が丘は、すぐお隣の自由が丘の喧噪を寄せ付けない、閑静な住宅地。

石坂洋次郎の『陽のあたる坂道』そのまま、南向き斜面に整然と並んだ家々を見ていると、文化人、知識人が好んで多く集まったというのもうなずける。




  その1. 碁盤の目のような整然とした街区、緑が丘


   白亜の向こうに魔の交差点!?

 緑が丘の新しい顔、といえば何といっても昨年緑ヶ丘小学校の脇にできた西部地区プール。緑ヶ丘小との兼用だが、お洒落なデザインのピカピカプールは、泳ぐ気分も最高。

この一帯は、向かいにある緑が丘コミュニティセンター本館・別館(2つの建物で、文化会館、図書館、児童館、幼児館などの施設を収容している)とともに、なかなか充実した一大文化ゾーンを形成している。自家用車でわざわざ遠くから出向く区民も多いという。


清潔感あふれる西部地区プール

しかし、さほど広くない住宅地の道に車が数多く出入りするようになって、ひとつ困ったことが起きた。近くの狭い交差点の角の家の塀、車がしょっちゅうぶつかって壊されてしまうという。やっと修理したと思ったらまた事故。近所の人は、名つけて魔の交差点≠ニいう。



「止まれ!」のカンバンのある“魔の交差点”

  緑が丘のもう一つのシンボル

 緑が丘には、都内でも珍しい6交差点がある。分度器で測ったかのように均等に6方向に道が分かれている景色はなかなか見事。



緑が丘1丁目の6交差点。信号がなかなか変わらないのが難点!? 交差点に面する交番から撮影

 それだけ真っすぐの整った道がのびている証拠だが、これは、大正末期から昭和初期に行われた、地主たちの力による区画整理の成果。なるほど、緑が丘の道路は、その他もみな、碁盤の目のように整然としている。

  緑が丘3丁目は目黒区の尻尾!?

 地図を見れば一目瞭然だが、緑が丘駅南側の呑川沿いの地域、緑が丘3丁目は、世田谷と大田区の境に細長く突き出した形をしている。最も細い部分では、1軒向こうは大田区石川町、反対側の1軒向こうは世田谷区奥沢、という家もある。

 どうしてこんな区境になってしまったのか? 目黒区成立時に編入された碑衾町がすでにこの形をしていた訳だが、古く江戸時代の衾村絵図を見てもこの地域は、呑川ともう1本の小川にはさまれて、石川村と奥澤本村に突き出しているのである。

 当時の田畑所有の関係だったのか、調べてみるとおもしろそうだが、住民にとっては郵便にしろ、なににしろ不便この上ないのではないだろうか。




  その2. 呑川緑道の中根を歩くと…


   呑川沿いに中根方面へ…

 かつて大雨のたびに氾濫をおこし、なんでも呑みこんでしまうから、呑川という名がついた、などという説もある呑川。昭和47年頃改修され、桜やレンギョウなどたくさんの木々が植えられた美しい遊歩道になった。

 この遊歩道沿い、目黒消防署大岡山出張所の向かいの空き地に、この4月住宅総合展示場ができた。「自由が丘住宅公園」と名付けられているが、散歩のついでに寄ってみるのもよいかもしれない。

 その少し先の中根小学校は、緑道をはさんで校舎と運動場が分かれている珍しい学校。児童の急増にあわせて増築した結果、このような敷地になってしまったという。


中央の桜の木は呑川緑道桜並木。緑道を挟み、右手が中根小の校舎、左手に体育館などがある運動場がある。それを桜の木の裏に見える陸橋でつなげている

 撮影:石川佐智子さん(日吉
 中根小脇を東西に走る道が、前述の二子へ向かうかつての主要街道。東へ行くと、鉄飛坂(とっぴざか)、西へ行くとすぐに衾村旧名主・岡田家の立派な長屋門がある。


現在も堂々とした門をもつ岡田衛邸。入り口の木も見事

この裏手一帯が、数百年来岡田衛家の森だった、区立中根公園。5、6月には花菖蒲が見頃。
 このすぐ近くには、巨人軍の王貞治監督の家や、俳人の楠本憲吉さんの家があるほか、かつて三島由紀夫が住んでいた一角もある。








  どんな店かは、お楽しみ

 ちょっと場所は離れるが、緑が丘・大岡山の住民が毎日お世話になっている、NTT自由が丘電話局(中根2丁目)は、とてもユニーク。住宅地にあってひときわまぶしい白い壁、アーチのある前庭には、見事な鯉が泳ぐ池と、かわいらしい噴水もある。カンバン代わりのネオンまでつく。

 中のロビーがこれまた明るく広々としていて、お茶でもしたい心地よさ。ここになんと5月末、パリからテナントがやってくる。もちろん全国のNTT中で初めての試み、しかもヨーロッパ随一の規模を誇るデューティーフリーショップ。電話の相談のついでというだけじゃもったいない。即、行ってみる価値あり!

    栗山家の長屋門のゆくえ

 長屋門といえば、岡田家から2区画ほど南側にあった、区の文化財指定の栗山家長屋門が、なくなってしまった。栗山重治家改築に際して、敷地が掘り返され、大木も枝を落とされてしまった。

 しかし心配ご無用。あれだけの貴重なものが、壊されることは決してない。現在、移転等について検討がなされているが、碑文谷の「すずめのお宿緑地公園」あたりになるかもしれない。



    昭和54年8月、解体移築工事風景

 
この長屋門は解体され目黒区文化財として碑文谷の「すずめのお宿緑地公園」に移築され保存されます

  提供:栗山重治さん(緑が丘1丁目)


  しゃれた街並は帝国海軍の影響?

 木誌34号奥沢特集でも若干ふれたが、柿の木坂〜緑が丘〜奥沢の一帯は、大正から昭和にかけて、帝国海軍の将校たちが多く移り住んだところ。
 俗に「海軍村」と呼ばれていたが、諸外国を回ったことのあるハイカラな帝国海軍の将校たちが、町内会の仕事もやっていたということから、街の雰囲気もちょっとハイカラなのだろうか。


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