編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
   NO.889  2016.02.18 掲載
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地域
  
「二子玉川・上野毛」 ウォッチング

★昭和62年11月発行『とうよこ沿線』第40号「Do You Know 二子玉川・上野毛?」から
取材・文・写真:鈴木ゆうこ/小田房秀


上野毛・二子玉川のイメージって何?

多摩川のせせらぎ、遊園地、花火大会、

電車の乗り換え口、高級住宅街…

それぞれの思い出の数だけ、

イメージもさまざま。

今回は、そんな不思議タウン、

上野毛と二子玉川を徹底リポート!


  その    歴史と文化の街、二子玉川。知っておくと楽しさ倍増

  釣って食べて遊んで……

 戦前、二子玉川は清流の地、多摩川を舞台とする行楽地でした。アユをはじめとして、ウナギ、エビ、ハゼ、ナマズ、コイなど魚は獲れ放題。夕方になると、芸妓、三味線、太鼓などとともに漁師を乗せた屋形舟が漕ぎ出され、舟の上から投網をうち、獲り立ての魚を料理して食べさせたといいます。

 川べりには料亭や旅館が立ち並び、世田谷随一の歓楽街でもありました。旅館は、二子の渡しが通れないときの木賃宿が始まりだったといわれています。行善寺坂(あんか坂)の下にあった柳屋旅館には高浜虚子が立ち寄り、

たらたらと藤の落葉の続くなり

の一句を詠んでいます。
 しかし戦後、多摩川の水の汚染に伴い、魚は激減、高度経済成長とともに料亭の利用者も減ってしまいました。現在は、宝亭(三島由紀夫の小説に登場)など土手沿いの数軒と、わずかな松並木が面影をとどめるだけになりました。

 6年ほど前から多摩川にサケを呼び戻そうという運動が広まり、毎年2月、1530万匹のサケの稚魚の放流が行なわれています。

 



川の端にポツンと残っている料亭

  古い歴史のある二子玉川

 この付近には、史実にもとづく名所・旧跡がたくさんあります。
 後北條氏の家臣・長崎伊予守重光が築いたといわれる
瀬田城二子の渡しなど、今や影も形もなくなってしまったものもありますが、同長崎家の菩提寺、行善寺からの眺め(玉川八景)、新田義興の家臣・由良兵庫助の首が流れ着いたという兵庫島など当時の風景をしのぶことができそうな所もあります。



かつての瀬田城付近にはゴルフ練習場が…

   てくたく歩いてみよう

 これら玉川地区の史跡39か所に昭和615月、高さ80センチの石標が建てられました。玉川地域活動連絡協議会(会長・牟田悌三さん)と地元の協力によるもので、「ふるさとめぐり兵庫島コ一ス」と命名されています。石標側面の文字を拓本にとって集めるための専用ノートが「てくたくぶっく」。各地点の地図や解説もついていて、これ1冊あれば地域の歴史や文化をざっとおさえることができそうです。

この「てくたくぶっく」は、玉川高島屋SC内コミュニケーションスクウエアと区民サービスコーナー、または富士観会館受付で200円で販売しています。

 同会では等々力、九品仏、駒沢などの石標設置も進める予定とのこと。みんなで協力していきたいものですね。また、二子玉川から九品仏への道筋にある金属製案内板は、世田谷区が定めた「おもいはせの路」。これについては、次号「多摩川リバーサイド特集パー卜2」でふれたいと思います。



てくたくコースの石標


     徳川将軍とおケラ

 江戸時代、将軍は、現在のパークアベニユー付近に別荘を構えて、多摩川へ鷹狩りなどの遊興に来ていました。(パークアベニューでは、その庭をユニークな形で保存活用しています。)

 鷹の餌として、当時村人はおケラ(虫のおケラです。知ってますか?)を年貢がわりに納めなければなりませんでした。そのおケラを、目黒鷹番(現在の学芸大学駅がある町名)まで運ぶために入れたのが写真のケラ箱



瀬田の小湊両親閣別院に保存されているケラ箱。希望者は拝観できる

 次大夫堀を鷹追橋で渡って登る玉川神社裏手の坂道に、「まむし沢」の標石があります。大正時代まで田畑ばかりで、キツネ・タヌキ・ウサギなど野生動物の宝庫だったこの辺は、マムシもたくさんいたのでしょう。おケラをとるために、農民の苦労も大変なものだったようです。



行楽客でにぎわう兵庫島。水や緑と調和する公園として整備されています

    昔も今も交通の要地

 江戸中期以降、信仰の山、相模大山へ詣でる大山道は、赤坂から二子の渡しを通っていました。道筋は、時代によって多少変わりましたが、東海道の裏街道として、作物の運搬などにもよく利用されていたようです。
 大正14年、二子橋が開通し、二子の渡しは廃止されました。「じゃり電」と言われた玉川電鉄も橋を通って溝の口まで延び、その後大井町線と接続されて、多摩田園都市への足場となりました。





多摩川を渡る田園都市線

 交通や街の発達に伴い、旧大山厚木街道の国道246号線も人や車が増え、二子橋は交通渋滞の元凶といわれるようになってきました。奇しくも昭和52年、地下鉄化された新玉川線と、新二子橋を通る新246号線バイパスとがあいついで開通、二子玉川の風景を一変させました。



玉川〜二子を突き抜ける二子橋

 東京オリンピックまで桜並木ののどかな通りだった環状8号線も、都心外郭をつなぐ重要幹線となり、関西方面の玄関口・東名高速用賀インターを利用する車も加わって混雑が激しくなってきています。











 

             
  その   二子玉川・上野毛1987年の姿。ちょっとユニークな名所巡り

   車があふれる幹線道路

 前記環八以外にも、解決されていない渋滞地域はたくさんあります。交通量の増加の結果、あい変わらず幅員不足で渋滞の激しい246号、二子橋、多摩堤通り。一方通行や進入禁止が多く抜け道が少ない玉川高島屋・二子玉川商店街周辺などなど。多摩堤通りの土手を取り払い、バイパスをつくろうという構想もあるようです。

 上野毛地区でも、閑静な住宅地の道を渋滞の迂回路として利用する車が多く、騒音や排気ガスが問題が出てきています。また、この付近の地盤がゆるく、振動で玉川高校近くの橋や、住宅の土台が傾いたという話もあります。



いつも混み合う瀬田交差点



    水と緑の施策

 瀬田2丁目瀬田中学校そばに大きなケヤキの木が見えます。
 「大樹・名木コンクール入賞」と「保存樹木」の看板が…。世田谷区では、こんな保存樹木をしばしば目にします。
 これは、区が水や緑と調和した街つくりを進めるために、積極的に打ち出している施策の一つ。
 このほか名木百選・界隈賞の設定、緑道の整備、川の清流化、崖線の緑の保護、川べりの公園化など、水と緑に親しめる環境づくりが進んでいることが分かります。


     二子玉川の駅をスタート

 二子玉川のおもしろいところをさがして歩いてみましょう。
 駅前にマクドナルドがあります。ここは業界で日本一の売り上げだとかいう話です。
 その前を走るのが、二子橋に続く国道
246号線。車が多い道ですが、春、お祭りの頃には街路樹の花ミズキが美しく咲き誇ります。
 この並びに今年できたのが、中・高年者対象という画期的な会員制クラブ・アルパ玉川。囲碁・カラオケ・パソコン・英会話・絵画などの教養・娯楽から社交ダンス・ヘルスジムなどのスポーツ、そして汗をかいた後の温泉、食事、エステティック、さらに会員同志のコミュニケーションスペースなど、あらゆるものが用意されています。これからの高齢化社会、友だちを作り、生きがいを求める場として、なかなか期待できそうです。
 
 
玉川高島屋SCは、昭和44年玉電が消えた直後に誕生したショッピングセンター。郊外型デパートのはしりであり、以後の二子玉川を、ショッピングの街へと導くきっかけも作ったようです。
 テナントもー流店が揃い、よくさがすとユニ−クなお店もあって(例えば食通には、塩分や薫煙材まで指定できちゃうオーダーメイドのハム屋さんとか!)歩いていて飽きることがありません。

   246号の東側を行くと

 瀬田・玉川地区は246号によって東西の行き来が妨げられているような形になっています。高架部分と下の連絡も悪く、なかなか246号を越えられません。

 今回の散策コースでお勧めなのは、瀬田交差点の一歩手前の信号を渡り、瀬田交番わきを入っていく道。246と並行して走っているとは思えないくらい静かで、すてきな通りです。
 アルス瀬田の先のミニ緑道は新玉川線が地下に入るトンネルの上に作られています。ベンチがあって、散歩の休憩に最適。
 ここから駅の方へくだっていく途中の眺めはなかなかきれいですが、もっと眺めがいいのは一段上の行善寺境内からの眺め。国分寺崖線の突端に当たるここからの眺望は玉川八景として昔から知られ、徳川将軍なども立ち寄ったということです。



晴れた日には富士山も見える玉川八景。昔はどんなに眺めが良かったことでしょう


 セントメリーズスクールは在日外国人と帰国子女のために3か国語で授業をする学校。この辺に来ると、いきなり横文字の標識や看板があり、よその国に迷いこんだような錯覚に陥ります。ただ毎朝、送迎の車で道が混雑するのが問題とか。

 そばの法徳寺には故江利チエミさんをしのび、建てられたテネシーワルツの歌碑があります。
 多摩美術大学は彫刻がほどこされたアーティスティックな校舎。でも現在ここにあるのは本部と大学院だけ。学部は八王子に移ってしまいました。

 大井町線の跨線橋を渡るとうっそうとした緑に囲まれてたたずむ五島美術館。寝殿づくりの趣ある建物に、東急の故五島慶太氏のコレクション2千点が納められています。隣は3万冊の蔵書を誇る大東急記念文庫。
 上野毛自然公園は、自然の林の雰囲気を大切にした公園。住宅地のなかで、十分な広さを持っているとは言えないけれど、とても貴重な存在です。
 緑が多く、閑静な高級住宅地の上野毛付近は、奇抜なものはないけれど、落ち着いて歩ける上等の散歩道と言えるでしょう。


     のどかな岡本方面へ

 二子玉川商店街はかつて大山街道だった通りですが、NTT瀬田局から上った高台にはなぜか寺社や教会など宗教関係の建物がたくさん。いつの頃からかここを「聖なる丘」と呼ぶ人が出てきたとか…。

 次大夫堀(丸子川)に沿って岡本の方へ行くと、静嘉堂文庫の入口近くに出ます。ここには三菱第2代と第4代社長だった岩崎弥之助・小弥太父子によって集められた貴重な東洋文化財が収蔵されています。



大正時代の建物にしてはきれいな静嘉堂

そればかりでなく、建物や庭が美しく、ぶらっとのぞいてみるだけでもソンはありません。当初、岩崎家の納骨堂(鹿鳴館と同じ英国人コンドルの設計で、庭内に現存)のそばに、ケンブリッジ地方の民家風の書庫を建てたのが始まり。門から建物までの長い道は、当時、馬車に乗って入ってきたとか。ロマンチック!

 文庫の表門からおんな坂という民家園におりる近道があります。岡本民家園は、江戸中期の農家の生活を忠実に伝えるところ。にわとりを飼い、かまどには火が入って、生きた姿で保存されているのがいいですね。



ほのぼのとした空気が漂う岡本民家園

 静嘉堂文庫入口の前の坂をのぼっていくと、左側に多摩川テラスというステキな集合住宅があります。

 その奥に立派な江戸時代の武家屋敷門があります。現在も管理事務所・集会所として活用されているようです。

 また、ここと聖ドミニコ学園の間の坂は、無名坂と呼ばれています。俳優・仲代達矢の無名塾の若者が、毎朝ランニングをするからとか。


近代建築と調和している武家門


 このあたりから環八方向に行ったところに、区立瀬田農業公園フラワーランドができました。花づくり教室を開催し、区民参加の創作花壇を設けている点が画期的。花のアーチも素敵。

  その    どんどん新しい顔を見せる街。そしてこれからも

 

 ぜったい寄ってみたい最新デートスポット

 二子玉川近辺には、ここ数年、雑誌グラビアにも登場しそうな新しいおしゃれな場所ガ次々誕生しています。そんないくつかをこっそり教えちゃいましよう。

  駅東側では、二子玉川園跡地にできたザ・ホームショウ。住宅展示場、には違いないんだけれど、これがただのモデルハウス群じゃない。いわゆる邸宅ぞろい。
 中でも圧巻はレーガン大統領がアメリカの木材購入推進をはかってもらおうと、東京サミットのときに作らせたサミットハウス。ひろびろとした庭にプール。今の東京じゃこんな所に住めるわけがないけれど、気分だけでも優雅にね。

 駅西側では、まず、今号の「ケーキde-デ−ト」の舞台にもなっているチーズケーキファクトリーに行きたい。昼間はテラスからの多摩川の眺めが最高。夜は夜でムード満点。





道や庭も美しく整備され、ステキ
 

 いきなり場所がとぶけれど、今いちばんおしゃれなデートコースとして注目をあびている場所、それが東名のむこう、砧公園内の世田谷美術館。ちょっと知的な気分にひたったら、庭の彫刻でも見ながらレストランで食事。そのあとは公園の緑の木立のなかを散歩したりとか…。



芝生の中に建物が生える世田谷美術館

 環八をはさんで向い側にはユニ−クなプロムナードいらか道というのもあって、用賀の駅まで続いています。ここもちょっと立ち寄ってみたいところ。






いらか道

 環八を瀬田の方に戻る途中には、話題のアメリカ村。誰が言い出したのかわからないけれど、ここの3軒のレストラン、イエスタデイ・プレストンウッド・デニーズは、ともになっかなかアーリーアメリカンしています。



話題のアメリカ村

  騒々しい環八とはうってかわってドアの中は別世界のようです。

 デ二−ズ隣の住友スリーエムの駐車場では、毎月、リサイクル市民の会によるフリーマーケットも開催されています。パリのノミの市みたいな雰囲気で楽しめそう。

    これからの二子玉川

 急激な都市化によってその性格が大きく変化しつつある二子玉川。はたしてこれからどうなっていくのでしょうか。
 世田谷区では、この自然に恵まれた地域環境を生かして、多様な機能を備えた街づくりをめざそうと、次のような点をテーマとして再開発を進めています。

 まず、三軒茶屋とともに世田谷の中心的な核(東京南西部地域の拠点)として、商業・業務・文化・スポーツ・情報・コミュニティなどいろいろな機能が充実しだ街をめざすこと。
 また、公園や文化施設を整備し、それを結ぶ道は水と緑のあふれた景観を作り出すこと。



昭和60年に二子玉川園が無くなってから暫定的な利用をされている土地

 中でも二子玉川東地区(駅周辺から東急自動車学校付近)についてはかなり具体的な検討がなされてきています。 21世紀の自立都市世田谷の一翼を担う拠点として、42万平方メートルの敷地に事務所・店舗・スポーツ施設をもつ建物を建て、東側にはイベント・コンペンション施設や避難機能・健康増進機能をもつ大きな公園をつくるというもの。予定では昭和66年着工、昭和71年度完成とのこと。

    情報通信最先端はここ

 関西から来て、東京の第一歩をしるす地点、それが東名高速の用賀インター。第二電々の光ファイバーケーブルも通り、降り口のすぐそばには大きなアンテナのある京セラのビルも建ちました。




関西への最短地点(?)用賀インター付近
















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