編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
   NO.886  2016.02.12 掲載
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地域
   
学芸大学(駅地区)」 ウォッチング

★平成元年10月発行『とうよこ沿線』第48号「見たか聞いたか 学芸大学事情」から
編集スタッフ:岩田忠利(取材・文・写真) / 江川 久(取材・文・写真)


 急行停車駅「学芸大学」は、東横線上では東京側のほぼ真ん中。

 平坦な地形と肥沃な土地に囲まれ、古くから近郊野菜の産地として栄えた。だが区画整理事業が終わると、いち早く閑静な住宅地として拓けていった。

 近代は目黒通り、駒沢通り、そして環七と三方を幹線道路に囲まれた交通至便なこの街は、いつも素通りされがち。
 が、今回はここにどんなドラマが隠されているのか、見たり聞いたり、じっくり散策…。

  Story- その   世界に羽ばたく若者

   ボクシング界の雄、笹崎ジム

学芸大学駅西口に出ると、そこは小さなロータリーが放置自転車で埋まっている。その間隙をぬって左折、東横線の高架下の東急コリドールに沿ってゆく。

 3つ目の角にタバコ屋さん、その高架下をくぐった左角が、ボクシングの笹崎ジムのビル。

フライ級・バンタム級と日本人で初の世界の2階級制覇を果たしたファイティング原田もこのジムで、
常人には想像もできない減量とハードトレーニングに励



笹崎ボクシングジムのビル

撮影:石川佐智子さん(日吉)

でいたのだ。もっとも当時はまだビルではなかったが……。

 世田谷区深沢の三田精米店で働いていた原田政彦少年は、学芸大駅前周辺にお得意先があり、よく自転車でこの辺りをご用聞きで回っていた。仕事に疲れると、自転車に跨がってはジムでの練習風景をのぞき込んでいた。

 このビルのオーナーは、ボクシングフアンならだれでも「槍の笹崎」はご存知、往年の名選手で名トレーナーだった笹崎タケシさん。



昭和37年10月10日、日本に10年ぶり、世界王者誕生!

 愛弟子ファイティング原田がポ−ン・キングビッチ(タイ)を11回KO、10年ぶりに日本に史上最年少の世界フライ級チャンピオンが誕生。抱き上げるメガネの人が笹崎会長。蔵前国技館に舞った座布団は百数十枚      提供:笹崎タケシさん


かれが育て世に送り出した名選手は数知れず、日本のチャンピオンだけでも、ここに紹介しきれないほどの数。戦後初の東洋フェザー級王者・金子繁治、東洋ミドル級の王者・海津文雄、ウェルター級のムサシ中野、J・ウェルター級のライオン古山、原田の弟・牛若丸原田……。なかでも変り種はフライ級王者、斉藤清作。引退後は″たこ八郎″の芸名で奇優ぶりを発揮、ブームを呼んだ。かれの自伝はNHK銀河ドラマで放映され、また人気が盛り上がった。が、その直後の昭和60724日、真鶴海岸で水死、44歳だった。

 人に歴史あり、場所にドラマありだ。戦後の日本ボクシング界をリードしてきた笹崎ジム、若い諸君が後学のために見学しておくのもよいだろう。


   全国を熱狂させた古橋之進

 碑文谷池のすぐ西隣には、日本大学水泳部の合宿所とプールがある。戦後の日本水泳界をつねにリ−ド、世界に挑戦しつづけてきた名門。戦前生まれの世代なら、古橋広之進・橋爪四郎・浜口喜博の名は懐かしく思い出されることだろう。

 なかでも古橋は、敗戦でうちひしがれた全国民に勇気と希望を与えた希有の人物だった。第1報は、昭和2289日夜、神宮プールからだった。弱冠20歳の日大生、古橋広之進が400b自由形で世界新記録″を打ち立てたのだ。会場には3千人の観衆にまじり時の片山哲首相の姿もあった。4分388……場内アナウンスで世界新記録が告げられると場内はどっと沸いた。
  古橋の力泳に身を乗り出して見入っていた首相は、感激のあまり田畑水連会長に「私からトロフィーを贈りたい」と異例の申し入れをして、話題となった。


全米選手権でスタートする古橋、22歳
 全国民がアメリカからのラジオの実況放送に熱狂したのは、その2年後。昭和24816日から4日間のロサンゼルスの全米水上選手権大会であった。
 
古橋は1500メートル自由形で公認世界記録を、なんと398も短縮する驚異的世界新記録を樹立した。
 翌日の400メートルも、最終日の800メートルも、かれは世界記録を大幅に縮めて圧勝したのだった。


昭和24年8月、全米水上選手権ロス大会で世界新記録を連発した古橋(左)と2位の橋爪(右)

 転載:『日本大学水泳部60年のあゆみ』

 日本勢は浜口が200メートルに優勝、800リレーでもアメリカを寄せつけなかった。以来古橋は「フジヤマのトビウオ」と呼ばれるように。

 往年のトビウオはいま、母校水泳部のプールに近い学芸大学駅西□の住宅地に住み、日本水連の理事長として後進の指導に励む。また浜口氏は目黒に住み、目黒区水連会長として地域のスポーツ振興にも力を貸している。












  なぜ強いのか? 日大水泳部と食用ガエル
                 

 当時、日大水泳部の選手だけがなぜこんなに強い? と不思議がられたものだ。
  敗戦直後のこの時代、お金があっても物が手に入らない。学芸大の街に肉や魚が少々あっても値段が高い。ましてや貧乏学生には手が届かない。

 合宿所隣の碑文谷池の食用ガエルを食べていた、とそれがどこからともなく言いふるされて、
 「日大の水泳が強いのは蛙を食べて水かき″ができたからだ」
 と、まことしやかなデマが飛び交うほどだった。



碑文谷公園の隣にある日大水泳部の合宿所とプール

 事実、日大水泳部OBの思い出話にこんなことが……。

 夜半になると、碑文谷公園の池や合宿所のプールから食用ガエル″の異様な鳴き声が聞こえる。と、すかさず2階の先輩が大声で、
 1年生、誰かいないか! この網でカエル6匹あげてこい!」
 との命令だ。数名の1年生が外に出て、たちまちカエルをバケツに入れて先輩の部屋へ。先輩はいつの間に用意したのか、七輪に炭火が真っ赤に燃えて、ピカピカの小刀とまな板が出ている。脂ぎった肉がほどよく焼け、タレをかけると合宿所の隅々にたまらない匂いが漂う。
「おい、カエルあげてきた奴から食え!」
 と焼きたての食用ガエルを差し出されて、あっという間にたいらげた--

 こんな食生活と戦績との因果関係はともかく、戦後から今日まで日大水泳部の碑文谷プールからは、次々と名選手が誕生した。
 前述の古橋・橋爪・浜口のトリオに続き、古川勝・石本隆・鈴木弘・後藤暢・富田一雄・石原勝記、そして女性では木原光知子、シンクロの小谷美可子・田中京と多彩である。

  Story- その      隠れた先輩たち

 「すずめのお宿緑地公園」を遺した女性

  碑文谷公園を南下して目黒通りを横切り、トキワ松学園の南方が当地。
 昭和の初めまで、この周辺は目黒区でも有数の竹林で、そこが雀のねぐらになっていたので、いつしか「すずめのお宿」と呼ばれるようになったのだと由来にある。

 独り暮らしをしていた角田セイさんは昔からこの辺一帯の有力な地主の子孫。日頃から「地所はお国のものです。お国にお返しするものです」と言っていたセイさんが昭和49年に病死し、遺志どおり約7200平方メートルの敷地(当時の時価35億円)が国に贈られ、それを目黒区が借り受け管理しているという。



角田セイさんのお屋敷だった「すずめのお宿 緑地公園」の入り口

 竹は孟宗竹。その昔、この近辺の農家の特産は竹の子だったという。竹のほかに樹齢100年を超えるケヤキ・シラカシ・ムク・シイなどの大木が300本余りあり、その木々に集まるメジロ・シジュウカラ・ツグミ・キジバトなどの野鳥が約20種。
  公園内の散策道は整備され、ベンチも完備、森林浴ならぬ竹林浴が楽しめる。

 なお、園内には江戸中期の名主宅として知られた目黒区緑が丘の栗山重治家の家屋を移築し一般公開。月曜日以外の9時から 夕方4時半まで自由に参観できる。


寄贈者「守屋善兵衛」の名を冠した守屋図書館

 
学芸大学駅から駒沢通りに出て祐天寺方面に向かい、左側に見える建物がそれ。

最初の建物は2階建ての洋館。これを建てたのが製紙業や林業、火災保険などで財をなした守屋善兵衛さん。ドイツ語を学び、翻訳図書も多数あるインテリで、『台湾日日新報』『満州日日新聞』を発行した言論人であった。

 没後10年に守屋邸は目黒区に寄贈され、保健所を経て、昭和274月に目黒区立守屋図書館となった。33年には旧館前庭に鉄筋の図書館を新築、46年守屋教育会館も併設された。
 さて、この図書館、2年後にはコンピューターをフル活用した貸出中心の図書館としてお目見えする。会館は平成3年7月予定。




現在の目黒区立守屋図書館

 利用者間の交流は盛んで、昭和30年発足の「目黒区郷土研究会」(会長佐々木松栄氏)は今も毎年『郷土目黒』(編集委員長・安藤喜代見氏)を発行し地道な活動を続けている。同会に関心のある方は入会のしおりがこちらにあるのでどうぞ。

 寄贈された建物は取り壊されても、その名を冠して立志を伝えている。

 ダンボールを集める“カラスのおばさん”

 東口駅前に近い民家の軒先に1台のショピングカーがあり、その横に、
 「資源の乏しい日本です。物を大切にしませう」
 と書いてある。

この主が黒のブラウス、黒のスカート、黒一色のいでたちで雨の日も風の日も毎日、ダンボールや古新聞を集めて歩いている。近所ではこの人をカラスのおばさん″と呼ぶ。ご本人は、 小堀さとゑさん(77歳。鷹番2丁目)である。

 



黒づくめの服装で作業するカラスのおばさん、小堀さん

 朝2時半起床。前日のダンボールの空き箱を一定のコースで順に商店から集めて回る。その後、5時から三谷会館の早起き会に出席。朝食後は近所を巡回。また夜は、終業後の商店回り。1日おきにトラックが回収に来るが、トラック1台分で2干円〜3干円の売り上げ。

 これでは商売にはならないが、彼女の仕事はボランティア。売上げの全額を渋谷の日本赤十字社に寄付してしまう。これも寄付好きな彼女の自発的行為だが、「健康維持のため」でもあった。
 「笑っている人もいるかも知れませんが、ひと様には味わえない満足感がありますよ。楽しいですよ」
 と、小堀さんはさり気なく。

 


  Story- その   さぁ、行ってみよう! この名所

   桜の名所、碑文谷八幡宮

 碑文谷八幡宮は、旧碑文谷村の鎮守で応神天皇を祭る。鳥居をくぐると長い参道には小石を敷きつめ、両側は古木の桜並木、春は花見客で賑わう。境内7000平方メートルはくまなく清掃が行き届き、気分がよい。



桜が満開の碑文谷八幡宮

 石段をあがると正面に社殿。延宝2年(1674)に建立、今の社殿は明治20年に改築されたもの。その右手の稲荷神社との間に、碑文石が置かれている。この石が発見されたことから、この地に “碑文谷”という地名がついたという。そんないわくつきの石だが、これは明らかに石仏の一種で、神社に置かれた仏様はいかな気分か。碑文石には、勢至・観音の両菩薩を従えた大日如来が種字(サンスプリット語のの頭文事)で彫られている。
 秋の大祭915日は、各町内のみこしや山車が繰り出され境内は活気づく。

  都内最古の木造建築物がある!

碑文谷八幡の参道を出て立会川縁道を東に進めば円融寺の山門。嘉祥元年(848年)、慈覚大師により開かれた寺だというからまさに古刹である。

 東京23区内で最も古い木造建築がこの境内にある。“釈迦堂”だ。室町初期の建立といわれるが、よくぞこの平成の時代まで残ったものである。裏には今風の建築阿弥陀堂″がありその対比が面白い。



都内最古の円融寺釈迦堂

 仁王門の仁王像は江戸時代末期、「碑文谷黒仁王さん」と呼ばれ、民家の信仰を集めたというが、普段は、少しのぞいたくらいでは何も見えない。
 仁王様は見られずとも、円融寺境内には石仏がいくつかあり、楽しめる。五重石塔≠ヘたいしたものだ。
 真に古いモノと、実は古くないモノとがこの寺では渾然と。

  だれでも出入りできるサレジオ教会

 神田正輝・松田聖子の結婚式で全国の注目を浴びたサレジオ教会(碑文谷カトリック教会)だが、白とブルーのロマネスク様式の大聖堂は、わが国屈指の規模と優美さを誇り、遠くからもー目瞭然。



高さ36.4bの鐘塔が木立の中に映える

撮影:石川佐智子さん(日吉)

 この教会が完成した頃に発見された聖母像「江戸のサンタマリア」は、祭壇に掲げられている。この絵は銅板に描かれた油絵で、激しい切支丹弾圧の江戸中期に単身潜入して布教活動をしたイタリア人神父が持っていたもの。わが国最古のサンタマリアの絵という。

 正面の扉が閉まっていると、聖堂内の見学はできないものと諦めている人がいるようだが、入口は右手の奥、だれでも出入りできる。江戸のサンタマリア像″をはじめ、祭壇・彫刻など一見の価値あり。
 教会では毎日ミサが行われ、自由に参加できる。

















  目黒区で最古の公園「碑文谷公園」

 東横線車窓から眼下に見えるこの公園は、目黒区内で最初のもので昭和71010日開園したと園内の碑に記されている。


 碑文によれば、もとは碑衾町碑文谷の共有地で、公園の大部分を占める池は立会川の源流だった。 この水は下流一帯の田を潤す水源として重要で、管理は各地からの池総代によってなされていた。 昭和7年101日碑衾町の東京市併合と同時に東京市に寄付され東京市域の公園のさきがけとなった。



  昭和10年当時の碑文谷池
当時は東京横浜電鉄が目黒区から借り受け、鯉を放ち釣り堀と貸しボートを営業していた
  提供:塩崎勝可さん(鷹番1丁目)

 現在は目黒区が管理しているだけあって、貸ボート30分間100円と安い。いま工事中の子ども動物広場″にはいろんな小動物がいる。以前はポニーの引き馬″が100円で乗れ、ちびっこの人気の的だった。今でも早朝はお年寄りの散策の場であり語らいの場、そして多くの住民がラジオ体操やジョギングでその日のスタートを切る場所でもある。

 この公園を初めて訪れたとき、私は疑問を抱いた。注ぎ込む川もないこの池の水は、なぜ涸れることがないのだろうか……。
  公園の西隣に住む道間正治さん(74)に尋ねた。

「昔は公園の周囲は湿地帯で湧き水を集めた小川が流れ込んでいました。今は湧水は如雨露(じょうろ)で水を注ぐほど、チョロチョロ。動物小屋の裏にあるポンプで地下水を汲み上げ絶えず補充しているんですよ」。
  案内された池の端を見ると、確かに清水″が申し訳程度に湧き出ていた。


  地名「下馬」と芦毛塚

文治5年(1189)に源頼朝が奥州征伐の際、現在の目黒区と世田谷区の境、世田谷区下馬5丁目41番地先の沢を芦毛の馬に乗ってて渡ったところ、その馬が深みにはまり、そのまま死んでしまった。その馬を埋めた塚を「芦毛塚」と呼び、今もその場所に史跡として残っている。
 頼朝は以後この沢を渡るときは必す馬を引いて渡るよう命じたという。このことから「馬引沢」という地名が生まれたのだそうだ。

 馬引沢の地はその後「上馬引沢」「下馬引沢」の2つの村名となり、その後「上馬」「下馬」と短縮され現在に至る。当サイトの地名、桑原芳哉著F「沢の話」をご覧ください。


  頼朝が松に馬をつないだ駒繋神社

 西口から徒歩20分、学芸大附属高校の先の左側住宅地、蛇崩川緑道の端に駒繋神社がある。前述の頼朝が愛馬の死を不吉だとして境内の松の木に予備の馬をつなぎ、社前にぬかずき戦勝祈願をしたという。

 この故事にちなみ、明治の頃から村人は「駒繋神社」と呼ぶように。

その伝説の松はすでに13代目駒つなぎ松」として境内にそびえる。
 また表参道入り口にあたるモダンな住宅地の公道上に捕物の十手に似た形の「十手の松」と呼ぶ古木、この一本松がそこに高くそびえ立つ様は現代では不釣り合いで面白い。



住宅地の道路上に生えている「十手の松」

  城南地区を代表する屋敷門と槙

 駒繋神社の近くに真言宗西澄寺という寺があり、そこの山門は時代劇にでも出てきそうな見事なもの、時代を感じる。



西澄寺山門(都重要文化財)。城南地区にはこれと並ぷ備前池田家の表門だった下丸子の蓮光院の門がある

大正13年に港区の旧蜂須賀家の武家屋敷門を移築し、都重要文化財。10万石程度の大名屋敷門の形式・構造・装飾を備え、むかし格式の表現であった門をこうして身近で見られるのは、うれしい。

 その門をくぐった左手に威圧されるような巨大な槙(まき)の木が……。伝説では弘法大師が諸国巡行の際、ここを聖地とみて薬師堂を建て、その脇に槙を植え、その根底に薬師像を埋めたという。この巨木の勇姿は、この伝説が真実味を帯びてくるから不思議だ。

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