桜の名所、碑文谷八幡宮
碑文谷八幡宮は、旧碑文谷村の鎮守で応神天皇を祭る。鳥居をくぐると長い参道には小石を敷きつめ、両側は古木の桜並木、春は花見客で賑わう。境内7000平方メートルはくまなく清掃が行き届き、気分がよい。
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桜が満開の碑文谷八幡宮 |
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石段をあがると正面に社殿。延宝2年(1674)に建立、今の社殿は明治20年に改築されたもの。その右手の稲荷神社との間に、碑文石が置かれている。この石が発見されたことから、この地に “碑文谷”という地名がついたという。そんないわくつきの石だが、これは明らかに石仏の一種で、神社に置かれた仏様はいかな気分か。碑文石には、勢至・観音の両菩薩を従えた大日如来が種字(サンスプリット語のの頭文事)で彫られている。
秋の大祭9月15日は、各町内のみこしや山車が繰り出され境内は活気づく。
都内最古の木造建築物がある!
碑文谷八幡の参道を出て立会川縁道を東に進めば円融寺の山門。嘉祥元年(848年)、慈覚大師により開かれた寺だというからまさに古刹である。
東京23区内で最も古い木造建築がこの境内にある。“釈迦堂”だ。室町初期の建立といわれるが、よくぞこの平成の時代まで残ったものである。裏には今風の建築阿弥陀堂″がありその対比が面白い。
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都内最古の円融寺釈迦堂 |
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仁王門の仁王像は江戸時代末期、「碑文谷黒仁王さん」と呼ばれ、民家の信仰を集めたというが、普段は、少しのぞいたくらいでは何も見えない。
仁王様は見られずとも、円融寺境内には石仏がいくつかあり、楽しめる。五重石塔≠ヘたいしたものだ。
真に古いモノと、実は古くないモノとがこの寺では渾然と。
だれでも出入りできるサレジオ教会
神田正輝・松田聖子の結婚式で全国の注目を浴びたサレジオ教会(碑文谷カトリック教会)だが、白とブルーのロマネスク様式の大聖堂は、わが国屈指の規模と優美さを誇り、遠くからもー目瞭然。
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高さ36.4bの鐘塔が木立の中に映える
撮影:石川佐智子さん(日吉) |
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この教会が完成した頃に発見された聖母像「江戸のサンタマリア」は、祭壇に掲げられている。この絵は銅板に描かれた油絵で、激しい切支丹弾圧の江戸中期に単身潜入して布教活動をしたイタリア人神父が持っていたもの。わが国最古のサンタマリアの絵という。
正面の扉が閉まっていると、聖堂内の見学はできないものと諦めている人がいるようだが、入口は右手の奥、だれでも出入りできる。江戸のサンタマリア像″をはじめ、祭壇・彫刻など一見の価値あり。
教会では毎日ミサが行われ、自由に参加できる。
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目黒区で最古の公園「碑文谷公園」
東横線車窓から眼下に見えるこの公園は、目黒区内で最初のもので昭和7年10月10日開園したと園内の碑に記されている。
碑文によれば、もとは碑衾町碑文谷の共有地で、公園の大部分を占める池は立会川の源流だった。 この水は下流一帯の田を潤す水源として重要で、管理は各地からの池総代によってなされていた。 昭和7年10月1日碑衾町の東京市併合と同時に東京市に寄付され東京市域の公園のさきがけとなった。
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昭和10年当時の碑文谷池
当時は東京横浜電鉄が目黒区から借り受け、鯉を放ち釣り堀と貸しボートを営業していた
提供:塩崎勝可さん(鷹番1丁目)
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現在は目黒区が管理しているだけあって、貸ボート30分間100円と安い。いま工事中の子ども動物広場″にはいろんな小動物がいる。以前はポニーの引き馬″が100円で乗れ、ちびっこの人気の的だった。今でも早朝はお年寄りの散策の場であり語らいの場、そして多くの住民がラジオ体操やジョギングでその日のスタートを切る場所でもある。
この公園を初めて訪れたとき、私は疑問を抱いた。注ぎ込む川もないこの池の水は、なぜ涸れることがないのだろうか……。
公園の西隣に住む道間正治さん(74)に尋ねた。
「昔は公園の周囲は湿地帯で湧き水を集めた小川が流れ込んでいました。今は湧水は如雨露(じょうろ)で水を注ぐほど、チョロチョロ。動物小屋の裏にあるポンプで地下水を汲み上げ絶えず補充しているんですよ」。
案内された池の端を見ると、確かに清水″が申し訳程度に湧き出ていた。
地名「下馬」と芦毛塚
文治5年(1189)に源頼朝が奥州征伐の際、現在の目黒区と世田谷区の境、世田谷区下馬5丁目41番地先の沢を芦毛の馬に乗ってて渡ったところ、その馬が深みにはまり、そのまま死んでしまった。その馬を埋めた塚を「芦毛塚」と呼び、今もその場所に史跡として残っている。
頼朝は以後この沢を渡るときは必す馬を引いて渡るよう命じたという。このことから「馬引沢」という地名が生まれたのだそうだ。
馬引沢の地はその後「上馬引沢」「下馬引沢」の2つの村名となり、その後「上馬」「下馬」と短縮され現在に至る。当サイトの地名、桑原芳哉著F「沢の話」をご覧ください。
頼朝が松に馬をつないだ駒繋神社
西口から徒歩20分、学芸大附属高校の先の左側住宅地、蛇崩川緑道の端に駒繋神社がある。前述の頼朝が愛馬の死を不吉だとして境内の松の木に予備の馬をつなぎ、社前にぬかずき戦勝祈願をしたという。
この故事にちなみ、明治の頃から村人は「駒繋神社」と呼ぶように。
その伝説の松はすでに13代目駒つなぎ松」として境内にそびえる。
また表参道入り口にあたるモダンな住宅地の公道上に捕物の十手に似た形の「十手の松」と呼ぶ古木、この一本松がそこに高くそびえ立つ様は現代では不釣り合いで面白い。
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住宅地の道路上に生えている「十手の松」 |
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城南地区を代表する屋敷門と槙
駒繋神社の近くに真言宗西澄寺という寺があり、そこの山門は時代劇にでも出てきそうな見事なもの、時代を感じる。
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西澄寺山門(都重要文化財)。城南地区にはこれと並ぷ備前池田家の表門だった下丸子の蓮光院の門がある
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大正13年に港区の旧蜂須賀家の武家屋敷門を移築し、都重要文化財。10万石程度の大名屋敷門の形式・構造・装飾を備え、むかし格式の表現であった門をこうして身近で見られるのは、うれしい。
その門をくぐった左手に威圧されるような巨大な槙(まき)の木が……。伝説では弘法大師が諸国巡行の際、ここを聖地とみて薬師堂を建て、その脇に槙を植え、その根底に薬師像を埋めたという。この巨木の勇姿は、この伝説が真実味を帯びてくるから不思議だ。
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