編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
   NO.884  2016.02.10 掲載

    
久が原・千鳥町」 ウォッチング

★平成3年4月発行『とうよこ沿線』第53号「見たか聞いたか久が原・千鳥町」から


           

         碁盤の目のような高級住宅地、久が原


駅舎の東口に直線で延びる久が原銀座商店街。その裏手には、広い道路の両側に緑の多い大きな屋敷に個性的な住宅が建ち並ぶ。碁盤の目のような四角の住宅街区が幾重にもなり、初めての人はきっと道に迷うことだろう。道を訊こうにも通行人がいない。ただ、閑静な住宅地がどこまでも続く。

 久が原の隣町、雪谷に住む建築家・清家 清さんが、以前こんなことを言っていた。
 「数十年前、この辺の住宅地を大企業の勤め人にたとえれば田園調布は社長クラス、久が原は部長クラス、雪谷は課長クラスが住む地域と言われたものですよ」
  土地高騰の現在、果たして大企業の課長さんならこの久が原に住めるのだろうか。









 「久が原」の地名は江戸時代の文献では「久河原」と記されている。が、地元の古老の説では「木の原」に由来するという。
 久原小学校の周辺は、ケヤキの巨木が旧家らしき屋敷の周囲に残り、とくに緑の多い地域である。「木の原」という地名の由来を裏付ける、森や林の続いた往時の名残なのだろうか。    文・写真:岩田忠利



ケヤキの大木が残り「久が原の地名の由来も連想させる住宅地の一角、久原小学校隣

「末広駅」、「光明寺駅」、「慶大グラウンド前駅」は、どこの駅?


 久が原駅西口の改札を出ると、そこのアーチに「末広商店街」と書いてある。

環八に向かう直線の商店街がなぜ末広がりの末広商店街なのか、地元の人に訊ねてみた。
 昭和3年に池上電鉄が蒲田〜五反田間を開通させた頃、現在の久が原駅は「末広駅」と呼んでいたためなのだそうだ。
 その後、「東調布駅」に改称し、さらに池上電鉄が目蒲電鉄に吸収合併された昭和11年には「久ケ原駅」(昭和41年「久が原駅」)となったという。




 駅名の変遷といえば「千鳥町駅」も、最初は鵜の木の光明寺の参道が駅前まで続いていたために「光明寺駅」。のち、現在の千鳥2丁目南部に昭和13年頃まで慶応大学の野球やサッカーのグラウンドがあったことから「慶大グラウンド前駅」と呼んだ一時代もあった。
    文:岩田忠利



慶大グラウンド前駅(現・千鳥町)

       今もこんこんと湧き出るウマい水


 久が原の台地は快適な住宅地として有名だが、ここは古代人にとっても住みやすい地域であった。その証拠の数々は埋蔵文化財として久が原の各地から発見されている。
 すでに今から2000年前の弥生時代、久が原台地には1000軒を超える大集落があったという。これは竪穴住居址群の久ケ原遺跡″が物語る。

 生活上で何よりも大切なものは水″ーー。久が原台地の斜面からは地下水が随所で湧き出ていた。千鳥町駅近くには清水が六郷用水に流れ込んでいたことから″清水橋″。久が原5丁目の宮田静雄家には清水が湧き出ていて屋号が″清水″と呼ぶなど。

 久が原特別出張所の下にある本光寺、その境内にある七面堂の湧水″は今でも、どんな日照りにも絶えることがない。しかも、保健所の水質検査でもお墨付きの湧水であるうえに、じつに美味しい。この味を知っている人が、ほっておくはずがない。晩酌のウイスキーの水割り用にもらいに来る旦那さま、ポリタンクを車に積んだ喫茶店・寿司屋・スナックなどの主人たちが、いくばくかのお賽銭を置いては定期的に汲んで行く。








本光寺の七面堂の湧水
イラスト:江川 久

 ここから北へ数百メートル離れた三木兼吉さんの敷地内からも清水が湧き出ていたが、これが今、久が原清水坂児童公園内の泉となって一般公開されている。また、同じ2丁目内の中島正治さんの畑にも枯渇寸前ではあるが、農業用の湧水池が残っている。
 こうして清水が今でも湧き出ていることは、東京砂漠の、まさに心のオアシス!
    文:岩田忠利


 料亭の女将が伊藤博文公の死を悼んで建立 久が原出世観音


久が原はその昔、江戸郊外の農村地帯で東に池上本門寺、西に富士山が望める風光明媚な地であった。

 築地の料亭喜楽″は3000坪の別荘をこの地に設け、明治初期の高級官僚や有名人に休養を兼ねて来遊させていた。とくに、明治の元勲・伊藤博文公はご贔屓にされ、しばしば訪ねていた。その度に喜楽の女将・伊藤きんは、大歓迎し手厚くもてなしていたという。

 ところが明治42年、伊藤公は満州視察の折、ハルビン駅頭で朝鮮独立運動家・安重根に暗殺されてしまった。
 その死を痛く悲しんだ女将は、その冥福をひたすら祈るため如意輪観世音を吉野の本山から勧進して移し、久が原のこの別荘敷地内に建立した。
  やがて喜楽も代替わり、女中頭の木村さくが女将となり料亭も「新喜楽」と改めたが、この観世音は引き続き信仰していた。


 その後、料亭は戦災で焼失。観世音は久が原のガラス屋のご主人・村井さんが堂守となり守ったが、戦後の経済的困窮から土地は野村証券の保有するところとなった。

 しかし同社の特別な計らいで観世音だけは現在地に確保された。これを期に堂守の村井さんは、2人の女将の信仰による徳をたたえて「出世観音」と改称し、広<世間に広めたのであった。

 文・三木兼吉(久が原連合町内会・会長)


     アメリカから千鳥町にやって来た大学


 千鳥町に取材で初めて足を踏み入れたとき、外人さんの多いのに驚いた。昼食をと食堂に行けば、3人の外人が私の横に座り、サバの焼魚定食を注文した。
 店の主人に聞けば、「みなさん、最近千鳥町にできたアメリカの大学の先生たちですよ。テレビコマーシャルやってるでしょう」。なるほど、これがあのCMでお馴染みのライオグランデ大学日本校かと知った。

 早速、駅から2分ほど、池上線の線路沿いにある真新しいキャンパスを訪ねた。
 本校は米国オハイオ州にあり、114年もの伝統のある総合大学。その日本校は昨年4月に開校したのに、学生数は1年生だけで1250人もいるそうだ。



池上線沿いにの千鳥町に新設したライオグランデ大学日本校の校舎

 授業は、個性を大切にして創造力を育てるアメリカ式で、ネイティブスピーカーによる1クラス約20人の能力別小人数英語授業。アメリカの本校と同じ単位制を採用しているため、やる気と能力次第では4年制の学位を3年ないし38か月で取って卒業することもできる。さすが米国、日本の大学とは違う。


 この大学は、実社会での即戦力となる人材の育成をめざしているため、英語力を身につけたうえで専門コース(9の学科)へ進むシステム。日本で4年間勉強しても米国本校に留学しても全く同じ卒業証書が授与される。

 なお、英語が得意な外国人や日本人の帰国子女、また入学時の英語学力優秀者には英語の単位を減らすなどの特例や途中入学を許可する制度もあるそうだ。



ライオグランデのキャンパスで先生と学生


 いま、諸外国の日本への関心や期待は高まるばかり。私たち日本人はあらゆる分野に国際的視野を持つことが急務なのだ。     文・写真:岩田忠利

 ライオクランデ大学日本校に関心のある方は
フリーダイヤル0120030690 
大田区千鳥1-13-15


        地域活動に生きる マメな町会長


 平川I夫さん(66)が久が原〜千鳥町間の南久が原に住み始めたのは45年前。昭和2011月戦地から復員し埼玉県八潮市に帰ったが、すぐに上京した。

 当時この辺りは焼け跡を畑にして野菜を作り食糧の足しにしていた。平川さんは焼け残った工場に勤め、3年後には小さいながらも工場を持って独立する。一時は従業員15人ほどの規模にもなった。

 裸一貫での上京以来、お世話になった地域の皆さんへの感謝の気持ちから昭和42年、町会青少年部長を引き受け、活躍した。これが地域ボランティア活動の始まり。
  その後、千鳥町から南久が原への住居表示変更に伴う町会組織の変更などを経て、「南久が原1丁目」町会長として850所帯・2000人の住み良い生活環境づくりに寸暇をさいては努めてきた。

 月1回、役員の当番制によるトラック3台ほども集める廃品回収。手作りの夏祭り。ボウリング大会や綱引大会。


 暮れには子供達の餅つき大会と町内の夜警など。また個人的にも、小学校社会科の見学の場として児童100人に自社工場を開放し説明したりもする。

 町内の主婦の皆さんの間からは、
「町会のことならどんなことにも参加しているマメな会長さん」
 との声。当のご本人は、「ここで仕事ができるのは、隣近所のご協力があればこそ、地元に奉仕するのは当たり前……。役に徹する″が私のモットーですから」
 と屈託ない。



南久が原1丁目町会長の
平川I夫さん

                        文・写真:岩田忠利

       見たか 聞いたか 久が原・千鳥町


  住民も各界多士済々

 久が原や千鳥町には閑静な環境と交通の便利さもあって政財界・スポーツ・芸能界など各界の人たちが数多く住んでいる。
 地元の主婦の皆さんに在住有名人を伺うと、次の人たちの名が返ってきた。

 秋山登(大洋球団元監督)・関根潤三(ヤクルト球団前監督)・吉葉竹識(広島力−プ球団元監督)・新井将敬(衆議院議員)・上田哲(衆議院議員)・羽田春兎(日本医師会会長)・渡哲也(俳慶)・磯野洋子(女優)・伊豆肇(元俳優)・青木一雄(NHK元アナ)・阿里道子(声優)・川上康子(女優)・初代コロンビアローズ(歌手)・遠藤幸吉(元プロレスラー)・宮川一郎太(タレント)……。

 作品「追いつめる』で直木賞を受賞し日本で独自のハードボイルドの世界を築いた作家・生島治郎さん(58)も久が原に住み、ここが大変お気に入りのようだ。千鳥町駅からも近い久が原の閑静な高台。白壁に茶色の屋根の2階建て、別荘を思わせるしゃれた造りの家だ。

 「久が原は第二京浜国道が近い割には、とても静かで緑も多く、散歩などをしていると気持ちの落ち着く良い所です。日本は終の住みかとはなりえないと思っていた」そうだが、久が原に住んでいると、明るく率直な奥様もご近所の方々と気さくなお付き合いをしており、この地に腰を落ち着けてみようと思っていらっしゃるとか。 
               文:藤川育子







江戸時代の時計 復元の名人

 久が原駅に近い東嶺町に住む山口詠一さんの本業は、鵜の木のガソリンスタンドの所長さん。もう一つの顔が古い時計を元どおりに復元するのが楽しみという趣味がこうじて古典時計協会の事務局長。

 プロの時計屋さんでも復元はムリというほど難しい江戸時代の時計を手掛けてすでに10年。
 それぞれの時針に合わせてネジ・歯車・文字盤・鎖などを一つ一つ手作りする。歯車は、ヤスリで削ってひと山ごと作る。木の枠や台も、桑や柿の木などを使って手作り。それも寸分の狂いもなく仕上げるので、一つの時計を復元するのに1年くらいはかかるという。



仕上がった江戸時代の時計に見入る山口詠一さん

「歯車と歯車がうまく噛みあうには、適当な余裕が必要です。何事も遊″ではなく、裕の心″を持ちたいですね」
と山口さん、時計作りから学んだ人生観をさりげなく。
 和時計に興味のある方は、上野の科学博物舘と谷中の大名時計博物館で見学できるそうです。
               文:藤川育子


女性にモテてる手作り品の店

 久が原駅の西口側、栄会通りを歩いて2分。右手のビルの1階に『ドルチェ』という店がある。約15坪の店内は人形・バック・小物・陶器・Tシャツ・手描きブラウスなどなど……びっしり。どれも手作り品で、お値段も市価よりはるかに安い。

 ここの経営者・伊達政子さんは身の回り品の手作りが大好きで、愛媛県松山市からご主人の転勤で上京したのを機に10年来手がけてきた七宝焼の販売をここで始めた。ところが、明るく人付き合いのいい政子さんの元には友人・グループ・個人からと続々手作り品が持ち込まれ、いつの間にか、所狭しと並んでしまったわけ。



手作りバスケットの教室が終わってお友達と。左から2人目が伊達政子さん

 曜日ごとに専門の先生を招き、七宝焼・パッチワーク・手編み・洋裁・切り絵風絵画などの教室も開かれる。
 きようも教室に参加した人たちが、店内のカウンターでコーヒーを飲みながら趣味の話に花が咲<。
              文:鈴木善子

連絡先:手作りの店ドルチェ пi37560236


ジャンボで美味しい焼イモだよ

 久が原駅前、栄会通り入り口。いつも道端まで野菜を並べ、数名の店員が大声で呼び込みをしている青果店がある。これが名物八百屋丸二青果″。
 夕方からは売り声に一層拍車がかかりその騒々しさったらない(失礼!)

 ところが、この店の焼イモがとっても甘くてホクホク、栗のよう。大きさも超ジャンボ。しかも2本で250円、3本買うと300円という超バカ安値。
 私の住む横浜・日吉だったら、少なくとも2倍はするだろう。

 この焼きイモは残念なことに、11月中旬から3月中旬までの販売。
 夏場は焼きトウモロコシ″になるとか。これにも目のない私は、日吉から足を延ばしてみよう。
       

             文:鈴木善子

 連絡先:丸二青果 пi37589207






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