編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
   NO.879  2016.02.05 掲載
地域     綱島とその周辺」ウォッチング
★平成6年9月発行『とうよこ沿線』第61号「綱島と周辺」ウォッチング」から

       特産「綱島桃」 今も栽培、 綱島の池谷光朗さん

 綱島の街を歩いていると桃″にちなんだ文字が目につく。西口の街道沿いの商店街「綱島桃栄会」、東口にある「ピーチゴルフセンター」……。かつて綱島が桃の名所であった証しとも言えるのだ。

  桃の名所、綱島

 今から約60年前まで、この綱島は「美味しい水蜜桃″」の特産地として全国的に知られ、大都市の高級果物店でなければ手に入らないほど珍重されていた。それだけに農家の貴重な換金作物で、酒屋やお寺でも土地があれば桃の木を植え、一時は「綱島果樹園芸組合」には約100軒が加入していた。

 春3月、桃の花の満開時には東京・横浜から花見客が鶴見川土手に押しかけ、甘酒や団子などの出店も出て賑わった。綱島街道沿いの神明社から眺める綱島情景はまさにピンク一色。ここは「桃雲台」と名つけられ、県下の名勝地の一つであった。
 その桃畑は昭和13年綱島を襲った鶴見川洪水の被害、その後の軍国主義下の穀物作りの奨励策でその姿を消してしまった。

 あの薄い皮がスーッと手でむけ、甘い汁が滴り落ちる完熟の綱島の桃、もう二度と食べられないものと思っていた。ところが先日、綱島東1丁目の自宅前の畑で桃を今でも栽培している池谷光朗さん(ピーチコルフ社長)にその美味しい桃を頂戴した。

「桃作りは明治時代から百年続けてきたのだから、その歴史を残す意味でも今もやっていてもバチは当たらないでしょう」
 と笑顔で話す池谷さん。










 「綱島桃」を生んだ祖父・道太郎

じつは、綱島桃の創始者は池谷さんの祖父・池谷道太郎さん。明治時代に津田塾大学の創設者である津田梅子の父の紹介でアメリカから種々の苗木を輸入、試作を繰り返し綱島の土壌に最適の桃「日月桃」を開発、全国に普及させた功労者であった。最盛期の池谷家では畑2町歩に苗木を育て、台湾や朝鮮にまで出荷していた。

池谷さんはその挑をいま、約150坪の挑畑に約30本ほど残して栽培している。紙にくるまったモモはどれも今が食べ頃。透き通った皮の先端はほのかな桃色、人肌のように柔らかく甘い。この桃は出荷せず、ほとんどご進物用とか。それにしても、この畑は駅に近い一等地、坪300万円。

 「1個が高い挑″ですね。それもあと数年で農地法の猶予期限が切れるんですよ。祖父から続いた桃を守るのも難しい時代になりました……」
 急に沈んだ口調で話す池谷さん。時代に抗して、がんばれ綱島桃!



自宅前の桃畑で桃を収穫する池谷光朗さん
                          文・写真:岩田忠利

    旧宅に
清水2カ所も 新吉田町の山本昌一さん


水はよく「湯水のごとく」と形容され、無尽蔵に手に入るものの象徴であった。ところが、今は違う。スーパーでも酒屋でも水は売っている時代。この原稿執筆中にも四国や九州でダムの水が底をついたとテレビが大騒ぎしている最中だ。
 そんな折、「屋敷内に2カ所も清水″が出ている家があるよ」こんな話を聞くと、嬉しくなってしまう。

 新吉田町のバス通り、横浜北農協新田支所の先右手、小高い丘を背にした「宮の原」という地域。ここに山本昌一さん(66)一家は代々住んでいた。急斜面の竹やぶの下、2坪ほどの小屋の中に木の枠で囲んだ″池″。ここに清水が湧いて溜っている。

この湧水は昭和509月横浜市が『災害時における飲用水確保井戸』に指定、平成3年にも横浜市災害対策室が『災害応急用井戸』としたお墨付きの水。山本家にはもう1カ所、清水が出る。コンクリート壁に付けた樋を伝わって勢いよく流れ出ている。
 ここからすぐ近くの“浄流寺”というお寺でも文字通り清浄な清水が今でも流れ出ている。
 この辺りは昔から良い水脈があったようで、山本家裏の崖を平成3年に役所がコンクリートで土留め工事をしてから水量がめっきり減ってしまったとか。以前は何層かの地層から絶えず清水が流れ出て、貴重な生活用水だった。




「災害応急用井戸」の上に小屋を建て、しめ縄を張って水を管理している山本昌一さん

 「先祖から何代もずーっと飲んできたものですから、私の代でも残しておきませんとね」
 と話す当主・山本さんは毎年7月この井戸を大掃除して大切に守り、万一の災害時には地域の皆さんのお役にも立つよう努めている。
            文・写真:岩田忠利
 場所‥港北区新吉田町3337


      300年前からの伝承 
念仏講「関原講中」



 「ナムアミダァブツ ナムアミダー」……。
 念仏を唱える大合唱が、静かな夜の住宅街を流れる。高田町のバス停高田小の近く、宮田政吉さん宅の座敷に20人ほどの大人が集まって念仏講の最中だ。
 仏画を描いた掛け軸の前にはお燈明がともされ、それに向かって先導者である宮田与一さんを中心にまず繊悔のお経。



先導者(中央)が鉦をたたいてお唱えが始まる


 その内容は門外漢の私には難解でわからないが、ご近所の皆さんが一心に読経する声と姿は厳粛そのもの、その宗教的雰囲気に身が引き締まる。

 1時間ほどで終わったこの念仏講は、「関原講中」。
 高田町の関原地区の旧家20軒が講中。この講は毎月14日の夜8時からで、宿は順番制で交代する。またこの講中は、法事があればその家に出向き、″おとき念仏″をあげたりもする。
 念仏が終わり、茶菓子をつまみながらの親睦会。この晩は主人の代わりに出席した奥様5名の笑い声が座のムードを明るくしていた。

 こうした講は数年前まで高田町だけでも6カ所もあったが、現存するのは関原講中と白坂講中だけ。
 この関原講中の起こりは300年前ともいわれるが、作り替えた掛け軸の裏には筆字で江戸時代の「寛政11年作」。寛政11年は西暦に換算すれば1799年、現在2016年からなんと217年前!

 古き祖先から受け継がれてきたその歴史の重みをどっしりと感じる。その伝承が平成の世に生きている。

連絡先:港北区高田町1629-5 5311814 宮田与一

             文・写真:岩田忠利

      

       
工場経営者らが町内パトロール20年


 「私らが旅行したとき、旅館では会の名前を聞いただけで『きっと○○団″だから気をつけろ!』なんて勘ぐられたこともありましてねえ……」
 とは、この会の会長、藤塚製作所・社長藤塚正人さん。

「自分達の街は自分達で守ろう」と

会の名前からそんな怪しい会と誤解されるとは、とんでもない。この会は樽町の工場や会社の社長さんたちが町内の夜警やパトロールを続けてきた立派な会なのだ。

 会の名前『北陽会』には「横浜の“北”、樽町地区に自分たちの活動で少しでも“陽” が当たれば」という願いが込められ、昭和49年4月、樽町4丁目周辺の工場経営者や事業主ら7名で発足させたもの。


夜9時、出動する当番の社長さんたち

 当時、周囲は田畑や空き地の中に工場や住宅が点在、夜道は暗く、空き巣ねらいや事務所荒らしが横行する町だった。発起人たちはみな地方出身者、仕事も異業種。お互いに親睦を深めながら助け合い、自分たちの町は自分たちの手で守り、地域に溶け込もうと始めたのだった。




  にわか雨が降り出した7月の夜9時。班長さんの事務所に集合した当番の8人が拍子木や提灯を手に町に出動する。 
 「カチ、カチ、カチ……。北陽会です。戸締り、火の用心!」。

 会員は35社、3班編成で10日に1度、担当の班が町内約2キロを1時間半かけてパトロール。終了後は班長が日誌に記帳する。

健康診断、教養講座、納涼大会も

 こうした防犯・防火活動を続けて今年が20年。
 町から空き巣などの被害や火災がすっかり減り、北陽会の活動も大いに発展した。対内的には病院と提携しての健康診断、商工会議所の協力で経営者の教養講座、企業視察を兼ねた移動研修旅行、対外的には毎年7月地域の皆さんに喜ばれる納涼大会と暮れに港北区長・警察署長・消防署長・町内会長らが参加しての合同夜警……。

 「各社の創業者は地元出身者は一人もいません。北海道から九州までの人たちが樽町の同じ空気を吸って同じ活動を長くやると、もうみんな親戚みたいなもんですよ」
 と話す中村直樹さん(豊神商事叶齧ア)。
 激しい経済変動の20年間、それでも
 「倒産した会社は一社もありませんでした。お互いに助け合い、頑張ってきたお陰でしょうか」
 と言うのは、同会事務局長の草野和一さん。

 異業種の経営者同士が地道な一つの地域活動を通じて強い仲間意識と連帯感を育み、地域にしっかり根を張り、大きな実をつけている。

連絡先:港北区樽町4-6-38 
    鞄。塚製作所内 541-7777


                         文・写真:岩田忠利


    高田町に好評の「産みたてタマゴの自販機」


一面に畑が広がり、農家が点在する高田中学校周辺。そこを車で通ったら、養鶏場の入り口に珍しい自販機が……。それが写真のような「産みたてタマゴの自販機」。

 カルシウム卵、地鶏卵、産みたてジャンボ、初卵など各種ごとに110個入り。


 初卵は200円、ほかは300円。コインを入れると3秒で扉が開いて卵を取り出せる。
 さっそく私も買って来て自宅で割ってみた。殻は硬く、なかなか割れない。黄身はオレンジ色に近い黄色。確かに、市販ものとはひと味違い、美味しい産みたて卵だ。


 自販機のすぐ隣は箕輪養鶏所――。そこのお母さん、箕輪雅江さんは、
 3000羽の鶏がいて餌をあげるのに2時間かかります。卵の殻を強くするため、この粒状カルシウムを食べさせるのですよ」
 と話す。土曜や日曜には車利用のお客さんが多く、自販機が空になるので1日5〜6回は補充するのだそうだ。

 自販機の隣にはポリ袋に入った朝取りの野菜が並んでいる。キュウリ・ナス・トマト・ピーマン・インゲンなど、どれも1100円。ここも無人。ただし、代金はそばに置かれた″空缶″に入れるだけという寛大さ。この殺伐とした都会、お客の良心を信じなければできない売り方。箕輪雅江さんの話では、
 「袋の数に代金100円を掛ければ、勘定はいつもピッタと合っていますよ」
 なるほど。この辺りにはまだ住民の良心が生きている。

連絡先:港北区高田町24851 
     箕輪養鶏所 592-2236

            文・写真:岩田忠利


  大正昔話

      綱島温泉街“源泉”ーー 菓子屋さんが掘り当てた鉱泉


 大正3年(1914年)のこと、現在の大綱橋を渡り綱島街道の道路上にあたる場所、樽町に「きねや」というお菓子屋(現杵屋商店)があった。
 そこの主人加藤順造さんが飲用にと井戸を掘ったところ、コーラのような茶色の水が湧き出した。

結局この水は飲めず、加藤さんは風呂で沸かして何日か入浴していた。すると、不思議なことに持病のリウマチがウソのようにすっかり治ってしまった。

「これは、“魔法の水”とやらいうものなんじゃろか。いったいどんな成分の水なんじゃろか?」
 と疑問に思った彼は、その水を内務省温泉研究所で検査してもらうことに。すると、なんとラジウム含有量が、日本全国で3番目に多い鉱泉であることがわかった。
 
 その後、樽町側にそのラジウム鉱泉の永明舘が建つと、老人たちで大賑わい。やがて近くに琵琶圃(びわはた)旅館と大綱舘も開業した。これも効能を伝え聞きつけた人々で繁盛。かくして鶴見川の向こう岸の樽町側が“ラジウム温泉旅館の町”となっていった。


 大正15年に東横線が開通すると、これに目をつけたのが東京横浜電鉄(現東急)。鶴見川をはさんだ反対側の綱島に駅名を「綱島温泉駅」とした駅をつくり、東口に直営「綱島ラジウム温泉」という浴場を建てた。そして往復乗車券購入者には無料入浴券を発行するなどその宣伝に努めた結果、その浴場は大繁盛、連日入浴客でごった返したのだった。

 それと前後して大小の旅館も雨後のタケノコのようにわずか10年で47軒……、綱島の町で働く人口は何十倍にもふくれあがった。綱島駅の待合室のベンチまでが当時としては全国でも珍しい形式。デートの便宜のためにボックス式″になったのだ。

 東京近郊という便利さもあって綱島は神奈川県下屈指の大温泉郷へと発展していった。
 それも、あの加藤のオジさんが温泉を掘り当ててから、わずか二十数年の歳月の流れだった。

 
最初にラジウム鉱泉が湧き出た付近、樽町21013の綱島街道端に「ラジウム鉱泉湧出記念碑」がある 

                
             文:岩田忠利  イラスト:石野英夫


 
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