綱島の街を歩いていると桃″にちなんだ文字が目につく。西口の街道沿いの商店街「綱島桃栄会」、東口にある「ピーチゴルフセンター」……。かつて綱島が桃の名所であった証しとも言えるのだ。
桃の名所、綱島
今から約60年前まで、この綱島は「美味しい水蜜桃″」の特産地として全国的に知られ、大都市の高級果物店でなければ手に入らないほど珍重されていた。それだけに農家の貴重な換金作物で、酒屋やお寺でも土地があれば桃の木を植え、一時は「綱島果樹園芸組合」には約100軒が加入していた。
春3月、桃の花の満開時には東京・横浜から花見客が鶴見川土手に押しかけ、甘酒や団子などの出店も出て賑わった。綱島街道沿いの神明社から眺める綱島情景はまさにピンク一色。ここは「桃雲台」と名つけられ、県下の名勝地の一つであった。
その桃畑は昭和13年綱島を襲った鶴見川洪水の被害、その後の軍国主義下の穀物作りの奨励策でその姿を消してしまった。
あの薄い皮がスーッと手でむけ、甘い汁が滴り落ちる完熟の綱島の桃、もう二度と食べられないものと思っていた。ところが先日、綱島東1丁目の自宅前の畑で桃を今でも栽培している池谷光朗さん(ピーチコルフ社長)にその美味しい桃を頂戴した。
「桃作りは明治時代から百年続けてきたのだから、その歴史を残す意味でも今もやっていてもバチは当たらないでしょう」
と笑顔で話す池谷さん。
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「綱島桃」を生んだ祖父・道太郎
じつは、綱島桃の創始者は池谷さんの祖父・池谷道太郎さん。明治時代に津田塾大学の創設者である津田梅子の父の紹介でアメリカから種々の苗木を輸入、試作を繰り返し綱島の土壌に最適の桃「日月桃」を開発、全国に普及させた功労者であった。最盛期の池谷家では畑2町歩に苗木を育て、台湾や朝鮮にまで出荷していた。
池谷さんはその挑をいま、約150坪の挑畑に約30本ほど残して栽培している。紙にくるまったモモはどれも今が食べ頃。透き通った皮の先端はほのかな桃色、人肌のように柔らかく甘い。この桃は出荷せず、ほとんどご進物用とか。それにしても、この畑は駅に近い一等地、坪300万円。
「1個が高い挑″ですね。それもあと数年で農地法の猶予期限が切れるんですよ。祖父から続いた桃を守るのも難しい時代になりました……」
急に沈んだ口調で話す池谷さん。時代に抗して、がんばれ綱島桃!
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自宅前の桃畑で桃を収穫する池谷光朗さん |
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文・写真:岩田忠利
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