編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
   NO.872  2016.01.30 掲載
人物 菊名・妙蓮寺」ウォッチング
★平成6年5月発行『とうよこ沿線』第60号「菊名・妙蓮寺ウォッチング」から

   栄養剤飲んで元気モリモリ 樹齢800年の樫の木


 

 どこの町よりも緑が多く、まだ自然が残る菊名や妙蓮寺。そこには神社やお寺、旧家の屋敷に巨木″が見られる。大豆戸町・八杉神社の樹齢800年のムクノキ、錦が丘の桜並木、力―ボン山のクヌギ林、妙蓮寺駅前の押尾粂蔵家のケヤキなど。

 篠原町の篠原八幡大神に樹齢800年の大木がある、と聞き、訪ねることにした。

 菊名西口のハマ線ガードをくぐり、坂道を登って住宅街を抜けると大木に囲まれた篠原八幡大神。祭神を応仁天皇(誉田別命)とするこの神社は、平成4年には創建800年祭を迎えた。

 境内には幹に「横浜市保存木指定」の標示板を巻いたアカガシの木が何本もある。昼なお暗い感じだ。それがいっそう神々しさを漂わせている。



篠原八幡のご神木のアカガシ。800年の歳月を生きぬいたその姿はカメラに収まらない


見えました! 社殿右手裏に天を突くような大木が…。近づくと、これが樹齢800年といわれる2本のアカガシ。幹にはシメ縄が巻かれ、根元に「御神木」の板柱。

 水谷幸世宮司のお話では、一時コクゾウ虫が繁殖して樹勢が衰えたが、栄養剤を注入したら元気を取り戻したという。
 この2本のアカガシには昔、忌まわしい風習があったそうだ。丑満時(夜中の12時)、白衣を着た女性が鉢巻きに2本のロウソクを差し、呪詛する相手をのろいながらこのアカガシの木に5寸釘を打ち込んだという故事である。

 今ではそんな噂も立ち消え、その2本の木は「雌雄一対の木」とか「親子の木」と呼ばれ、「夫婦和合」・「親子親愛」のシンボルとしてあがめられている。また晩秋にはドングリ拾い″に興する子供たちに親しまれている。

 なおこの御神木はフェンスで囲まれているので、拝観希望者は事前に電話するか社務所に申し出ることを奨める。            (文:菊名・丸田信夫)

 連絡:篠原八幡大神 045-421-0859




菊名駅前に毎日、タヌキが出る…!


 菊名駅東口の階段と目と鼻の先、妙蓮寺寄りの線路沿い。漆原工務店の仕事場で昨年8月頃から夕方になると異常な声″がする。

 「『田舎の実家でタヌキを追っぱらってきたのに、菊名に帰ってもタヌキがいる』と若い衆が言うんですよ」

話すは漆原工務店の奥様、春子さん。
 「丸々太ったタヌキが2匹、本当にうちに来ているんですよ。パンと油揚げをあげると喜んで食べるんです。とくに甘いものが大好き。たらふく食べると、アンパンや大福は口にくわえて持ち帰るんですよ。なかでも羊羹は好きですねえ!
 夕方5時半といえば現われ、多い時は15〜6回も来た時もあるんですよ。毎日、東急ストアでパンや大福ばかり買って、タヌキに食わせていると、人間様のほうが細ちゃうねえ』なんて笑うんですよ。
 先日も孫がタヌキと遊んでいるのを見て、『あれで襟巻にするといいねえ』と私が言ったら、それからタヌキがしばらく来なくなっちゃたんですよ」



菊名駅前の漆原工務店に現れる“珍客”、食事中。ご主人・漆原一雄さんが平成5年12月撮影

 いま東横沿線の各地にタヌキが出没する話は何度も聞く。しかし菊名のタヌキのように雑踏の駅前に現れるのは初めてだ。

 一休このタヌキはどこからやって来るのだろうか? 
 目撃者がいる。錦ガ丘の住宅地から東横線の線路を渡って漆原さんの仕事場へノコノコ通勤″するところを見た人がいるのだ。
   
            (文:岩田忠利)




     「妙蓮寺」その寺名駅名由来地元押尾寅松さん投稿


 東横線23駅の中で寺の名前が駅名となっているのは2駅。「妙蓮寺」の駅名の由来について篠原東2丁目の押尾寅松さんが以下、投稿してくださった。

 ――妙蓮寺というお寺は日蓮宗池上本門寺の末寺の2つ寺、大経院妙仙寺と浄寿山蓮光寺とが合併して誕生したものです。
  妙仙寺は観応元年(1350年)の創建。東神奈川の東口、神奈川1丁目から2丁目にまたがる神奈川区神明町にありましたが、明治末期に国鉄が貨物線を引込むこととなり移転せざるを得なくなりました。(この引込線は終戦後廃線、撤去)


 当時、菊名池畔にあっ蓮光寺は維持困難な状態だったために、移転先を求めていた妙仙寺とが話し合い、明治41年8用8日、妙仙寺の「妙」と蓮光寺の「蓮」をとって「妙蓮寺」と名付けた新しい寺が誕生しました。

大正末期の東横線敷設当時、お寺の前が池、背後が台地という地形上、線路はどうしても妙蓮寺境内を通らなければならない。そこで寺側が「門前に駅を作り、駅名を『妙蓮寺とすれば土地無償提供』という条件を出し、それを近隣の関係地主と東急が合意、ここに駅ができることになりました。――


         
 探検家・白瀬中尉も妙蓮寺住民だった


 若い読書の皆さんは「白瀬 矗(しらせのぶ)」という人をご存じかな? そう、明治時代の探検家・白瀬陸軍中尉。

物の乏しい明治期に木造のたった204トンのタラ釣り船で悪戦苦闘の末、明治45116日、日本人として初めて南極大陸に到達することに成功、その後南緯8005分の地点に日章旗を立て「大和雪原」と命名した人である。



白瀬 矗(のぶ)
1861(文久元年)〜1946(昭和21年)

(詳しくは当サイトの連載『とうよこ沿線物語』の妙蓮寺編をごらんください)


 この白瀬中尉は妙蓮寺に居を構えていた。そこは妙蓮寺駅前の長光山妙蓮寺の地続きの高台、菊名2丁目10番地。商店街や住宅街を下にして富士や丹沢山塊が望める緑の多い高級住宅地である。今はここには神部健之助さん(92)が住み、白瀬中尉研究家として知られている。

 「カラフト犬を南極に残してくる時の話を、白瀬は涙を流して私に話してくれました。忠実な犬を雪原に置き去りにするのを非常に残念に思っていましたよ。
 帰国後の彼は借金だらけでね。家族が怪我しても医療費が払えなくて困ってましてね、私のところに手紙で『家を買ってくれ』と頼んできたんです」

 白瀬中尉から家屋敷を買った時の模様を、そう話す神部さん。
 白瀬中尉は昭和9年に大田区女塚の15坪の家をここに移築し6年間居住した。神部さんがこの家に移り住んだ当時、彼の書類や写真などが残っていたが、神部さんはそれをすべて白瀬の故郷、秋田県の白瀬記念館に送り、いま手元には白瀬文献は何もないという。

 いま130坪の屋敷にはサルスベリ、ツバキ、ヒノキの木々。それが白瀬中尉の丹精込めたよすが″として梢を風になびかせている。     (文:岩田忠利)



おいしい野菜を産む畑は子供たちの自然実習の場ーー葛貫さんちの


 妙蓮寺駅から菊名方面へ歩いて約7分、電車の車窓からも見える線路沿いに広がる広い畑。
 葛貫家母屋の裏は小高い丘になっていて新横浜方面が一望。密集した住宅街の中で、ここだけは別世界だ。

葛貫家のこの畑から撮った写真が『とうよこ沿線』創刊2号の表紙を飾ったのです。あ〜、あの写真、と今となっては懐かしく思い出される方も多いのでは…。



創刊2号の表紙

 「葛貫」という苗字、読み方分かる? 地元では「くすぬき」とか「つつらぬき」と呼んでいるが、正確には「つつらぎ」だそうだ。

 その葛貫政雄さん(62)の畑は、どこを掘ってもミミズが出てくる。これは無農薬、有機肥料で野菜を栽培している証拠。農薬や化学肥料を使っていたらミミズは育たないからだ。堆肥はピーナツや大豆の殻付き、スイカの種や骨粉など有機もの。栄養たっぷりな土だから、虫に負けない健康で元気な植物が育つという。

 ここの栽培のモットーは「虫や自然に逆らわす、作れるものを作れる時期に」。スーパーでは一年中どんな野菜でも並んでいるが、葛貫さん宅前の野菜直売所″ではその時期に採れた野菜しか置いてない。


 病害虫が発生してしまった時は、人間が飲んでも害がない漢方薬″を散布することがたまにあるらしい。また畑は交代で3年ごとに1年休耕させ、地力を養うのだそうだ。その間は草を生やし、そこが幼稚園児や小中学生の自然実習の場″に早変わり。花や虫を捕ったり、サツマイモを掘ったり。このときは葛貫さんが生物や植物の先生″となって質問を受けたり、お話したりの楽しいひととき。


葛貫政雄さんと一面に生えるハコベ。これは肥料用だが、ゴマあえにしたら実に美味しかった。この畑の野菜は−味違うのだ

 いま都会で広い農地を維持するには税金や後継者など難問題があるだろう。その点、葛貫さんはこう言い切る。
 「土地の名儀は私の名前でも、私は単にその管理人に過ぎませんよ。結局、土地は地域社会のものなんですから」

美味しい野菜を地域の皆さんにお分けし、子供たちに畑を開放する葛貫さんの言葉には、さすが含蓄がある。                (小森美貴子)

連絡‥港北区菊名223-7 葛貫家045-4016312


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