文:写真:村山はるみ(旧姓・蓑島 公立中学元教員 八王子市下柚木)
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かつて愛読していた沿線雑誌『とうよこ沿線』のホームページ、その中の「写真が語る沿線」というサイトが目に留まり、そのCD版があることを知り、さっそく注文して送ってもらいました。
どれも貴重な写真で、編集のご苦労のほどが察せられます。また、昭和30年あたりからは、『そうそう、こんなだった』と懐かしく思いながら眺めています。
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目黒区衾町から目黒区八雲へ
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「目黒区衾町(ふすまちょう)63番地」――。
これは子供の頃のわが家の住所でした。その後、住居表示の変更で目黒区八雲2丁目2番13号に変わりました。
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今、私が週2日ほど行っている目黒11中(目黒区立第11中学校)の事務室前には、昭和34年の碑文谷地区の地図がかかっています。私たち一家が住んでいた衾町の家ものっています。周りじゅう畑のマークです。
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昭和34年入学当時と変わらぬ八雲小の校門と校舎
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いろいろな写真を見て驚いたのは昭和29年の八雲小学校の校門と校舎が、私が入学した昭和34年ともほとんど変わっていなかったことです。
木製と思われる門扉はなくなっていましたが、門の柱と右側の校舎はそのままでした。北側に建っている校舎は私が5年生のころ建て替えになりました。東と西の校舎、門の柱は昭和40年くらいまでそのままだったと思います。
当時の正門は八雲通り側で文房具の辰巳屋さんの向かい辺りにありました。ただ、100周年(昭和48年)の写真を見ると、校舎が現在のものになっていて、門も東側に変わっています。
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昭和29年、目黒区最古の八雲小学校。その正門
提供:「写真が語る沿線」CD版から
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また、八雲小の東側のお宅(確か伊藤商店とおっしゃるタバコなどを売っている雑貨屋さんだったと思います)にはその昔、国木田独歩が下宿していた、と聞いています。
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写真が思い出させる情景や人々
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今は亡き父の思い出がぐっと胸に迫ってくる光景があります。それは、昭和12年に都立大学附属高校の校庭から撮った風景写真でした。
わが家の前の坂を上ると、当時の都立大学の西南の角に出ます。夕暮れのときにそこから西を見ると、富士山と丹沢山系の大山がシルエットになり重なって見えました。子供心にも美しいと思いました。それが父の自慢でもありました。
父のふるさとは、大山の近くにある神奈川県平塚市土屋という所だったのです。
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昭和12年、都立大学附属高校校庭から見た富士山と大山山系
撮影:新倉 達さん(八雲堂書店店主) 「写真が語る沿線」から |
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東光寺の入り口には「福もと」という和菓子屋さんがあり、もちもちとした食感のお団子がとてもおいしくて、よく買っていました。
いまはマイバスケットがあるところにあったのは、徳丸ベーカリーというパン屋さんです。
今も名残があるとは思うのですが、東光寺の前には日本刺繍の教室があり、原さんという方がやっていた珠算塾もありました。原さんの何番目かのお嬢さんは、確か弟の同級生でした。私は4人兄弟だったので、兄弟の同級生も多かったのです。
私自身も、八雲通り商店街の塗装店の(かつての)若山君、金物屋の関口君、タイヨークリーニングの新井君、東光寺前の石屋の内海君は同級生です。
また、東京マンドリン宮田楽団の宮田蝶子会長も同期生です。宮田さんは、宮田ハーモニカの創業者の姪御さんです。谷桃子バレー団に入っていて、小学生のころから雑誌のモデルさんになったりしていました。
八雲学園の近くには、テレビでお馴染みのマエタケこと、前田武彦さんが住んでいて、息子さんがすぐ下の妹と同級でした。
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水戸黄門がスクーターで走っていたり、思い出は尽きない
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有名人では、女優の山崎千里さんが磯村産婦人科の向かいにいました。
東光寺の裏には、俳優の佐野浅夫さんが住んでいて、テレビに「水戸黄門役」で出ていた当時、当のご本人がスクーターに乗って通りかかったときには『あれ? 黄門様がスクーター?』と驚いたものでした。
駅前の道を都立大学のほうに向かった所に小さな餡蜜(あんみつ)屋さんがあり、高校生のころ、よく食べに行きました。ピアノのレッスンで疲れたときや、ストレスが溜まったときなど、ちょっとした癒しのスポットでした。
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駅に近づくにつれ、そのあたりは地代が高く、リタイアや相続を機に転居する人が多いようです。駅前の道を大学へ向かって坂の手前にあった家具の池田屋さんと、呑川沿いの「みそのフォト」という写真屋さんには私の兄弟の同級生がいましたが、お店が今は無く、淋しいですね。
区がせっかく教育にお金を投じても、代が変わると人が出て行ってしまうのでは地域も廃れてしまうのではないか、と心配です。
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旧都立大学とわが家との縁
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今、私の住んでいるところは都立大学が移転してきて校名が変わった首都大学のすぐ裏です。
首都大学の構内には、『八雲ヶ丘の碑』なるものがあって、大学発祥の地が目黒区八雲であったことを伝えています。
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私のふるさと、八雲にそびえ立っていた都立大学が、今はその名を変えて八王子市下柚木3丁目、わが家のすぐ裏に立っています。
こうしてわが家と都立大学とは、下の息子の大学院がこの首都大学だったり、切っても切れない赤い糸で結ばれているように思えてなりません。
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八王子市に移転した旧東京都立大学、現在の校名は「首都大学東京」。そのキャンパス
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首都大学東京、桜咲く春4月
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『八雲ヶ丘の碑』の前面
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碑の裏面。都立大学同窓会が開校50年を記念し平成11年に学友歌とともに母校発祥の地が八雲であることを刻して建立
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