「私、7月に寝たきりの妻を伴ってヨーロッパ旅行してきました。私たち夫婦は30年前にドイツに住んでおりました。その時チロル地方をドライブし、あまりの美しさに感動しました。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の世界ですよ。思わず『もう一度来ようね』と約束し、それから30年間つらい時、苦しい時には《チロルへ! チロルヘ!》を合言葉に励まし合いました。
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ところが11年前に仕事の関係でブラジルに住んでいた時に、妻が骨髄小脳変形症″という難病であることがわかってすぐに帰国。それから二人の長い闘病生活が始まりました」
この頃から、ご夫妻は「チロルへもう一度」この約束は果たせぬ夢とお互い諦めていたようです。
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11年前に発症して以来、運動失調を中心に次第に歩行困難となり、指の動作・言語に障害があらわれ、ゆっくりと、でも確実に病状は進行……。
昨年の夏、喉の筋肉が動かなくなり肺炎を起こして入院。以後日常生活すべて介護が必要となりました。
「井田病院の主治医・宮森先生はじめ先生方や保健婦さんたちの指導を受け、今は自宅療養が続いています。日中は7人の看護の方々がチームを組み、夜間と日曜日は私が担当しています。おかげで尿・体温・血圧・排便も正常ですが、残念なことに味″と声≠失いました」と淳一さん。
知覚障害がないので会話は理解することができますが、自分の意思を伝えることができない恭子さんにとって「瞼の動き」と「わずかの表情の変化」をすることが唯一の意思表示の手段なのです。
「指一本、首を動かすことができないので、蚊が止まっても追い払うことも助けを呼ぶこともできないのでじっと耐えています。面白いことを言うと、笑う仕草をします。その強靭な精神力に感服しますよ」
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淳一さんはいつも恭子さんのベッドの横に布団を敷いて寝ています。毎朝4時半に起床して、経管栄養、与薬を済ませて会社へ……。
「自分でもよくこんな生活で倒れないなと思いますが、子供もいないので病院に入れたとしてもナースコールも押せない状態では、やはり誰かが付いていないと……それなら家のほうがいいんです」
今は安定した状態が続いています。
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「何しろ重病人です。無理を承知とはいえ、どんなことが起こるかわかりません。寿命が縮まるかも知れません。そんな危険を冒してまで連れていくべきか?」
淳一さんは迷いました。また実現できるかどうかもわからず、確実な段階まで恭子さんには黙っていました。
「チロルに一緒に行こうね」……その時、恭子さんの目がキラリと輝いたのを見て、淳一さんはついに決意。
時期はヨーロッパの天候が最も安定している夏、7月中旬を選ぶ。場所はドイツの友人と相談してチロルに最も近いドイツ最南端の町ガルミッシュ.パルテンキルヘンをベースとし、従って成田〜ミュンヘンと決めました。
その直行便はルフトハンザと日本航空がそれぞれ週1便運航。両社と交渉に入りましたが、機内で吸引器(100X−交流電源)を使う必要があるため日本航空に決まりました。JALはエコノミー12席をつぶしてストレッチャーを特設してくれた。
地上の交通は、日吉〜成田間の往復を横浜市身体障害者社会参加促進センター(横浜ラポール)のハンディ・キャブを借り、ドイツでは民営のアンビュランス(ストレッチャー看護輸送車)を運転手(救急救命士の資格を持つ)付きで8日間貸切りました。
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救急救命士の運転手さんが介護輸送車で同行してくれました |
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最も難航したのが同行の看護師さん。重病人であるうえ、外国で万一のことを考えると責任が重過ぎると次々に断れたことでした。一時はこの計画、実現不可能かと思われた時、使命感に燃える某ナースが同行してくれることになりました。
「この間に有り難かったのは、井田病院の宮森先生を中心にプロジェクトチームが念入りな打ち合わせを繰り返して、旅先のケアやプログラム、携帯機材についてみんなで考えて下さったことです。
例えば膀胱洗浄や吸引のピンセットなどを煮沸消毒することは旅先では難しいので割箸をガス滅菌し一膳ずつ密閉して使い捨てていくという名案が出されました」と。
皮膚が弱く床ずれができやすい恭子さん。テストを繰り返して、軽くてマッサージ効果のあるナースパットが出発1週間前に決まったこと。荷物が全く別の空港に誤送されても困らないようにバッグやダンボール箱の個数を多くして少しずつ分散すること。英文の診断書も作成し万一のとき現地の医師の判断の参考に持参したこと。
「こうした準備の作業を通して次々困難なことに直面しました。しかし不思議な力によってその都度、解決されていきました。じつに不思議としか言いようのない展開でしたね」と淳一さんは述懐される。
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