市ノ坪を走る幹線、八王子道(みち)
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八王子道は、川崎宿の六郷の渡しに近いあたりから多摩川沿いに上流に進み、中原街道、大山街道、そして津久井街道を横断し、やがて東京都にはいり多摩川を越えて府中にたどりつき、さらに八王子まで続く道、これを八王子道≠ニ言った。
曲がりくねった細い道、八王子道は市ノ坪の幹線で川崎へ6キロ、溝ノロへ8キロ、どちらへ行くにもこの道だった。
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道路と川が並行しその両側に用水(市ノ坪川)をはさんで農家が点点と建っていた。
大正初年頃は全戸数46戸、それ以外は水田と畑で現在の南町市ノ坪住宅あたりには家は一軒もなく、広々とした農耕地が広がっていた。
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「新道」と呼ばれた府中街道
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明治中ごろ(1880)から八王子道の拡幅及び新道の測量が始まった。この八王子道を基本にしてつくられたのが府中県道(明治27年県道となる)。
東福寺前から現在の鹿島田交番のある平間方面まで一直線に測量され、当時は他にこのような長い直線道路は余り見られなかった。今でも古い人たちは“新道”と呼んでいる。
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子供の頃は東福寺前から約2キロの一直線、そこへ立って見ると平間・鹿島田方面が手に取るように近くに見えるほど空気も澄みきっていた。最初の県道は道幅が約5メートルと狭く、しかも高く盛土されるため大量の土が必要なので自動車も残土もなく人の力で行った。
請負業者は付近の土地を買い取り、または上土(うわつち)のみ買い上げた。その土地は深く掘り下げられ、方々に大きな池が出現したと古老から聞いた。
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ラッパを吹き鳴らす乗合馬車
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この街道は道幅狭い砂利道で馬が引く荷馬車が多く、その間をぬうように大八車、人力車などが往来、余り混雑はなく歩行者ものんびりと歩けた。
この道を大正2年に川崎〜溝ノ口間を1時間おきに馬車≠ェ通り始めた。その当時のことをかすかに覚えている。市ノ坪から川崎まで約30分か40分くらいかかったようだが、それでも一番速い乗り物だったとか。

イラスト:石野英夫(元住吉) |
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車体はすべて木製で屋根には“ホロ”がかかっていて全部黒塗りのように覚えている。定員は8人、後方から乗降し左右4人掛けで向かい合って乗っていた。車も木製に鉄の輪が入っていて大きなスプリングが取り付けてあったが、なにせデボコの砂利道のこと、乗客もかなり大変であったろう。
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馭者(ぎょしゃ)は一方の手で手綱を取り、片方の手ではラッパ″を吹き鳴らし慣れた手綱さばきで「ペッポー、ペッポー」と田んぼや畑の中を走る。この光景はいかにも、のどかで今では到底想像もつかない昔の思い出になった。
子供の頃は客の乗り降りする足掛けが後方に取り付けられていて、そこにつかまって一緒に駆けたものだが、余り 息も切れない位の速さだった。この馬車も採算が取れなかったのか5年ほどで姿を消してしまった。
その後、バスが通り始めた。今のバスとは比較できないようなバス。まだ自動車も余り通らない時代で馬車に比べたら大きな進歩であった。しかも県道以外にはどこにも走っておらず木月や苅宿方面の子供たちに自慢したほど珍らしがられた時代であった。
大正8年、古屋達三という人が乗合自動車「つるや」を設立して川崎〜溝ノ口間にバスを走らせたのだった。
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荷馬車と立場(たてば)
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大正初年頃は往きかう車は荷馬車が多かった。
正月ともなればこの荷馬車が荷物に何十本となく「祝初荷」の旗を立て、馬も馬方も美しい装いをして初荷を運ぶ。こうして毎日朝早くから夜遅くまで砂利道をガタガタと音をたてて走る車の音以外は静かで平和そのものだった。
馬と馬方が休む場所、これを立場(たてば)といってこの辺には今の中町バス停そばに「寿ゞや」があった。その人たちにお団子、手打そば、お菓子、酒などを売る店で、いつも10台位の荷馬車が休んでいた。
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大きな枝(し)だれ柳があり、その下に馬をつなぎ馬優先でまず「フスマ」に熱湯を注ぎ、長く煮て適当な温度に水で調節し、フスマ湯を飲ませカイバを与え、そのあと馬方がソバや団子などを食べていた。こうした光景を見てもやはり人馬一体がうかがわれる。
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横山新太郎著
「市ノ坪のあゆみ」
表紙絵は「立場」で休む馬方と馬の情景 |
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陸軍大演習と天皇御送迎
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大正7年秋、第一師団の陸軍大演習が行われた。多摩川を境に大迫兵戦が展開。
当時はまだ多摩川には橋がなく渡し船で往来していた。そこで陸軍工兵隊が軍橋を架け、演習終了後も当分の間、民間に開放されていた。
この大演習には各家の井戸水の検査も厳重で兵馬の衛生面にも協力を惜しまなかった。当地市ノ坪にあった共盛小学校(現法政通りの市ノ坪神社北側)が砲兵陣地となり、空砲が打たれるたびに少年たち |
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は眼を見張らせ耳にかたく手を当て見つめていた。各家々にも多くの兵士が休むので、村中がその接待に大変であった。
この時大正天皇の御名代で今上陛下(昭和天皇)がこの県道を通られるので村中が大騒ぎ。当時天皇がこの辺に来られることは前代未聞、近隣の学童も全校この地に集まり御送迎したのだった。
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市ノ坪の名産、〆縄づくり
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昭和12年12月、横山新太郎(写真右手)家の〆縄づくり。手前の立派な〆縄は川崎大師へ納品のもの。 提供:横山新太郎さん |
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市ノ坪の〆縄づくりの歴史は古い。明和7年(1770年)東京・葛飾から市ノ坪の野辺家に養子に来た人が、農閑期の副業にとその技術を伝授したのが始まりといわれている。
米作収入の数倍の利益があり、大みそかにはまとまった大金が入るので市ノ坪地区だけでも50軒近い農家が副業とした。
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12月中旬の忙しさといったら猫の手も借りたいほど。早朝から深夜まで老人や子供までかり出され、家族ぐるみで作業を続ける。
働き手の多い農家用にはごぼう〆3000本、玉飾り1800本、輪飾り10000個以上を作りあげるので大変な作業だった。
(編集:岩田忠利)
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★昭和61年5月1日『とうよこ沿線』第33号から転載
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