編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 
NO.853 2016.01.16  掲載
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 話す人:飯田つ弥さん(90歳 中原区苅宿)
  聞き手:岩田忠利



  おばぁちゃまが見た、明治・大正・昭和・平成の時代



飯田つ弥さん

 明治368月生まれの満90歳。20歳の時に現川崎区小川町から中原区苅宿の旧家飯田家に嫁ぐ。長男幸男さん(69)を頭に4人の子息に恵まれ、孫9人、ひ孫16人。

 地元の小学校から川崎高等女学校(現川崎高校)までつねにトップクラスという優秀な成績、陸上競技の徒競争の“花”でもあった。今でも教育熱心で自らピアノを弾くなど音楽好き、趣味は手芸。

 孫の京子さんのおばあちゃま評「愛情深い女性。手先が器用で私たちの浴衣などはすべておばあちゃまが以前縫ってくれたものです。
90歳の今でも薬いらずの完璧な身体、羨ましいほどです」


 私が生まれたのは明治36828日、今年8月で満90歳です。実家は現荏の川崎駅近くの小川町の農家、父は農業が好きな働き者で当時の県知事から表彰されたほどの人でした。
 
10人兄弟姉妹で私が長女、今でも元気なのは弟2人と妹2人だけになってしまいました。



     言葉で表現できない、過酷な農作業


 

 結婚? それは私が東京・麻布の橋本というお屋敷にご奉公しているとき、縁談があり、お見合いで住吉村の農家の13代目、飯田正男と結婚しました。 主人のおのろけみたいで恐縮ですが、子供の頃、小田中の安楽寺がまだ寺子屋だった当時、そこで読み書きを学び、よく勉強のできる子だったそうです。

府立一中に合格したほどの人でしたが、体が弱くて学校に通い切れず、退学して住吉村役場に勤めていました。

 お嫁にきた当時、苅宿には人家がたったの40軒だけ。市ノ坪では生花を作ったり、お正月のお飾りをやる農家もありました。苅宿のわが家では田畑12反(3600坪)にお米を作ったり桃や梨を作ったり…‥・。



  

 農業機械もない時代、それをすべて手足で行う農作業。それは、それは言葉では表せないほど重労働、大変なことでした! 
 体が弱い主人は勤め人、人手は義父と私を弟夫婦が手伝うというもの。来る日も来る日も肉体労働でしょ、体はクタクタに疲れるんです。

 それでも、お姑さんは盆と正月の年
2回くらいしか里帰りさせてくれない。近所の人が「あんたは川崎の町場から嫁に来て、よく働きますね」なんて褒めてくれましたが、内心では「奉公していた方がよっぽどラク。休日はあるし、水は水道、そのうえ美味しいものはいただけるし」なんて嘆いたものでした。

 でも今日まで私が健康で長生きできたのは、自分が骨太で丈夫な体に生まれ、当時の重労働に耐えられたことだと思うんすよ。


        以来地震恐怖症になった、関東大震災


 


イラスト:阿部紀子(市ヶ谷)

 

 7月にも北海道で大地震がありましたが、私も今でも忘れることができないのが関東大震災。(★神奈川県下はマグニチュード79の大激震。死者29614人、全壊焼121491戸)

私が嫁に来たのが大正12211日。その半年後の91日、昼ご飯を食べている時のことでした。







家の中がグラグラ揺れて、船に乗っているよう。当時の建築様式は釘を使わず、クサビを打ち込んだものですから、そのクサビは柱という柱から飛び出してくる。外を見ると、柿の木につないでおいた牛が木の周りをクルクル回って暴れている。蔵の壁は落ちる。当時流行っていたチブスにかかって寝ていた主人を私は川崎堀まで背負って逃げ、そこにゴザを敷いて寝かせました。その後も余震が続きまして、近所の人が見回りに来てくれたんですよ。

  デマの朝鮮人騒動

 ちょうどその時、「朝鮮人が襲って来て、日本人はみんな殺される」という朝鮮人騒ぎ=c…。
 私たちは「もし朝鮮人が来たら、この川崎堀(二ケ領用水)に飛び込んで身投げしよう!」なんて真剣に話したものですよ。祖父は門を閉め、その前に立って槍を持ち、終日家を守っていたんです。だれがそんなデマを流したのでしょうかねえ?

 朝鮮の方には気の毒なことをしたものです。あの地震以来、私は地震恐怖症になってしまったのか、今でも地震があると真っ先に家から飛び出してしまうんですよ。



       ガラリ変わった戦後


 

 周囲の自然環境の変化

 元住吉周辺の自然や環境は、大正時代から昭和の終戦時までほとんど変化がありませんでした。近くの川崎堀は夏、子供たちが大きなタライに乗って遊ぶ格好の遊び場。土手にはアケビやツバキの木などいろんな木が生えていて、夜にはフクロウが無気味な声で鳴いていました。あたり一帯、人家や人通りが少なく寂しいものでしたよ。
  長男が夜、元住吉へ勉強に通っていた頃は帰るまで心配でねえ、途中まで迎えに行っては提灯をつけて一緒に帰ってきましたよ。

 先祖伝来の土地を次々手放す

 この辺の元住吉や小杉には航空計器など軍需工場がありましたから、あの大きなB29が何機も編隊を組んで飛んで来て、爆弾を降らすのです。生きた心地がしないほど恐ろしい! 
 その戦時中、私も防空演習でバケツリレーをやりましたが、「こんなことやってて、勝つはずがない」と思っても口に出せない時代でした。すぐに<非国民だ>と言われてしまいますから。戦争≠チてイヤですねえ! 

 そして、やっと戦争が終わったと思ったら、うちあたりでも多額な財産税を払わなければならず、タイヘン苦労しました。
 昭和30年代からは周囲に住宅や工場、公共施設がどんどん建ち始め、わが家も人手が足りなくなり、農業ができなくなりました。こうした都市化の波で、うちでも先祖伝来の土地がいろんな施設の建設予定地にかかって、つぎつぎ手放すことに……。


その買収価格についても次代の人たちのためにも書き残しておいてもらいましょうか。帝国通信の工場用地へは坪10円、三菱重工は坪1360銭くらい、また「学校ができるなら仕方がない」と住吉中学校と東住吉小学校の用地にも譲りましたが、価格は忘れましたね。ずっと後にできた苅宿小学校用地はたしか坪3000円位でしたね。

  必死に生きてきた4世代

 私の人生は、明治・大正・昭和・平成と4世代にもわたって必死に踏ん張って生きてきてしまいました。

 最近家族から杖を買ってもらったんですが、車が多くて外へ出られませんよ。でも、生きている以上、できるだけ人のお世話にならないように心掛けているんですが、ボケ防止に始めた宝石箱づくり≠フとき、近ごろは絹針に糸が通らくなりました。

 腹の立つのは私服を肥やす政治家

 最近の世相で腹の立つこと? それは政治家の姿勢ですよ。私たちは一生懸命働いて税金を払ってきたのに、今の政治家は昔の政治家と違って私腹を肥やして口先ばっかり、イヤになっちゃいますね。

                    (文:岩田忠利)





                     ★平成5年8月31日『とうよこ沿線』第59号から転載

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