編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.838 2016.01.11 掲載 
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 本会創立10周年記念

   題「沿線に暮らして」   

★平成2年5月10日発行『とうよこ沿線』第50号から転載


    移住民族の一人として

  慶応義塾大学経済学部教授 古田精二(港北区大曽根台)


 


筆者:古田精二さん

 大倉山の中腹に東急の分譲地が広がる。新婚の私がここに移住したのは昭和40年の早春だった。勤務先が慶応大学で三田にも日吉にも便利という理由で住みついた。



 私が生まれたのは東京・浅草。育ったのは新宿。よくまあ不良″にならなかったもんだ、としみじみ思うときがある。戦災の後は早稲田。そして東中野。ごらんのとおり、今いる大倉山はわが生涯で最高の環境だ。それに引っ越してきたとき、お隣の西村さんが親子電話その他、親身になってお世話してくださった。
 それ以来、移住民族の一人である私は先住民族の方々に敬意を払うようになった。

 本号『とうよこ沿線』は、貴会創立10周年記念号でおめでたい“50号”だそうだ。
『とうよこ沿線』の岩田さんにも私は尊敬の念を抱いている。「継続は力なり」というけれど、10年間もコミュニティ誌を続けてこられたのは並大抵の信念や努力ではない。私も岩田さんを見習って、私たちのコミュニティをこれからも大切にしたいと考えている。



  主人は飛行機、私は商売

  洋裁材料「ダック」経営 清水富美子(世田谷区等々力)


  日ペリ(全日空の前身、日本ヘリコプター)に勤務していた主人と最初に沿線に住んだのは昭和29年、緑が丘でした。自由が丘の駅舎はまだ草が生えた土手の上にあり、長閑な近郊の駅といった感じ。休日には主人と駅前の南風座でよく映画を観たものです。

 当時すでに自由が丘デパートはこの街唯一のショッピングセンターとして大変繁盛していました。或るとき、私の元に妙な話が舞い込んできました。

 「地下で古着屋さんをやっていた主人が競馬に凝り、首をくくって亡くなってしまった。あなたがその後を継いだら?」。商売はズブの素人の私は、これも何かのご緑と引き受けたものの、お客さんが来ると「来た、来た、だれか出てぇ」と奥に逃げ込んでしまう始末でした。
 が、商売になれてきた5年後、今度は向かいのアメリカの放出物資店が売りに出て、ここもボタン屋として開業することに。
 以来、私は従業員に恵まれ商売一筋、主人は75歳まで48年間飛行機操縦一筋の人生でした。






私の半生はこの自由が丘の地で仕事を通じてたくさんの素晴らしい人と出会ったことがすべてです。自由が丘の人は上品さと常識を持ち合わせ、ここは不快な体験を滅多にしたことがないという不思議な国″です。

 清水さんのご主人・故清水千波氏は還暦を過ぎても日本でただ一人の「航空機空輸業操縦士」、通称“空の運送屋”として活躍。この空に賭けた男の痛快な生涯は、作家・福本和也著「孤独の操縦桿」(徳間文庫)に描かれ、富美子夫人も文中しばしば登場します。



   昭和6年からの我が家

 音楽家 三宅洋一郎(フェリス女学院短大元学長 港北区篠原台)


 東横線白楽駅を降りて、海と反対側の坂道を10分ほど登った丘の上に篠原園地がある。ここは松や桜の木に囲まれた起伏に富む散歩道もある県が造った小公園。我が家はこの園地に面した斜面に建っている。
 
亡父がなけなしの財をはたいて、60年ほど前に手に入れた土地であった。



 篠原園地を散歩される筆者・三宅洋一郎さんと声楽家の三宅静恵夫人

昭和6年、その頃は田舎の小駅だった白楽駅から雑草の生い茂る坂道を登り切ると、うっそうとした森の向う側に南向きの斜面が広がっていた。ゴロゴロの砂利道に沿ってわずか数軒の家があるだけ。当時、電気はあったものの、水道もガスも引かれてはいなかった。今になってみれば父には先見の明があったと思う。

 戦争、大空襲、敗戦、昭和の激動の時代が過ぎて行った。今では駅から我が家に至る道には瀟洒なアパートが建ち並び、透き間もないほど家で埋まってしまった。ところが我が家を囲む一角は改造したものの、今も昔の面影をそのまま残している。代は替わったとはいっても誰も立ち退く人がいない。
  四季折々の自然の環境に恵まれたこの土地が気に入り、愛情を持っているに違いない。

 過酷な相続税の問題の騒がしい時代になってきたが、次の時代に至るまでなんとかこの土地を守り続けてもらいたいというのが、私の願いである。








  一人が一本ずつの木を

    声優・女優 阿里道子(大田区東嶺町)




筆者:阿里道子さん

 二人とも大田区千束出身の私たち新婚カップルは、昭和27年の結婚と同時に家を建てる土地探しに歩きました。

 当時久が原駅に近い東嶺町のこの辺りは一面の麦畑。主人は毎日会社の帰りに久が原駅で下車しては、長閑な田園の中を歩き回りました。すると、麦畑を耕すおじいさん、この人に畦道で声をかけ事情を説明しました。でも、「土地は先祖伝来のもの、一坪たりとも絶対に売りません」と、キッパリ。しかし主人はこれに懲りず、今度はおばあさんの元に一1か月毎日、日参。先方は、その熱意と人柄を見込んで、ついに80坪の土地を貸してくれることになりました。

 建坪15坪。モダンな可愛らしい家が新婚生活のスタートでした。庭にバラの花を植え、「バラの家」と呼ばれていました。


 子供ができ、20坪に建て増し。その後、主人と2年間渡英。あちらでは石造りの家に3〜4代もの家族が住んでいます。
 そこで帰国後の昭和47年、当時最新の鉄筋2階建て51坪、現在の家になりました。我が家の庭の欅・楢・くぬぎ・白樺・紅葉・松などの木が四季折々の美しい緑を楽しませてくれています。ご近所の皆さんもその自然の移ろいの素晴らしさに思わず足を止める、ちょっとしたオアシスとなっています。

 国会議事堂の屋根と同じ高さの、この久が原の高台はオゾンの多い健康地でした。ところが最近、土地高騰と相続税の問題で細々とせせこましくなっていくのが悲しい。
 人間は自然とともに生きてきたのですから「一人が一本ずつ、木を大切に。緑を愛して生きてほしい」これが私の願いです。

 阿里道子さんは、昭和27年放送開始のNHKラジオドラマ『君の名は』のヒロイン・真知子役で全国を魅了した、あの美声の持ち主です。
 ショールを頭からかぶり端を首に巻くスタイル、これが“真知子巻き”。当時女性の間で大流行しました。

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