編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.834 2016.01.09 掲載 
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本誌「思いつくまま」
                          
★昭和57年7月1日発行『とうよこ沿線』第12号から転載

   多摩川のサケ放流

        本間洋子 (主婦 中原区丸子通)
       


 「多摩川」は私にとって幼い頃の思い出がいっぱいのところです。戦後水の汚れがひどくなり、まるで死の川といった姿を見ては「ふるさと」がなくなったような淋しい気がしていました。

 昨年4月に住民運動として「多摩川に鮭をよびもどす会」ができたときは、本当に懐かしくて、早速お仲間に入れてもらいました。皆さんの努力によってこの4月には多摩川にサケの稚魚10万匹を放流することになりました。
 当日は天気にも恵まれましたが、私は用事のため出席できず主人が参加しました。以下はその主人に書いてもらったレポートです。

          ★☆★

 4月18日の日曜日は、気になっていたお天気も朝から上々だった。
 川崎・宮内の多摩川の河原に立つと、川の中に張り出した足場が目についた。早速特設の板敷きに出てみると、なつかしいせせらぎの音がきこえた。石に当たってくだける波もちょっとした谷川を思わせて速かった。浅かったせいか水は意外にすきとおって底まで見えた。
 こんな場所がよくぞ残っていたものだ。だが、聞いてみると、前日ブルドーザーを入れてその辺の川底をならし、流れを整えたのだという。
 
 やがて白いタンクの乗ったトラックがやってきた。タンクの中には酸素ボンベに守られた鮭の稚魚がいるはずである。今日は鮭の放流の日なのである。



 

 午後1時からが式典であり、それが終わると、今まで我慢していた子供達がワーッと集まり、台に沿って長い列が出来た。係長からバケツに入った鮭の子を受取るためである。

 そのままの列が川の上に張り出した板敷にむかう。でもバケツを受取ってからしみじみと鮭の子を眺め、流すのが惜しくなった子もいた。
 持ち帰ってもいいかと急に
 顔あげぬ ポリのバケツに
 鮭の子のいて

 カメラマンが裸足になり、流れの中に立った。子供達が流れに向かって静かに腰をかがめ、2、30匹入ったバケツがつぎつぎにカラにされる。
 何か頼りなげな稚魚が下流にわかれわかれに散っていった。それをみんなが見守った。そして願った。
オーイ、元気で帰ってコイヨーッ。

 めだかともまがう鮭の子流
 さるる 多摩の流れのなお
 速くして

         ★☆★

 蛇足ですが、翌朝とびついて見た新聞には、「銀リンに岸辺沸く」として「長洲神奈川県知事ら沿岸自治体関係者、農林水産省、建設省関係者らが、両岸の子どもたち約3千人とともに約2万5千キロ、3、4年間に及ぶサケのロマンの旅立ちを見送る」とありました。
             絵:笠井希代子(綱島)



    私のルーツ、ヨコハマ

         会社顧問 山崎国男(旭区白根町)


 

 私は、横浜市が発行している『市民グラフ ヨコハマ』の「山手外人墓地人名事典」をめくっているうちに、伯父と伯母の名前を見つけた。

 大正13年ごろ、まだ幼い私は、母に連れられてこの伯父の墓参りをしたのを覚えている。それから17年経って伯母がこの同じ墓に入って以来40年間この墓とは疎遠になったままである。果たして現在でもこの墓が存在しているかどうか疑問でもあった。

というのは、伯父と伯母には2人の男の子があったが、そのうちの1人は死に、もう1人の生存が不確かままであったからである。それだけに、市民グラフでこの墓が現存していることを知り、ほっとした思いになったのである。

フランス人の伯父はホテルの支配人

 

 早速昨年の秋も深まった頃、伯父、伯母に詫びる思いで墓参りをした。フランス国籍の伯父は、山手11番街に明治36年設立されたオリエンタルパレスホテルの支配人をしていた。それから何年か経ってこのホテルヘ、私は母に連れられて伯父、伯母を訪ねた。
 
 私の薄れかけた記憶では、伯父は頬に立派な髭を蓄え、天井の高い支配人室の中で、大きな回転椅子に座って葉巻をくゆらせていた。伯父は私たち親子を見るとさっと立ち上り、ひげだらけの顔をくしゃくしゃにして私を抱き上げてくれた。伯父は葉巻の香をプンプンさせて、髭の頬を私の頬にくっつけた。子供好きの伯父は、何やかんや理由をつけて、金額のはる和船の模型や子供の喜ぶ玩具を私たち子供に買い与えてくれた。
 もう一つ、このホテルを訪れる私の目的は、当時珍しかったアイスクリームをごちそうしてくれることだった。


 

その伯父も、大正12年に発生した関東大震災で、このホテルと運命を共にしてしまった。伯母は伯父の没後、フランスからの年金で生活していた。

 たまたま一昨年、テレビ神奈川で、「神奈川の建築」が放映された中に、オリエンタルパレスホテルの建物の写真と、当時このホテルに勤めておられたジミー岩崎さんのホテルについてのコメントが出てきた。私はこのテレビを見ていて心を踊らせた。


大正時代のオリエンタルパレスホテル
神奈川テレビ・栗林幸生氏提供

 伯父の生存中のことは余りにも知らない。ぜひジミー岩崎さんに当時の伯父についてお話を伺いたい、と思いながらいまだにお会いする機会を持てないままになっている。

 近日中にお会いし、私のルーツを知りたく、思い切なるものがある。


    休み時間小景

      教員・牛山睦子(世田谷区下馬)


教員室の休み時間″は生徒たちの授業中。といって開店休業といかないのが、この商売というわけで、結局一日中エンジンはかかりっ放しの状態である。授業と授業の間にある10分間の休み時間も、昼休みも、これまた本当の「休み」につながらない。けれどもその時、生徒たちの顔をみたり、話に興じたりすることには、一種言いようのない楽しさがあって疲れを一時忘れる。

 10分の休みに、高校2年の女子が2人、職員室へやってきた。その一人が担任の先生へしきりに何かを訴えている。もう一人はつきそい≠ナす、と言って傍にいるだけだ。
――先生! A君とH君の席、変えてください。私、がまんできない。被害を受けたんです。ほら、ここ見て。もう、ひっかいたり、たたいたりして、すごくてイヤ。すぐに席替えてください。(横から見れば、肘にばっちりバンドエイドが貼られている)
――誰が、どうするんだ?
――A君ですう。後ろ向いて邪魔ばっかりするし、今までに筆箱2個も壊したし、私にだけ嫌がらせするんだから。ひどい。

 という具合に、そりゃもう激しい口調でまくしたてるものだから、担任の先生はもちろん、近所の先生方は「すわ、一大事か」と顔をあげ、しばらく聞くともなく成り行きを見守るような雰囲気ができあがった。
 つきそい*のもう一人がA君を呼びに行かされ、すぐにA君、登場。


――A、お前なあ……(と担任が言うやいなや)
――あ、これ、私のシャープペンじゃない。どーしてあんたの胸ポケットになんかにあるの。またとったのね。せんせえ−。ほらあ、言ったとおりでしょ。返してよ。
――いやだよ。お前だって返さないじゃないか。何を。
――カセット。俺のカセット2つ。まだ返さねえじゃないか。

――じやあ、私の筆箱返してよ。今までに壊した分返してよ。シャープペンとか消しゴムとかも、投げちゃって……。先生、ほらあ、見て。
――カセット返せ。
――嫌よ。絶対返さないから。筆箱2つ壊したんだから、返さないって決めたのよ。筆箱返したら、返す。
――返せよ。
――嫌よ。せ・ん・せ‥え!


 Aは彼女の真ん前の席にいて、時々振り向いて彼女ばかりの邪魔をするというのだ。
  Aを1年の時教えたことのある私は、彼のとらえどころのない表情と、笑い方を思い出した。一見、内気そうなのだが、どうしてどうして、片意地で頑固者なのだ。どちらかと言えば誤解を受けやすいタイプなのだろう。 好きな女の子のクラスに頻紫に出入りし過ぎて、その子から嫌われる結果を招いたり、それをからかった親友と絶交したり、折れまがった話の根元に座っているのが彼というわけだ。もしかしたら、2年になる時、うまい具合に好きな女の子と同じクラスになれたのかもしれない。

――どうしてそうなのよ。迷惑してるのに。私ばっかり……。
 女の子は興奮のあまりポロポロ大粒の涙をこばし、床にしみができた。そばのAは確かに困り果てているのだろうが、どう見ても自分の方に勝ち目のなさそうな事の成り行きに、バツが悪く、一層ニヤつく顔をとる。

――A、どうなんだ、そのへんは。
――こいつがカセット返さないからだ。
――じやあ、筆箱返して。全部返して。

 耳をそばだてていた先生方の間に、おかしさをこらえている視線が取り交わされた。女の子の気持ちもAの気持ちもわかる。が、なんとも滑稽なケンカなのだ。これは……。
 結局、単なる席替えに終わるのかしら。担任の先生の采配のふるいどころかもしれないと思いつつ、芝居の一幕ものを見終えたような楽しさが残った。

           絵:石橋富士子(横浜)





  マムシ草を見つけた!

     団体職員 岩沢珠代(港北区日吉五丁目)


 葉桜が美しくなった4月のある土曜の午後。大倉山駅前の、お気に入りの店モリスですごしたあと、緑に惹かれてお散歩に出ました。
 坂の上には大倉精神文化研究所がそびえています。でも、私は公園の方へ抜けようと東側の道を歩きました。すると、半開きの門がうっそうとした茂みの中へ私を招くではありませんか。人の気配のない庭。くずれかけた石段。時おりのカラスの鳴き声。まさに恐怖映画のヒロインの境地なのです。
 庭を歩き、ふと目をやった草むらに私の目は釘づけとなりました。





そこには“マムシ草”が生えていたのです。ヤツデのような葉に守られて、見事なヤツが−匹。何を隠そう、私はマムシ草の大ファン。名前も容姿も、ジメジメとした生息地も、大好きなのです。

 東横沿線の、別の場所にも居そうな気がします。今度見つけたら、いっしょに写真に写りたいな。腕でマムシのポーズをとって。  絵:石橋富士子(横浜)
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