編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.832 2016.01.08 掲載 
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本誌「思いつくまま」
                          
★昭和57年1月1日発行『とうよこ沿線』第9号から転載

 望郷の日々、遥かなるクウェートより

         濱田誠一郎(クウェート在住)

       



 砂漠と石油の国クウェートへ来て、はや1年。来る日も来る日も、お陽様ニコニコ。雨は、一滴もなし。そのためか、ひとかけらの水溜りもなければ、一筋の川も見当らず。あるのは平たんにして、無限に続く砂漠ばかり。地平線に沈む太陽を眺めれば、寂しさ限りなく、望郷の念去り難し。


 

 こんな思いでいたある日、遥か彼方、日本の妻より送られた『とうよこ沿線』6号“榎”。ページをめくるのももどかしく、一気呵成に目を通す。目に入る地名や駅名。どれもこれも、物心ついた頃より見覚え、聞き覚えたものばかりにて懐かしさかぎりなく、心やわらぐことしきり。

 それもそのはず。思えば、昭和16年から都立大学界隈に居を構えること約40年。出生地ではないが、今や我がふる里。ふる里を語りあいたいけれど、此処は余りにも遠く、語る友もなし。友なくとも、ペンに依り語ること可なりと思い、拙筆をとる。

今号の「呑川の昔と今のアルバム」、とりわけ興味深し。

 寒い冬の朝、橋のたもとから見えた富士の白雪を思い出す。今や、遊歩道の樹木に隠れ、富士も見えざれしと思う。
 これも時の流れなりしか。妻より送られて来る予定の次号を待ちつつ、拙筆を置く。




  日吉駅での、ある出来事

      小山節子(ライター 神奈川区神大寺町)


 去る11月9日の夜、1030分を少し過ぎたくらいの日吉駅でのことである。
 下りホームは着いたばかりの日吉止まりから降りた人でいっぱいだった。

 ホームに滑り込む電車。
   直前に酔っ払いが線路に落ちた…

 「間もなく一番線に各駅停車の桜木町行きが参ります。白線まで下がってお待ちください」のアナウンス。

 その時だった。ホームからひとりの酔っぱらいが線路に落ちたのである。電車の警笛がけたたましく響き、ライトはもうすぐそこに見えている。ホームのあちこちから悲鳴があがった。もちろん、誰も足がすくんで動けない。ただ一人、線路に飛び降りてその酔っぱらいを線路から引きずり出した人がいる。日吉駅の駅員である。


 

 電車は1、2メートル手前で急停車し、幸いに、ことなきを得た。仮に停車位置がその現場を過ぎていたとしても引きずり出された場所から見て事故にはならなかったと思う。

  駅員の勇敢な行動

 駅員の勇気はすばらしい! いくら職務とはいえ、すぐそこに電車が来ているのである。ほんの一呼吸の差で酔っぱらいともども死んでいたかも知れないのだ。駅員の仕事というと、普段眼にしている限りでは、どちらかといえばのんびりしたものを思い浮かべる。それがとんでもない間違いであることを思い知らされたのである。いざという時には死と隣り合わせの勇気を発揮できること――それでこそプロというのであろう。

 しかし、その反面なんともいえないやり切れなさが心に拡がってくる。
 自分自身をコントロールできなくなるほど酔っぱらって、後は野となれ山となれ、ではあまりにも甘え過ぎというものではないか。

一体に、日本人は酒≠ノは寛容だといわれる。無礼な振る舞いも暴言も、酒の上でのことだから≠フ一言でうやむやにしてしまう。眼くじらを立てたりしようものなら逆に大人げない≠ネどと言われかねない。そういういい加減さがまかりまちがえば、どういう結果をまねくか……。
 あの夜、あの出来事を目の当たりにして、我が身に照らし合わせゾッとした人も少なくないのではないか。

 折しも忘年会のシーズン。誰にとっても他人事ではないはずである。



  ふだんぎ運動に情熱を燃やして

      佐竹義興(埼玉県北葛飾郡吉川町 無職 71歳)





筆者・佐竹義興さん
 

 

 みなさん、こんにちは! 「書くことは自分を開くこと。そしてバラバラに生きている人と、心をつなぐ」これは『とうよこ沿線』の投稿誌面思いつくまま″のリード文です。ホントですね。

 私は71歳です。仕事を離れて3年になりますが、今、孤独ではありません。それは毎日、ハガキ、手紙、駄文を書いているからです。字や文は下手でも、とにかく書こう、体裁を飾らず、思ったこと、感じてきたことをありのままに書く。そんなグループで私は人生のたそがれの灰色をバラ色に変えています。それが我々の「ふだんぎグループ」です。


神奈川県下に4つ、北海道から九州と全国に現在26のグループが点在しています。各地グループで、それぞれ手作りの『ふだんぎ誌』を出して、自分たちを書いています。

 各グループが独立はしていても、孤立しない。ハガキや『ふだんぎ誌』で交流しながら、20代から90代までの男女の“文友”が心を通じながら文を書く。「友、遠近より来る、又楽しからずや」です。

 郵便受、ポトン、今日は何通かナ、音がする″。このふだんぎグループ創始者の橋本義夫氏は、数えの80歳、「書いて花咲く哲学(みち)」「誰もが書ける文章」など著書が多数。
 「私でさえ書けた、皆さんにも書ける」「庶民の我々は、下手でいいんだ。何かを書き残そう」と、ふだんぎ運動に情熱を燃やし続けております。

おかげで文友は、下手だ、ダメだの、劣等感もなくなり、「自分史」等の本も次々と生まれて、賑やかです。

 生きがいや、しあわせは自分で努力して求めるものです。自分から足を一歩、前へ出すことだと思います。お便りください。共に歩いて見ませんか。







 思い出す私の持ち寄り″結婚式

        渡瀬行子(港北区大曽根)


 『とうよこ沿線』7号を拝見しました。なんにもお手伝い出来ず申し訳なく思っております。毎号本当に楽しみに読ませて頂いております。今号のブライダル特集は特に面白く拝見いたしました。私も34年前の結婚の日をしみじみと思い出しております。

 小雨降る日、新郎は朝から築地へ特配の鯛を買い出しに、新婦側は、母、叔母、姉たちで手料理の準備、一升ずつ配給の日本酒を持参で田園調布の仲人さん宅で結婚式を挙げました。


 親兄弟姉妹だけ出席し、式は何型でもなく指輪を交換し、お仲人さんの「高砂」、弟の「千鳥」の曲をそれぞれ尺八で、あとは出席者の寄せ書き、持ち寄りの料理を戴きました。
 写真は新丸子から写真屋さんが自転車で出張してくれました。

 式が終わって、新丸子の会社の寮まで狐の嫁入りならぬ、お仲人、新郎新婦、両親、弟が傘をさしてトボトボ丸子橋を渡ってくれたのです。新居の寮に着いたら停電で、ローソクの灯に迎えられました。

新丸子から大倉山へ移り今までずっと沿線家族です。
  これからも住みよい沿線の発展を望み、『とうよこ沿線』誌のご活躍と発展を心より祈っております。











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