編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.831 2016.01.06 掲載 
★画像はクリックし拡大してご覧ください。
戦争
百日草の詩(11)
    
本誌「思いつくまま」
                          
★昭和56年7月1日発行『とうよこ沿線』第6号から転載

    菊名池と私の店

       風月堂店主 山岡増衛(港北区菊名 72歳)

       




筆者・山岡増衛さん

今から40年前は、不景気のどん底でした。独立を決意した私(当時28歳)に、恩師・風月堂社長は、もろ手をあげて賛成してくれ、3ケ月もかかりやっと現在地を探しあてました。

 当時の妙蓮寺駅は小さく、ホームも短く、電車も木製でした。マッチ箱のような電車は2輌編、お客も少なく、運賃は横浜駅まで5銭でした。が、安いとは誰も思いませんでした。

  開店当時の菊名池

駅の周辺は高級住宅地ばかりで、一歩行けば菊名池がありました。澄みわたった水面には、ボートで遊ぶ若い男女や、スイスイと泳ぐコイ、フナ、エビ。また、カモ、シラサギなどの渡り鳥が飛来していました。
 池畔には八重桜が咲き乱れ、中央には橋がかかり、高台の麦畑にはヒバリが舞い、東京から来た私には、当地は“現世の楽園”だとさえ思われ、将来発展する永住の地と決めたのです。

    統制下の菓子づくり

 横浜は未知の土地でした。菓子作りしか能のない人間です。いかにしておいしく、栄養ある質のよいものを、衛生的に管理し、お客様に愛される店になれるかということです。途中、満州事変、大東亜戦争に入り、一時国策により閉店しました。その後、飛行機会社に入社、陸軍官庁係などやりましたが、戦後間もなく再開店しました。しかし、統制経済のため、菓子の材料はすべてヤミであり、たびたびその筋より出頭を命ぜられて始末書を出したものです。


 統制解除となるや、横浜の和菓子業界では当社がトップを切って、ケーキを発売しました。お客様から好評を得ましたが、同業者からは邪道だと笑われたものです…。

 現在は大福餅からおはぎ、ケーキまで機械作りが盛んですが、何といっても手づくりの味にはかないません。私は今後も職人気質をかたくなに守り、手づくりを続けてゆく心積りです。今では店の経営はすべて息子にまかせ、私は味の研究と新製品の開発のため、職長と共にA店のケーキ、B店の和菓子を試買して歩いたりしています。

これまで役所の方や商店の人におだてられ、港北区の商店街会長のほか、地元・妙蓮寺商店街の会長や県・市の役職を十いくつもやらしてもらいました。その器でもない私が、おかげさまで各役所のトップの先生方のご意見をいろいろと拝聴し、視野を広めさせていただきましたことは、私の大きな心の宝となりました。

 汚水の溜め池と化した菊名池を
菊名公園とプールに実現させた青年たち

飛鳥田市長時代、かつて美しかった菊名池が汚水の溜め池と化し、桜は薪として切りとられ、メタンガスがわき、魚はすべて死滅してしまいました。そうしたことで、妙蓮寺には住民と子供の憩の場がなくなり、往年の楽園を何とかしてつくりたいという青年有志と共に、市長に体当たりしたりしました。モデルの図面を作り、住民に駅前でパンフレット配りなどをやり、ついにかちとり、現在の立派な菊名公園とプールとなったのです。その時の青年有志のねばり強い努力と勇気があったればこそ、私にはその青年の活動を一生忘れられません。



昭和25年、沿線の名勝地と言われていた菊名池

年老いた今日、ささやかな地域奉仕は、商店街の掃除と駅前での清掃です。家族は笑っているが、私は本当に楽しい毎日です。

昭和55年の夏、息子から読んでみろ、とふと手にした雑誌が『とうよこ沿線』でした。本誌の内容の素晴らしさに、うれしさを感じられたのは、私だけではないように思われます。本誌のますますご発展を祈ってやみません。



    声は人なり、10年の歳月

  ラジオ関東(現ラジオ日本)アナウンサー 深沢美津子(品川区)





筆者・深沢美津子さん

 「翔んでるってとんでもない。滑ったり、転んだり、金曜日の深沢美津子です」このキャッチフレーズをまだ覚えていてくださるでしょうか。今年の3月まで、「リビングワイド1422」という番組の中でパーソナリティのジングルとして使っていましたが、われながら名作と気に入っておりました。また、聴取者からもアナタにピッタリ≠ニおほめ(?)をいただきました。

 一声を発すれば、すべて露になる

始めにこのようなことを書きましたのは、マイクに向かって10年が過ぎ、今しばらく「声は人なり」、すなわち一声を発すれば人格も性格も露になる、という恐ろしさが分かり始めたからです。


 新人の頃、アナウンサー養成の特訓を受け、声は人なり≠ニいわれても「人前でちょっとしゃべったぐらいで、私が裸の王様になってしまうなんて、そんなはずはないワ」と思い、少しも真意を理解していませんでした。

その後、実際の仕事をするようになって、「さすがに良い声ですネ」「発音が正確ですネ」などとよく言われて、私はとてもガッカリしてしまいました。私は何をしゃべったか、いかに話が展開したかを聴いていただきたかったのに――自分の技量が未熟だから、とおおいに反省いたしました。

 一芸に秀でた方の話には説得力があります。また、市川房枝さんの情熱は全身が言葉になってアピールする。

 という具合に、大切なのは技術や形よりも、心の内容の深さではないかと確信をもてるようになったのは最近のことです。声は人なり――10年前を反芻(はんすう)し、今の私は新たな気持ちでマイクに向かい生身の人間同士の出逢いを電波に乗せてみたい、と思っております。
 




          映画づくりと農作業

横浜放送映画専門学院 映像科 小野関 裕一(港北区菊名 18)


 

福島県の猪苗代へ行った。何をしに行ったか、というと「田植え」をしに行ったのである。

僕の通う「横浜放送映画専門学院」では、毎年5月、1年生は福島県の農村に行く。農村では、2人ぐらいずつ農家に分宿し、各家の農作業を手伝うのである。

映画も農業もゼロから創り出す

 なぜ、映画学校の学生たちが農作業をするのか? 
 学院長の今村昌平監督は「映画づくりも農業も、ゼロからものを創り出すのは同じで(もの創り)は今日、まったくワリが悪いのだ。だから同じワリの悪い農業をやってみろ」と言う。

 5月18日、午後1時半。僕たちは猪苗代に着いた。農協での入村式の後、期待と不安のなか、僕たちの人買い市場≠ェ開かれた。僕は同じクラスのOさんと、神 常八さんという家に買われた。

 同家に着いたその日から、暗くなるまで働いた。翌朝5時半から暗くなるまで、食事の時間をのぞいてずーっと。翌日も、またその翌日も。僕たちの農家暮らしは続いた。雨の降る寒い日もあった。磐梯おろしの吹く日もあった。暑くて真っ黒に日焼けする日もあった。5月26日までの9日間、帰る直前まで仕事をした。


クワでセマこをウナリながら(田んぼの隅の機械でおこせない所をクワでおこす)、僕はいろんな事を考えていた。「本当に農業はワリが悪いのか?」どの農家もトラック・乗用車・トラクター・田植え機、倉まである。「6月になったらヒマになるので、ポートピアヘ行く」と言っていた。
 たしかに、冬の間は何もできないし、自然に大きく左右される。今年も苗の出来が悪く苦労をした。

 「映画づくりはカッコ悪いぞ、それでも君はやるかい」これが我が校の宣伝ポスターの文句である。でも、映画は農業よりカッコいい。農業は映画より飯が食える。

  東工大生たちと私の店

   「いろは」店長 小池修治(目黒区大岡山)



筆者・小池修治さん

「いろは」は語呂もいいし、事の始まりの意味。当店は去年の夏オープンしましたが、これからどんどん繁昌し、何店も出店をもてるように、との願いを込めて名付けたのです。

 創業は昭和8年のソバ屋から

 ウチはもともと日本ソバ屋。亡くなった親父が昭和8年に「やぶ」という屋号で創業。あの頃の大岡山は東工大が蔵前から移る1年前、校舎を建てている真っ際中だった、と親父は言いました。


私も20歳でこの道に入り、すでに20年。東工大の卒業生が家族連れできて、「お父さんはここの食事で育ったんだよ」なんて会話を聞くと、とっても嬉しくなる。と同時に、おれもオジンになったもんだ、と思ったりします。でも、若い人たちと一緒にいることは楽しい。いつも若い気持ちでいられ、トシを忘れます。

  ふるさとムードの中で

 全国から集まり、この近辺のアパートや下宿で生活している東工大生たち、かれらにふるさとムードの中で安く、旨いものを食べさせられる店が持てたら……。

 たまたま去年、その望みが実現。私の田舎、新潟の小千谷の古い家を普請しました。その時の柱、梁、什器、傘などを持ち帰り、店づくりに使ったからであります。おかげで安心して飲めて食える、田舎ムードの店ができました。

 しかも、明朗会計の店をモットーとしています。なにしろ、東工大の学生さんは計算が強い。どんなメニューでいくら食べ、いくら飲んだか、電卓持参で計算しながら飲み食いするのですから……。



「とうよこ沿線」TOPに戻る 次へ
「目次」に戻る