80人の娼婦で賑わう遊郭
つわもの跡の夢のあと……。小杉新開地といっても昭和生まれの人は多分知っていない。
大正12年9月1日の関東大震災が起きた当日のこと。林屋と2、3軒の店が開業の予定であった。その形態は後に言う赤線と青線の中間くらい。ところが。なんと開業予定の真昼間、あの大地震である。女遊びどころの騒ぎではない。
その反面、吉原などの妓楼は全焼し死傷者も出たが、生き残った女性は職場が無くなり一部がここへ流入。中原地区一帯も一時は大変な騒ぎであった。が、2、3カ月で復旧し、東京・横浜方面から焼け出されてきた人たちもだんだん落ち着き、年末頃には復興景気とでもいうか、町も活況を呈してきた。
当時商工業者は少なく大部分は農家であった。今の中原警察署の前に青物市場があって近在の農家は野菜類を多くここへ出荷する。その帰途、小杉の新開地で遊んで帰る。他にあまり娯楽施設の無い時代のこととて一時は相当繁昌した。
建物は今の小杉御殿町の有志十数名で作った住宅組合が建てた2戸建て8棟と、個人持ちを含め20軒に近く、女は4人平均としても80人に近かった。
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大正末期から昭和初期、こんな娼家が20軒ほど並んでいた |
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場所は油屋の庚申塔から南へ約200b。府中県道へ出る少し手前を左折して約100bの両側に娼家が並び、目隠しの板塀を入れば窓越しに化粧した妓が客を呼び込む。気に入れば上がって遊んで行く。気に入らなければ次々と冷やかして廻る。遅く上がって翌朝帰る者もいる。
屋号は林屋、はつね、辰巳屋、江戸屋、武蔵野、玉野屋、松が技、春の家、宮本、若松、玉鋼、静の家、緑、花月等々。
大正末期から昭和初期にかけて繁栄したこの新開地も、警察の取締りがだんだん厳しくなったこと、交通も便利になり遊ぶ方も良い品を買うようになったこと、女の方も稼ぎのよい方へ住み替えるようになったこと等で漸次下火に……。稲荷様を祀ったり、道路の改修をしたり種々復興策を図ったが、大勢の赴くところ遂に灯は消えた。戦災で残った家も改築され、昔を偲ぶ家は今ほんの2、3軒しか残っていない。
ここで遊びすぎて家を亡ぼしたという話はあまり聞いていない。ここに居た女性が堅気の女房となり、なお健在の人も何人か居る。今は昔の夢物語……。早く消滅して良かったのかも知れない。
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武蔵小杉駅の移り変リ――
グラウンド駅と工業都市駅
南武鉄道株式会社の電車が川崎から登戸まで開通したのは昭和2年3月。その時ここは「グラウンド前」と命名、今もある東京銀行(当時は横浜正金銀行東京支店)や、第一生命のグラウンド(共に約1万坪)があったため。
しかし付近には何も無く、第一生命は広大な土地を占有して中の道をふさぎ、小杉陣屋町方面の人は不自由した。そこで小杉の有志が相談して府中県道のそばに用地約200坪を寄付して駅をつくってもらった。
ところが昭和17年戦時輸送強化のため、国鉄に吸収されて南武線となり駅は廃止されてしまった。そして「グラウンド前」を「武蔵小杉」と駅名改称した。今なら用地は元の地主に返してもらいたいところだ。
一方、東横線は沿線の発展に伴い、府中県道の交差点に「工業都市」という地名にない新駅を設けた。もとから「東横」と「南武」は仲が悪く、一向に連絡駅とする機運がなかった。だが、地元、特に軍需工場等の強い要望によって、工業部市駅を約200b新丸子寄りに移転することで、初めて連結駅となった。
長い間広い土地を占拠して地元に不便を与えていた第一生命も、小杉二丁目にあった日石(最初小倉石油――空襲で全焼――日本石油と合併)が南武線寄りに少し土地を残し、両面を利用できるよう新路線――川崎停車場・丸子線、小杉・菅線が貫通し、駅前バスターミナルも完成した。
おもしろいことに第一生命は土地を売らず、自ら建物を建て大銀行や大商店に賃貸している。これらの土地は今もって元の第一生命時代の小杉町一丁目403番地である。
東横線出口を出て左ガードをくぐれば中小企業婦人会館(現在は超高層ビルのパークシティ武蔵小杉)があるが、右手の駅前は赤い灯青い灯ともる歓楽地。ここは新宿歌舞伎町の一角を偲ばせる風情がある。
小杉生え抜きの60、70代の人たちの誰が今日の小杉の姿を予想したであろうか。
あの辺は一面のたんぼで暗くなると、よく追はぎ″が出た所だったのだから……。
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こんな追剥が出たのは、現在の武蔵子すぐ駅東口、超高層ビル群が林立する新丸子東3丁目の辺り |
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イラスト:石野英夫(元住吉)
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元住吉に住みついて今年で40年になる。昭和20年4月15日夜、米軍B29の爆撃で川崎市の中心部はほとんど焼失してしまった。幸いにもその時、急に風向きが変わって私の家は類焼をまぬがれた。だが、日増しに空襲は激しくなってきた。何時また爆撃を受けるかわからないと思い、疎開したのが元住吉駅前近く、今の川崎信用金庫の辺りであった。
馬車の荷台車で越してきた元住吉
今では引越しは比較的簡単だが、当時は馬車の荷台車(にたいくるま)で馬のお尻を見ながらトコトコ歩いて荷物を運んだ。現在の県立川崎高校(当時は川崎中学)のある渡田山王町から府中街道を元住吉の木月まで荷車と歩いたのを想い出す。
川崎信用金庫の角には桜の老木が一本あって、その下に駐在所があった。今の交番とは違ってお巡りさんが住在する交番である。春には桜の花が咲き、空襲さえ無ければのどかで意外によいところに移ったと思った。商店もマバラで数軒しか無く、朝夕のラッシュ時でも電車がプラットホームに入るとパラパラ十数人の客が改札口を出て行った。当時駅の改札口はホームからの階段を上がり西口と東口に分かれて降りたもので、駅から法政の時計塔が望見できた。
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米兵相手のバラック飲み屋街
現在平和公園のある場所は戦争後米軍の印刷工場のあったところであり、ここに駐留した米軍将兵などを相手とした飲み屋のバラックが駅から住吉神社に通ずる細い道に軒を並べていた。が、米軍印刷工場が無くなり米兵の姿が消えると、そのバラックはまもなく取りこわされた。現在では通勤通学の自転車が所狭しとひしめいている。
昭和49年両親を亡くしてからは現在の井田に移り住んだが、この井田でも今はすっかり変貌して田んぼも畑も無くなりつつあり、矢上川も改築され桜並木も切りはらわれて、蛙の声も聞かれなくなり、セリ摘みもできなくなってしまった。しかしこの沿線では、まあ静かなほうであり、何か身辺に一大異変でもおこらない限り、ここに永住するつもりでいる。
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昭和34年4月、西口の線路沿いの道
右手に新築の労災病院が見えます。終戦後から左手前にあった米兵相手の酒場が壊され、住吉神社本殿を右方向に移動し工事中。
提供:筆者・石野英夫さん |
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昭和16年、太平洋戦争が始まると小杉からも多数の若者が出征して行きました。当時は「○月×日兵隊送り」というフレが出て、神明神社か杉山神社で出征式を行い、みんなで見送りに行きました。そして、最後に出征して行く本人の答辞が終わると、新丸子の駅まで青年団の楽隊を先頭に軍歌を歌いながら送ったものでした。
留守家族がだんだん増えて行くので、青年団が主催者となり中原小学校、医大グラウンド、神社の境内などで留守家族のために慰安演芸会を行いました。
このため、青年団員はみな仕事を終えてから毎日夜遅くまで練習をしました。しかし、そのうち演芸に参加していた青年たちもだんだん出征して行き、いつしか青年団も解散しました。
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戦後まもなくは、敗戦という事実と食糧難できびしい時代でしたが、元気を出さなくては、と昭和21年に青年団も復活しました。そして、神社の祭礼の時に、戦死された若者の家族や、復員を待つ家族のための慰安演芸会を行いました。ここに当時の写真一枚を紹介します。
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演芸会で熱演した青年団員
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和裁の仕事を始め、自由ケ丘で私が独立したのは昭和6年でした。「町の発展のためですからぜひ」との役員さんの頼みに、駅前広場で生徒とともに目黒音曲を踊ったこともありました。
駅前には人力車が2台あり、洗足高女(現在短大)の前田校長のお召物を、私どもまでこの人力車で取りにみえたこともありました。
戦時中は強制疎開のため栃木で6000坪の開墾地で苦労しましたが、再び上京できたのも、手に職があればこそ、でした。一時は宮内庁のお仕事もしましたが、より多くの人のためにと和裁学校に専念することにして、菊名に移りました。
自由が丘は、区画整理され直線路となっていましたが、当時菊名には「区画整理反対」の文字が目立ち、私は不思議でなりませんでした。この反対のため今でも曲がりくねった道ですが、商店街の名が「商栄会」というのは、昔の自由が丘と同じ名で、とても懐かしく思います。
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九品仏池の写真
写真は自由が丘の町を少し出ますと九品仏の森が手に取るように見えた頃のものです。九品仏・浄真寺の裏に写真の“九品仏池”があり、「お昼休みにちょっとボートを漕いできましょう」と誘い合ってよく行ったもの。ボートを漕いでいるのが私で昭和11年生れの長男を抱っこしているのが生徒です。全員和服姿でボートに乗っております。なんとのどかな風景でしょう。
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