編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.827 2016.01.04 掲載 
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戦争
百日草の詩(11)
     
本誌「思いつくまま」
★昭和58年7月1日発行『とうよこ沿線』第17号と次号の18号から転載


  横浜開港の恩人の顕彰碑建立と

      井伊掃部守銅像

               詩人 山本彦太郎 (港北区大曽根)


 すでに新聞紙上等でご存じの方も多いと思いますが、昨冬、その横浜開港の恩人、当時の外国奉行岩瀬肥後守忠震″の顕彰碑が、神奈川台町の曹洞宗の名刺・青木山本覚寺の山門右側に建立されました。
 開港当時、ここにアメリカ領事館が置かれたのも奇しき因縁とも申されましょう。

  井伊掃部守の銅像はすぐ撤去すべき!


 では、掃部山に建っている井伊掃部守の銅像はどうなるのかという疑問が出てきます。井伊掃部守は横浜開港に消極的で、当時安政の大獄のあの残虐非道の暴威にやっきとなっていたのです。そのためその地の水戸浪士によって、桜田門で死を遂げたのです。井伊の家臣などが彼を慕って彼の銅像を建てようと図ったが各方面から反対されて建てることができず、種々の原因から横浜の紅葉ケ丘の一角の丘陵に建てたので、誰言うとなくその場所を「掃部山」といい、横浜開港の恩人だという風にとられたらしい。この大きな誤りが、史実を歪めた。

この極悪非道の者の銅像を何故横浜に建てておくのか……。何故、各界でもこれを黙認したか……。責任は大きいはずです。すぐ撤去し、取壊すなり、旧彦根藩の土地のどこかに持ってゆくなりすべきだと思う。誤認は、もはや許せない。










 紅葉が丘に建つ井伊掃部守の立派な銅像

 明治初期に鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があり、以前は「鉄道山」と呼ばれていたが、この銅像が経ってからは「掃部山」に…
  撮影:配野美矢子(日吉)

横浜開港の恩人、岩瀬肥後守忠震″
    顕彰碑建立に陰の功労者

 この快挙をなし遂げた横浜郷土研究会副会長、森萬男氏なかりせば『岩瀬肥後守忠震』は永久に埋没されたかもしれない。氏の功績大である。またこの顕彰碑建立一切を無償でこしらえてくださった斉藤由蔵さんの功も忘れられない。と同時に、理解ある本覚寺の御住職、森長尚文氏の英断も共に忘れられないことでしょう。




    改札口の親切

  会社員 上井(現・川島) 徹(大田区田園調布)


  

 先日、蒲田駅の国鉄改札口で、ちょっといい光景に出合った。

 毎朝この国鉄改札口の横を通っているが、電車を利用する人は全てが五体満足の人ばかりではないようだ。杖をついた全盲の人が歩いてきて立止まり辺りをキョロキョロし始めた。どうやら電車に乗るらしく、改札口を探している様子。勇気を出して手を引いてあげようかなと思ったが、すぐには声をかけられなかった。




 すると、すぐ横から「カナカナ、カナカナ」と音がしはじめた。見ると駅員が改札バサミを鳴らしたもので、その全盲の人は音の方へ体を向けて歩き始め、無事に改札口を通り抜けてホームへ向かった。朝の爽やかな一コマでした。

 それにしても、人に対して「小さな親切を施す」ということは、かなり勇気を必要とすることだと痛感し、また悔まれた。

 ちなみに「親切」という字は「親を切る」と書くが、人に親切にするには親を斬るぐらいの勇気がいるという故事に由来する。昨今、家庭内暴力とやらで、子が親に切りつけるといった暴力沙汰がしょっちゅうだけに考えさせられた親切″という言葉だった。











     オトナの本

         看護師 伊勢直美(中原区新丸子東)


 武蔵小杉の本屋さんでのことです。小学6年か中学1年くらいで牛乳ビンの底のようなメガネをかけた男の子が、私の隣でスッと手を伸ばし、『プレイボーイ』を手に取り、読むこと15分。それが終わると『アクション』とかいう雑誌をパラパラめくりはじめ、読むこと15分。読んでいる途中、私と目が合うと、その子は走り去って行きました。



 なんとも怖い世の中です。あんな小さな男の子が女のハダカを見て、何が面白いのですかネ? 今度その男の子に会ったら聞いてみようと思います。

 私たちが小学生の頃はあんな本があるのも知らず、大人の本の存在を知ったのは中学卒業の時分でした。 子供は子供らしく、マンガの立ち読みくらいにしてほしい!

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