編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.826 2016.01.04 掲載 
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戦争
百日草の詩(11)
     
本誌「思いつくまま」
★昭和58年5月1日発行『とうよこ沿線』第16号から転載

      沿線今昔

        主婦 酒井智恵子(港北区太尾町)


 東横線は、私の身体でいうならば、動脈のような存在です。昭和5年、反町の近くの沢渡でうぶ声をあげ、白楽の近くの六角橋で育ち、結婚して現在の大倉山に住んで27年になります。

 戦時中の電車

 女学校は反町にある神奈川高女(現在の神奈川学園)で、戦争中は学徒動員で田奈部隊兵器補給廠(現在のこどもの国)で弾丸作りをしました。終戦まで毎日、菊名で横浜線に乗換えて長津田まで通ったものでした。当時白楽と菊名とでは、開く扉の左右が変わり、人の中をかきわけ、かきわけ降りることは、大変なことでした。特に私のような小柄な者は、押しつぶされそうでした。

  昭和30年代の大倉山

 結婚して大倉山に居を構えたのは昭和31年のことです。駅前にはお店が7、8軒ほどしかなく、駅前通りを少し行くとあたり一面たんぼでした。夏には夕暮れともなると食用蛙の大合唱、秋には黄金色の稲穂が風にゆらいでおじぎをし、冬には遠くに富士の白嶺を望むたんぼに白鷺が舞い、まるで一幅の風景画を見るようでした。そして春には近くの梅林からウグイスが飛んできては、「ホーホケキョ」と美しい声でさえずっていました。大倉山の梅林は、主人と初めてデートした思い出の場所でもあります。



  そして今は…

 緑や自然がいっぱい溢れていたこの街も、新幹線開通を機に近代的な街へと変貌してゆきました。子供たちが泥んこまみれで遊んでいた小川は暗渠と化し、たんぼはお城のようなマンションに生まれ変わり、今では昔を偲ぶすべもありません。

 それでも初夏の訪れと一緒にツバメがたくさん駅周辺にやってきては、こわれかけた古巣をなおしてかわいいヒナをかえします。どうか「いつまでも来てね」と願うのは私一人に限らず、大倉山そして東横沿線に住む皆さんの願いではないでしょうか。



「姓」のルーツ、ふるさとを訪ねて

                    カメラマン 小椋 隆(世田谷区奥沢)


 誰もが一度は自分の祖先について思いめぐらすにちがいない。
 姓名の小椋(おぐら)は平安時代、特別な職人として惟喬(これたか)親王からいただいた姓であるとされている。

 「小椋」姓の先祖は“木地師”

 その職というのは、人里離れた山奥で「木地師(きじし)」として生活していた人たちである。木地とは食器などの皿、盆、椀の仕上げする前の原型で、足で回す独特のロクロ″を使い、その元を作り出す。その生活は、ほとんど山ごもりが続く。里へ下りるのは、作品を人里へ運ぶ時だけだった。

以前、父より聞いていた祖先の故郷を、2年前の春、兄と二人で訪ねて回ることにした。
  岐阜県揖斐郡徳山村が私の姓の祖先の地で、福井県と滋賀県の県境にも近い緑豊かな静かな山村だった。伊勢湾に流れ込む揖斐川の源流がこの村々の生活を潤していた。
  木地山の拠点であったこの村は、時代も変わり、その仕事に従事する者は誰一人いなくなっていた。

私の爺さんはこの村で生まれ、幼い頃、北海道へ開拓に渡ったそうだ。清流のたもとに建っている徳山村役場で除籍名簿を調べているうちに私の先祖の名が出てきた。今は亡き爺さんが二度と見ることがなかった故郷。この望郷の念が私の胸に迫ってくる思いであった。








  ダムに沈む徳山村を舞台に
          分校教員の本を映画化

木地師たちは明治30年頃から、いない。多くの人々の故郷であるこの村は近々、大きなダムの中へ沈んで完全に姿を消す運命にあるのである。

 しかし、偶然にも、ここを舞台にした映画が最近完成したのである。神山(こうやま)征二郎監督の『ふるさと』がそれである。先日、新宿の安田生命ホールで、その試写会があったので、私も見に行ってきた。とても素晴らしい作品であった。

 徳山村の分校の教員が書いた本『じいと山のコボたち』を映画化したもの。認知症の老人が隣の家の少年と釣りを介して親交する場面を描きながら、徳山村の美しい四季の自然を堪能させる。
 この秋に一般公開の予定であるから、皆様にもぜひおすすめしたい。



         映画『ふるさと』のシーン

中央が認知症役の主演・加藤嘉、右に息子役の長門裕之、左が息子の嫁役・樫山文枝
 1983年(昭和58年)制作のこの映画は、のち文化庁優秀映画奨励賞を受賞。主演の加藤嘉はモスクワ国際映画祭の最優秀男優賞を獲得している

  




  ここの人あり、ここに店あり

           横浜市立盲学校長 林多有太(神奈川区松見町)


 妙蓮寺駅の踏切を越えて、不二家の角を左折すると、妙蓮寺境内脇の坂道に出る。この坂道を上りはじめて、左手遠く妙蓮寺境内の墓地越しに、本堂と松との調和した絵画的景観を眺めながら、すぐ右手のコーヒー店に立ち寄る。店内に流れるバロック音楽、炭火煎りのコクのあるコーヒーの味を楽しみながら、忘我の一時をすごすことができる。

 この店の名は「トワエモワ」。ドンキホーテ風の風貌のマスターは超凡人。
 盲学校の通学路として、盲学校にとっては格好のオアシス。マスターと盲学生との友情もいつしか結んで、文化祭の準備打合わせをする盲学生の相談役となり、果ては文化祭の当日、一日お店を休んで盲学校の模擬店の肋っ人として、バーテンダーをしてくださる。それも、お店のコーヒーセットを持参しての総力奉仕をされるのである。むしろ、超善人とでもいうべきか?





 


 

だから、この店を愛するファンは多く、商売っ気抜きのマスターのもてなしは、ただお客に良いコーヒーと良い音楽を提供しようということに尽きるのである。

どうか、このような人知れず咲く谷間のユリのように、ひっそりとヒューマニズムを堅持して、盲学生をこよなく愛し続ける店のあることを、東横沿線の人びとは覚えておいてほしい。

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