九州から武蔵小杉に移り住んで、25年になる。引越したばかりのころは、家の周りは田圃だった。だから、都会へ移ってきたという感じはあまりしなかった。学校は中原小学校で、裏には東横水郷があり、景色までなんとなく田舎と似ていたものだ。
やがて、田圃が埋め立てられて工場が建った。そのころぼくは都内の私立中学に入学し、毎日東横線で通学するようになった。日比谷線と相互乗入れをするようになってからは、その両線を使った。中学と高校、それに6年間いた大学も含めて、12年間はみっちり東横線に乗った。その後はフリーランサーで、毎日乗るということはなくなった。いまでは、時折東横線で都心に出かけても、帰りは飲んだくれて車ということがほとんどである。
沿線の景色は、ずいぶん変ったものだと思う。まず踏切がなくなった。ぼくが最も利用する武蔵小杉−渋谷間は、ほとんど高架になってしまっている。
都立大のストリップ劇場
沿線で忘れられない思い出といえば、頭に浮かぶのは、まず都立大学のホームの端から見えたある看板である。いまは城南信用金庫かなにかになってしまっているが、ぼくが中学生のころは古い映画館で、しかも映画を上映しているのではなく、ストリップ劇場だったのだ。「関西ヌード」と書かれた煽情的な看板が、いまも眼に浮かぶ。
毎日その看板を眺めて通学していれば、一度は見てみたいと思うのが、健全な中学生の感覚だろう。見てみたいと思うことと、実際に見ることは大違いである。実際に見物に出かけるのが勇気ある行為だなどと言う気はないが、ぼくがストイックに耐え続けるタイプでなかったことだけは確かだ。
もっとも、中学生の時は、さすがに見物する度胸はなかった。はじめて出かけて行ったのは、高校2年生のころである。勿論のこと、定期を持っていたので、途中下車は自由であった。5、6度、途中下車をした。しかし、劇場の入口をチラリと横眼で見るだけで、入っていく度胸はやはりない。
入ったのは、7度目くらいだった。その時のことはいまでもよく憶えている。詰襟の学生服で、カバンを持ち、しかも坊主頭だった。ぼくは柔道部の硬派で、そのころは黒帯になっていた。入るために自らを励ました心情も、硬派的なものだったような気がする。こんな場所に、こんな劇場があるのはけしからん。眼障りだ。征服してやろう。行為を正当化するための理屈はつけた。理屈はつけたが、つまるところ見たかったのだ。窓口で切符を買う時、手がふるえた。ふるえながらも、一般ではなく、学生の切符を買ったのは、いまでも自分を天晴れだと思っている。入場料は、映画のロードショーと同じくらいだった。
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いま思うと、のんびりしたストリップをやっていたものだ。踊り子が最後のバタフライを取る。その瞬間に照明が消える。再び明るくなった時、踊り子の姿は消えている。
踊り子の生き様を垣間見る
こう書くとおわかりだろうが、病みつきになったのである。映画が好きで、月に5本は見ていたが、それを4本に減らして、1本分の金はストリップ見物に当てた。
いろいろなことを、そこで勉強した。舞台で巨大な乳房を晒した踊り子が、そのままの恰好で赤ん坊に乳を与える姿も目撃したし、一度会った踊り子と、半年後にまた会ったこともあった。
「北海道に行ってたんよ」、その踊り子はぼくを憶えていて、舞台のへソでなまめかしいポーズを取りながら、つぶやくようにそう言った。踊り子たちが全国を行脚していることも、その時知った。暗い感じはどこにもなかった。個人的な付き合いなどありうべくもないが、はたから見ていても、陽気で楽天的なおねえさんたちばかりだったような気がする。
18歳なると、それっきりストリップには行かなくなった。18歳未満お断りという古びた貼紙が、なんとなく馬鹿らしく見えたのだ。そんなものだろう。
ささやかな非行の思い出
ストリップの話などを書くと顰蹙(ひんしゅく)を買うかもしれないと、ちょっと気がひけた。
いまでは、東横沿線はどこも上品な街ばかりである。しかし、かつてそういう劇場があり、週ごとか月ごとか、何人かのおねえさんたちが回ってきて、裸を見せていたということも事実なのだ。ぼくが垣間見た日蔭の人生というやつを否定する権利は、誰にもないと思う。
もっとも、そんなことを書いておくのが小説家の仕事、と大上段に振りかぶったりするつもりもない。
最近、都立大学の駅を通過する時、あのおねえさんたちはどうしただろうとふと考えたりする。そして、少年期のささやかな非行の思い出として、一度書いておきたいと思っただけのことなのだ。
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夏は夏らしく、太陽の下でおもいっきり汗をかく仕事がしたい。そう思って、今年の夏休みに私は、長野県の川上村で農業のアルバイトをしました。
朝は日の出と共に、夕方は日が沈む頃まで、レタスやハクサイの取り入れ、苗の間引き、種まきなどをし、仕事が終わったら夕飯の支度をしました。
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イラスト:筆者・鷲見洋子 |
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行く前には心配だった農業の仕事も家事も、やればできるものだと自信をつけて帰ってきました。おもいっきり体を動かして働いていると、東京での生活のわずらわしいことがみんな忘れられます。
たぶん、農業なんてかっこ悪いと思っている人もたくさんいるでしょう。でも、冷房のきいたビルの中で机に向かってする仕事とそんなに違うでしょうか。生きていくために、何を仕事として選んでも、結局そんなに違いはないのではないかと思います。重要なのは、その仕事に対する自分の気持ちなのではないでしょうか。見かけなんかどうでも、自分が本当に愛することのできる仕事につけたら、それだけでいい。私にとっては、もしかしたら農業も、そんな仕事のうちの一つかもしれないと思いました。
太陽が西に傾く頃、足もとから広がる畑の中で、ふと見あげれば広大な空、まわりは連なる山々。私はこんなちっぽけな人間だけれど、大地の上で、今生きているんだなあ、しみじみ感じました。
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「常に人として持ちたいもの」のモノは、目に見えるモノではなく、心の中にあるモノのこと。どのような世の中であれ、いつの時代であれ、人として心の中にこれだけは持ちたいものである。
「正義を愛すること」と「平和を求めること」である。
自分の一生はたかだか7、80年。どうあがいたって、やがて約束の死が来る。でも、心がけ一つで、自分の人生は豊かになる。
人は本当に自分の心に忠実に生きているのだろうか。自分の心に、確固たる信念を持ち自分の二本の足で、大地をしっかり踏みしめ、地球を支えているのだろうか。
こんなに強い意志でなくとも、カケラでもいい、とにかく自分の信念を持ちたいものだ。
一人一人が自分の良心と良識に基く自分の人生観や理想、信念といったもの。これは目には見えないが人として最も大切な宝物だ。人として持ちたいものだ。
人類の歴史は永いようで、実は今日のような一人ひとりが意志を持って自分の人生を歩めるようになったのは、
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ごくごく最近のことであり、けっして永いわけではない。近代的自我の目覚めは今日でも完全ではなく、大きな力、権力とか風習とかで個々人の意志はねむったままにされるか、押し流されるのである。
今日の日本社会を考えるに、多くの矛盾に満ちてはいるが、例えば、人間が豊かさを求め工場を発展させることに努めた結果、公害とか自然破壊などにみられるような、逆に人間の豊かさを奪い取るようなことになったことなど……。
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イラスト:吉松孝男 |
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まだまだ人類の到達しえた程度はこのようなものであるが、とにかく、まがりなりにも民主的(きっぱり民主的とは、まだ言いがたいが)国家なのである。
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