編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.820 2015.12.13 掲載 
★画像はクリックし拡大してご覧ください。
戦争
百日草の詩(11)
 
大山スベリと花火大会

        
 
文・イラスト:栗山佳也(生花店経営。目黒区平町(都立大学駅前)

                                     ★平成3年11月15日発行『とうよこ沿線』第55号から転載


              
   手頃な多摩川園遊園地


多摩川園というと、東横沿線では唯一の子供のための遊園地であった。規模は小さく、遊戯機も少ないので、いつも二子玉川園にお株を取られていたが、東横線、ことに私が住んでいる都立大学地区では親としては一番手頃で、一番格安な子供サービスの場ではなかったかと思う。そして子供の私にとっても最も魅力的な所であった。

 しかし、50年前の当店は年中無休のうえ、早朝5時から夜中の12時や1時まで仕事をしていたので「タママーエン」とは、到底子供の口から言い出せない所であった。連れて行ってもらうにしても、両親の仕事の都合によるのだが、一年で最も暇な正月あけとお盆あけの2回位が精々であった。


               スリル満点、大山スベリ


 遊戯機は、床が左右に揺れ、周りの壁がクルクル回るビックリハウスや旋回戦闘機。私はこれが大好きで、乗っては目が回り、気分が悪くなって「もう二度と乗るまい」と思いながらまた行けば必ず乗ってしまうという具合であった。中でも思い出深いのは、大山スベリ≠ナある。

 園内の東側山肌を田園調布寄りから多摩川方面に下る長い、長いアップタウンの超長スベリ台で、さしずめ現代版ジェットコ−スターというところであろう。南京袋を腰から両足の間に出し、胸元で絞り、両手で持ち、両足のズック靴でスピ

ードを調節するのであるが、かなりの速度が出るので、そのアップタウンでは昔のエレベーターとかエアーポケットに入った今の飛行機のように血の気が下るスリル満点の代物だった。


       

               腹の上で開く花火は壮観そのもの


 花火大会は7月終わり頃「川開き」と称して夜11時頃まで行われていた。この日ばかりは東横線も徹夜で運転される。

 都立大学地区の子供は昼ころから1時間ほどかけて歩いて行き、水門下の和舟から丸太(マルタ)≠ニいう魚を捕る投網や四つ手網を見学しながら丸子橋を渡り、川崎側の河川敷に下りる。

 河川敷を川上に500メートルほど行った所に張ってある立入禁止≠フ荒縄をくぐり、「玉揚場(たまあげば)」の100メートルほど手前のくさむらに大の字に寝ころんで暗くなるのを待ったのである。
  プログラムもどこかで貰った。それには花火の揚がる時間・玉の大きさ・花火の名称・スポンサーが3色刷りでザラ紙に。多摩川は“尺玉”と“ナイヤガラ瀑布”が有名だった。

 いよいよ花火の打ち上げ。「タマヤー、カギヤー」の声が一斉に。このふた声の意味が分からないが、大人の真似をして同じ声を上げる。尺玉はさすがに凄い。ことに私たちは揚場に近いから尚更。花火が大の字で寝ている腹の上で開くのだから、その響きはお腹の皮が地べたにつくのではないかと思うほどである。ヤブ蚊に刺されることなど気にもならない。



壮観なナイヤガラ≠見て、人波の最後に興奮さめやらぬ紅潮した頬を夜風にさらしながら、また、歩いて家まで帰ってくるのである。着くのは大概、夜中の1時か2時であった。

 今は多摩川園遊園地も、花火大会もなくなった。つい最近あのアユ焼き屋さんも目蒲線の工事で立ち退きが決まり、ただ一軒、浅間神社下の釣り道具屋さんだけが当時の面影を残すだけとなってしまった。残念だが仕方がない。

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次の編へ
「目次」に戻る