わたしの修業時代
写真を見ていただきたい。この丸ノコの刃はダイヤモンド製。刃が熱で焼き切れないように、水で冷やす。飛び散っているのは、その水しぶきだ。
「以前とくらべて、今は楽になったねぇ。昔は石一つ切るのにもたいへんな手間がかかったもんだよ」
と、原石材店の親方である原さんは話す。
石を切るとき、今は丸ノコでまっすぐ平らに切れるが、昔は、まず「ノミ」でたたき落とし、「ビシャン」で切断面をたたきつぶし、「チョウナ」で仕上げる。これらはすべて、石を切る道具だが、毎日手入れをしなければ、なまってダメになってしまう。
神経使う“字彫り”
「弟子入りしたころは、毎朝早くから道具の手入れ。それが終わると、こんどは石磨き。石を切ったり、字を彫ったりすることは、全くさせてもらえなかった」
最も神経を使うのが字彫りだ。原石材店には、横浜ではここにしかないというコンプレッサー付きの字彫り機があるが、それでもちょっと油断するとすぐ字の一部が欠けてしまう。昔は、年季があけて御礼奉公の時期になって初めて覚える仕事だったそうだ。
「字彫りは、夜なべしてやったねえ。昼間だと、若い娘などについ気をとられて、よそ見をしてしまう。夜のほうが仕事に集中できるから、字を欠いちゃう心配が少ないんだよ」
中学校卒業後、5年間ほど信州の小海で修業を積んで上京、東京近辺を転々とした後、現在地の港北区新吉田町に原さんが移り住んだのが昭和35年。今は住宅地になっているが、当時は全部田圃で、ワラぶきの農家がちらほらと見える程度だったという。
「その頃、ちょうど宅地造成が始まって、家の塀や土留めの仕事がどんどんはいってきた。夜も昼もなかったねえ。寝る間も惜しんで働いたよ」
言葉にできない「完成の喜び」
もともと石塔作りで腕を磨いてきた原さんだが、石塔の仕事が多くなったのは、建築ブームがおさまったここ数年のことだそうだ。
先祖伝来の土地を売って家を新築した農家などが、先祖へのお詫びの意味で墓所を整え、石塔を建て直すことが多いとのこと。
「それから、地方から出てきて家を建てた人が、墓所を故郷から移す場合も多いね。今では、石工組合の神奈川支部(神奈川・港北・緑区)の中で建築関係の仕事をしてる所は殆どない。天然石ではなく、ブロックやセメントを使うからね」
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コンプレッサー付きの字彫り機を実演する原さん
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仕事をする喜びとは、と尋ねると、
「仕事の喜びには3つあるんだよ。一つは仕事をもらう喜び、もう一つは完成の喜び、あと一つは集金の喜びだ。その中で一番大きいのは完成の喜びだね。これは言葉では表わせない」
石塔をつくって現場へ運び、それを立てるまでが原さんの仕事だ。墓地の狭い通路を、角が欠けたりしないように細心の注意を払いながら運ぶ。赤ん坊をあつかうのと同じ、いやそれ以上かもしれない。
「それだけ苦労して一つ一つやり遂げ、しかもその製品に人が手を合わせて拝む。それに、石は永久的に残るからね。こんなにやりがいのある仕事はないよ」
後継ぎは? と質問したら、
「大学3年の息子が継ぐことに決まってるんだが、最近はワンダーフォーゲル部の活動が忙しくて、なかなか手伝ってくれないんだよ」
と笑って答えてくれた。
仕事のことになると、目を輝かせて熱っぽく話す原さん。今では少なくなった真の「職人」を感じさせる人だ。まさに「仕事人」だと言えるだろう。
原 春良(はら はるよし)さん
昭和11年3月21日(彼岸の中日)長野県生まれ。徒弟奉公の後、上京。昭和35年、港北区新吉田町に原石材店開業。38年結婚。現在大学3年の長男を頭に3人の男の子の父。49歳
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