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NO.797 2015.12.04 掲載 
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故郷
NO.6
福井県大野郡和泉村

文:尾崎登喜雄(港北区菊名 (有)文化商事・社長
  
        ★昭和62年3月10日発行『とうよこ沿線』第37号から転載


    越前九頭竜へのわが思い


  私の人生の原点は、福井県大野郡和泉村朝日――。県都福井市から60キロ、車で1時間30分の地、ここがわがふるさと和泉村である。
 まず福井県の地図を広げていただこう。
 日本海沿岸でもほぼ中央にあり、九頭竜・日野・足羽という3つの川。その下流に広がる越前平野をのぞけば、山また山に囲まれている。
 なかでも和泉村は、福井県の東端、岐阜県境と接する九頭竜川の上流、北越地方最奥の山村である。

 村の約7割が海抜500メートル以上を占める美しい山、その山地に流れる九頭竜川の支流の谷底に集落が散在する。その面積は福井県下、市町村のうちで第2位の広さを誇るが、現在の人口はわずかに約1200人。

 わが村は奥越前の秘境の里、民話と伝説の穴馬郷(あなまごう)と呼ばれていたが、数年前、葬儀で訪れたこの村もすっかり近代的な山里に変わっていた。



晩秋の九頭竜湖






                      イラストマップ:石野英夫(元住吉)

伝説
「青葉の笛と
   悪源太義平」


  わがふるさと和泉村には数々の民話と伝説がある。その伝説のひとつ。

 ――平治の乱に敗れた源氏一統のうち、東国に逃れたのが源義朝、飛騨から奥越前に下ったのがその嫡男(ちゃくなん)義平、別名を悪源太義平、悪″とは勇猛ぶりをたたえた冠詞、源太″とは源氏の嫡男の別称である。

平治物語などの文献では、ゆくえ知れずの義平が19歳、油坂峠を越えて和泉村朝日へ突然山伏姿で現れる。当時の村長・朝日助左衛門の世話で、庄ケ原という所に仮住まいし、再起の日を待つ。
  このとき、身の回りの世話をしていた助左衛門の娘は義平の子を身ごもるが、出産を待たずに彼は、父・義朝が討たれたとの知らせを聞き、上京してしまう。別れのとき義平は「生まれる子が男なら、いずれ旗あげを」と一振りの太刀″を、「女の子ならこの笛を吹いて終生この地で安穏に暮らせ」と笛″を形見に置いていく。そして平治の戦……。ついに義平は石山寺で生捕(いけど)られ、六条河原で首を斬られる。時に23歳であった。

 この青葉の笛″といわれる笛は、今でも村の熊野神社に残され、その箱書きに「平治2年正月21日より」とある。太刀は朝日家の家宝として保存されている。

豪雪と気質、
   福井県人



  都会暮らし40年の私が今でもふるさとに想いを馳せるのは、きまって雪の降る日だ。それほど村での生活が雪と深くかかわってきたからであろう。

 毎年11月下旬に雪が降りはじめて4月上旬に降りやむ。平均積雪は村の平地で150センチほどだが、昭和22月にはなんと503センチも積ったことがある。また昭和382月、福井県下を襲った豪雪のときには、わが和泉村では交通が完全に遮断され、自衛隊のヘリコプターで食糧を補給されたこともあった。

 こうした豪雪のきびしさをも、人々は苦にはしていない。雪解けの春4月までじっと耐え、そして生きぬくのだ。木材から板を挽いたり、炭俵をあんだり、和紙をすいたり。さらに多くの人が出稼ぎに出て家計を支えるのである。

 私たちの祖先や現代の村人は、美しい山河に恵まれたが、反面ではこの過酷な自然条件の中であらゆる風雪に耐え、試練と闘いながら生活してきた。それだけに純朴にして質実剛健、堅忍不抜の精神をもつ。これがわが村民気質であり、福井県民性だ.ともいえる。それも、ただ忍従するだけでなく、災いを転じて福、逆境を順境にする創意と工夫をこらすのだと自慢したい。


 ふるさとを愛する――この言葉はふるさとを飛び出してひとつの道を極めた人なら誰でも口にするセリフだが、福井県出身者でこの東横沿線に住む著名人といったらどんな人物が住んでいるだろう? 知る限りを取りあげてみよう。

 田園調布にスター歌手・五木ひろし、都立大学に劇団民芸の主宰者・宇野重吉、元衆議院議員議長・福田一、参議院議員・町村金五、女性史研究家・山崎朋子、東大教授・竹内 均、学芸大学には目黒信用金庫理事長・丸井大陸、上野毛に大塚きもの学院長・大塚末子など各氏が東京側の最寄駅に住む。

 また神奈川県側では日吉に元資源エネルギー庁長官・天谷直弘、現代詩の荒川洋治、菊名に俳優・大和田伸也の諸氏がいる。
 ちなみに、わが村出身者で最も名が売れているのは、タレント・清水国明(歌手、あのねのね)である。

災害を
逆手に取った村づくり



  その事例は福井県の産業振興にも見られる。湿度の高い気候風土を巧みに取り入れて絹織物をおこす創意。やがてこれが衰退するとみるや、人絹に切り換え、80年の永きにわたり人絹王国・福井に。そして今、ファッション都市構想をテーマにしてまた再起をはかりつつある。

 わが和泉村も、しかり。度重なる風水害と豪雪災害に計り知れない大きな犠牲を払ってきた。その村が、この年間降雨量の多さと狭隘の地形を逆に利用して、九頭竜川総合開発計画を完成させたのである。その結果、九頭竜ダム・鷺ダム・仏原ダムができ、それぞれの発電所からは大量の電力を供給する。とくに九頭竜ダムは、わが国で3番目に大きなロックヒルダムである。高さ128メートル、長さ355メートル。ダムとその人工湖である九頭竜湖は、今では村のシンボルであり貴重な観光資源だ。

 2年前、親戚の葬儀でひさしぶりに帰省した私は、余りの急激な発展ぶりに驚嘆したものだった。
 国鉄越美北線・九頭竜駅周辺にはスキー場や青少年グリーンセンター、穴馬民俗館、自然木の家など近代的な公共施設が……。アルペン風のドライブインやしゃれた土産物店は村の観光地、鍾乳洞で名高い白馬洞や優美な夢のかけ橋を訪れるハイカーや家族連れで賑わっていた。

 満々と水をたたえた湖面の下にはダム建設で移住を余儀なくされた617軒の家々があったはず。幼友だちの家、遊びに興じた懐かしい場所は湖底に沈み、ダムの下流は乾いた石の川原。

昔の面影は消え、寂しい想いであった。だが、村民が、私の同級生の新井村長や島田収入役、後輩の水谷助役のもとで近代的な村づくりに励む姿をみて、大いに感激したものである。


     筆者・尾崎登喜雄

大正11年表記に生まれ、64歳。海軍航海学校卒。復員後、神奈川県警に奉職。
兜カ化商事・社長。横浜市港北区菊名在住。



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