編集:岩田忠利 / 編集支援:タイトルロゴ:阿部匡宏
NO.793 2015.12.03 掲載 
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故郷
NO.2
  東京都八丈島の巻

文:小林 竹子(目黒区鷹番 日本料理店経営
  
        ★昭和60年12月1日発行『とうよこ沿線』第31号から転載

     太陽と花と人情の島



新東京百景に選ばれた「登龍峠からの八丈富士」

 

本土から海を隔てること約290キロ、伊豆七島の南端に位置し、間には黒潮が流れ、どこまでも青い大海の中に浮かぶ島が、私の故郷八丈島です。

 太平洋の荒波が創り出した自然の芸術、石垣。海抜800メートルの八丈富士の絶景。八丈富士の噴火でできた千畳敷の岩々。椎の木の根元にひっそりと咲くセッコクラン。自然の織りなす景色の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。




イラストマップ:石野英夫(元住吉)

八丈島の民宿ガイドは 八丈町役場産業観光課観光係 04996-2-l121

日本のハワイ、八丈島


  八丈島は、5カ村からなっていました。
 島最大の漁港・神津港と島で唯一の砂浜海水浴場をもつ三根(みつね)村。町役場・植物公園・千畳岩・史跡で名高い大賀郷(おうかごう)村。八丈富士が一望できる大坂トンネルがあり農業が盛んな樫立(かしたて)村。海水が藍のようにきれいな藍ヵ江港・観光の牛角力や黄八丈″の染元で有名な中之郷(なかのごう)村。代官の長戸路屋敷・野生のバナナや多くの滝が見える洞輸沢港・海岸の自然石の間から湧出する露天風呂がある末吉村。なかでも私が生まれ育った家は、中之郷村にあります。

 本土の人には珍しいといわれる亜熱帯植物ヤシ・シダ類は島内至る所に繁茂し、ハイビスカス・ストレチア・シンビジウムの花類やフェニックス・ビローなどの木が見事に育っている八丈島、これを南国の別天地日本のハワイ≠ニいったら自慢しすぎかしら。

薬草 あしたば(明日葉)


  子供のころ、崖っぷちや庭などどこにでも“あしたば(明日葉)”が生えていました。
  あしたばは、今日摘んでも明日には、もう新芽が出るほど生命力が強いことから、そう呼ばれていました。そのうえ非常に栄養価が高い山菜で、八丈島では不老長寿、夫婦和合のスタミナ草として愛用されてきました。

「八丈島の人たちの黒髪は、あしたばのお蔭だ」とも老人たちは言うほどです。その証拠には、昔、秦の始皇帝が徐福という人を使って不老長寿の薬を探させたとき、日本の南方洋上の八丈島まで探しにきたという伝説が残っていて、その薬草があしたばだったといわれています。

 いま、健康食品ブームの中で、この八丈島に自生するあしたばが注目され、ついに『奇跡の薬草――明日葉』という本まで出ているのをご存知でしょうか。ゴマあえ、てんぶら、鍋もの、おひたしなどの料理でその美味しさが引き出せる八丈独特の野菜です。

 

中之郷の実家と宴会



  中之郷の実家は、両親が店をやり、祖父が村会議員でした。祖父は世話好きで、病気、就職、学校、結婚の世話を一手に引き受けたものでした。毎日大勢の来客が出たり入ったり。「村の会議所」といわれ、ここにくれば人が探せる。宴会も頼まれ、わが家は料理屋としても繁盛しました。
 村役場の職員、学校の先生、観光客たちの宴会。そのたびに近所の娘さんがこぞって手伝いに。この慣習を八丈島ではめならべ≠ニ呼び、嫁入り前の娘さんの慣例の一つでした。




 

 宴席には青鯛とこぶし、あわび、岩海苔などとりたての海の幸。海亀は本土の人は食べないそうですが、八丈島の人は食べるのです。生き捕りにした10キロや20キロの海亀が2、3匹。
 暴れる亀を大人が力ずくでまな板の上に仰むけに。観念した亀は、とたんに従順になり大粒の涙をポロポロ……。それから、包丁で料理される亀は、亀なべ≠ノ供されるが、人間のあの残虐さと哀れな亀の姿によく涙した幼い私でした。

島の言葉と八丈文化″


 テレビの時代劇を観ていると、ふるさと八丈島を思い出します。島の言葉があの時代劇のセリフそのままのようだからです。おじゃれ″、給うれ″、姫″、“殿”、父様(ととさま)″、母様(かかさま)≠ネどお年寄たちは、今でもこうした言葉を使っているのです。よその家の男の子の敬称を“殿”、女の子を姫″と呼びます。

 こうした時代がかったことばが現存しているのは、その昔、江戸幕府がこの島に延べ1900人を数える人々を流罪に処した歴史があるからです。これらの流人と土着民によってつくられた独特の文化″は、「鳥もかよわぬ」といわれた離島の中で育まれ、今日まで受け継がれてきたのです。

 民芸織物黄八丈″、流人の遺産八丈太鼓ばやし♀マ光用の見世物として残っている牛角力(うしずもう)″、塩の代用として考案された干物のくさや″など、八丈島の名残をとどめています。

  望郷


 田舎での私は、“問題六郎の孫”で通っていました。六郎とは、祖父菊地六郎のことであり、祖父はいつも地元の問題と取り組み、がんばっていたからといわれています。干ばつに悩む地元のために祖父が造った六郎池″は、今なおその名をとどめているのです。

 八丈島の高校を出た私は、初めて上京し目黒の洋裁学校に通っていました。その頃、八丈島の実家から私あての名札が付いた大きな荷物が、しばしば学校に。そのたびに友だちは歓声をあげたもの。数十人で食べても食べきれないほどの八丈島のお土産がどっさり……。
 しかし私は、その荷物が着くたびに複雑な気持ちになったものです。「八丈島」と荷札に書かれた地名の個所を友だちに気づかれないように、さっと手で隠したり。「八丈良いとこ、日本一」そんな誇りを抱く気持ちと「流人の島の出身」という劣等感が頭から離れないのでした。

 今は、そんな青春時代が懐かしい。離島の代名詞のようにいわれてきた八丈島は、最近「花と緑の公園」とよばれる観光の島として脚光を浴びています。羽田からジェット機で45分、もう日帰りコースです。


     筆者・小林 竹子

 東京都八丈島八丈町中之郷出身。目黒区鷹番3丁目(学芸大学西口駅前)で八丈島から直送、空輸便の魚介類と明日葉などで日本料理店「千本」を経営。
 
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