編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.783 2015.11.30 掲載 
戦争   昨日、今日、明日
   白楽・東白楽の今昔
 
NO.2
文:笠松治良(神奈川区白楽
  
        ★平成11年10月25日発行『とうよこ沿線』第73号から転載

  この夏、神奈川区の六角橋商店街が第3土曜日の夜ごとに「ヤミ市場」と称する特設売り場を設け、さびれようとする商店街の活性化を図っています。
  夜店と言わない点が面白いと思います。若い人たちにはヘンな名前としか思われぬネーミングも戦中派の人たちにはギョッとする懐かしい名前です。



六角橋商店街の横断幕「ヤミ市場」の下に筆者

 懐かしいヤミ市とヤミ屋

百パーセントの物資の流れが統制されていた戦時下、罰せられることには変わりないながらも、合法の流通経路の外側で商行為が行われていました。その中でも最も庶民的なのが「ヤミ市」であり、それに携わる人たちが「ヤミ屋」でした。当時は今の六角橋商店街、その中でも六角橋から東横線の白楽駅へ通じる表通りから一本入った通りと白楽駅のすぐ脇の踏切に抜ける空き地がヤミ市でした。

 白楽駅脇の百坪そこそこの空き地では仮設の店を出すというより、最近の「蚤(ノミ)市」のように地面に直接物を置いたり、リヤカーの上に乗せたりして売っていました。それでも威勢のいい筆で「特売。いわし4匹 10円」とか 「さつまいも一山 10円」などと人気食品を主として売っていましたが、拾いタバコを巻いて売ったり、刻みタバコやそれを巻く“手巻き器”なども売っていました。

 「外食券」がないと食事できない時代でしたから、主食の類いや進駐軍の横流れ物資などは口コミによる特定窓口があつたようで、確かに秘密めいたヤミ屋がうろついていました。
 六角橋寄りのヤミ市はバラック建ての市場スタイルで、現在の横丁の前身だったと思います。出所不明の焼き鳥や焼酎なども手に入りました。



昭和21年、焼け跡から立ちあがった自由が丘駅前のヤミ市

 路上にムシロを敷き、商品を並べた露店。家族の明日の生活資金「これで足りるかな?」売り上げを数える姿が痛ましい
 提供:目黒区発行「あの日この顔」



 面影がない白楽駅周辺

  それから半世紀、例の第3土曜日の夜になると「ヤミ市」そのものを知らない茶髪の若者たちが「ヤミ市場」でソフトを舐めながら歩いています。

 白楽といえば昔から知事公舎、迎賓館があり、それらを取り巻く篠原台、篠原西の一角は大きなお屋敷の塀が連なり、人通りの少ない静かな町でした。今、その公舎は取り壊しにかかり、マンションが建ち並ぶ町並みに変わろうとしています。

 戦後いち早く開業した白楽西口駅前の白鳥座(映画館)が消え、静岡銀行に変わってすでに何年にもなります。ヤミ市の跡地はこぢんまりした店が並び、大きな酒屋さんの跡はパチンコ屋になっています。ホームが中央にあった駅も今は両側となりました。東口駅前、山側の崖もいつのまにか整地されて建物で埋まり、昔日の面影がありません。

 カナコーと昔のわが家


 本誌前号の第72号で久々に「アルバム拝借」の写真を懐かしく拝見しました。なかでも、23頁の「昭和6年当時の県立神奈川工業学校」を平川町側の山の上から撮った写真を見て、思わず愛用のルーペを持ち出しました。

私がこの地に越してきたのはその10年後、昭和16年でしたが、関東大震災後に建てたという家を買ったので、この写真の中央付近にあるはずなのです。写真をよく見ると東横線の電車が1両、東白楽駅に停まろうとしています。そしてその右の、駅より少し高い位置に昔のわが家″が写っていました。昭和20年5月29日の横浜大空襲で焼けてしまって以来のご対面でした。

 この写真説明文にある「軍艦山」と呼んでいたのは、写真背景の丘の一番右の一角だけで、写真では現在の孝道山の本堂が建っている辺りです。下枝のない一本松があったほかは、きれいに整地されていました。写真中央の小高い所は一面に背の低い松林で、現在はキリスト教会と幼稚園、それに煉瓦造りのマンションが建っています。

 同じく「アルバム拝借」の22頁に東横線の開通まもない頃、河川改修工事の写真と現在同じ場所を急ピッチで掘削工事が進行中の写真とが組み写真で載っています。ちょうどこの写真の位置辺りから東横線は地下に入り、反町駅と横浜駅は“地下駅”となり、みなとみらい21地区から山下公園経由で元町駅″まで通じます。もうそうなる日も遠くないようです。

 木造平屋建てのカナコー(神工)″が戦争で焼け、進駐軍が接収して簡易刑務所(通称モンキーハウス)として使用され、そして返還後は新しい学制で「神奈川県立工業高校」として復活、さらに2年前には現在の高層ビルの新校舎が完成しました。
 あの昔の写真からやがて70年、私の東横線とのお付き合いもそれに近くなります。


      笠松治良(本名・二郎)

 昭和311月田園調布生まれの71歳。東京工業専門部を中途退学。パンアメリカン航空会社に入社し19年間勤務後、同航空貨物代理店の常務取締役を定年退職。世界各国に短期、長期の出張勤務、最後はフランクフルトに駐在。2年間の嘱託を終え、現在フリー。東白楽駅近くに在住。


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