小学校5年生で進駐軍の持ち込んできたアメリカ文化の片鱗を日吉でもろに受け、ア几ファベットをいち早く覚えてしまった私だったが、一方では毎日やってくる郵便配達のおじさん、年に何回かやってくる富山や奈良の置き薬のおじさんが、縁側の先で弁当を使うときに、そばに座り込んで、各地のおもしろい話を聞くのが楽しみだった。
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このナマの地方の情報は、子どもの心を強く刺激した。地図を持ってきて、細かい話を聞いては、行ってみたいもんだなと、夢を描いていた。6年生になると、ノートに各県の地図を書き写し、街や村、鉄道、産物、名所旧跡、名物などを書き込んで楽しんでいた。
その当時は日吉の奥地、下田町。そこは住居が約80戸ほどの小村で、母が町内会長の秘書役で、といっても、カーボンを何校か重ねて書き、各組で回す回覧板をつくり、それをその時の組長の家まで届ける役を私がつとめていた。組長は輪番制だから、ほとんど全家族の顔を知っていた。農家が主体で、お勤め人は日吉の駅まで約2キロの道を殆ど徒歩で通っていた。今の中央通りを、追いつ追われつしながら早足の通勤、通学だった。
妙蓮寺の武相中学に通うようになったのは終戦3年目。
当時の東横電車はダークグリーン一色の3両編成で、ドアーにはガラスがなく板張り、座席も板張りの老朽車。だが渋谷寄りの先頭半分は、内部はブルー、オフホワイトのツートンカラーの内装に、濃いブルーのふかふかしたビロードのシートの進駐軍専用車だった。
こちらは、押し合いへし合いの混雑なのに、あちらは、“GI”と呼ぶ米兵とそのガールフレンドだけで、ガラ空きだった。
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昭和24年代官山駅ホームで筆者撮影。先頭車両に白線の入った進駐軍専用車両 |
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武相中学校は戦前にできた5年制の旧制中学校(男子校)で、私たちの入った年から、中学校3年、高等学校3年にきり替わったが、上級生はバンカラで、高下駄をはき、帽子にはポマードを塗り、詰め襟の学生服、髭をはやした大人であった。朝礼台の号令係は、軍隊調で、「気を着け、礼、右向けー、お、休め」などと吠えるような号令だった。
「うま」という石野瑛校長は、考古学者で、苦労を重ねて学校を創設した、真の教育者であったと思う。 その時はうっすらとしか分からなかったが、年をとるに従ってその有り難味が分かるような人であった。まだ右も左も分からない中学生に、ちょっと真似のできない、筆ですらすら書くような見事な字を黒板に書きながら、一人前の人格をもった人間に話をするように対応されていた。
眺望がきく校舎のある高台は、最初は松風台と名づけたようだが、名うての郷土史家であった校長は、すぐに武相と変えたようだ。武蔵と相模を見渡し、富士の高嶺を仰ぎ見る地は、校長の自慢だった。
「君たちは知らなかったろうが、この丘陵は、万葉の時代には、多摩の横山と呼ばれて、良質な馬を産み出す牧場、放牧場だったのだ。君たちがわしを、「うま」と渾名(あだな)するのも、まんざら縁のないことでもない」
と言って、万葉の句をひとつ教えてくれた。
赤駒を山野(やまぬ)に放してとりかにて
多摩の横山徒し往きやらむ
夫がはるばる西国に戦に往くというのに赤い馬を山野に放してしまって、捕まらないので、夫は多摩の横山を歩いて往かせなければならない。留守役の妻の嘆きを綴ったものだという。
もうひとつ、石野校長が教育者として、生徒に大事なことを教えるべく仕組んだことは校歌や応援歌であった。今も変わっていないと思うが、甲子園で歌われた校歌は、
天日羽ばたき 大地ひろし
正道こそは天地を貫く
誠は天の道
人の世の平和 ここにぞ宿る
と続く。覇道をゆくな、正道は誠にあるぞと教えているのだ。これは40代になって、じわりと効いてきた言葉であった。
応援歌のほうは、「動中静あり、静中動、動静章はだてじゃない」とあった。秋の運動会に先立って、篠原町から六角橋、白幡のあたりを、はりぼてで作った人形をリヤカーに乗せて、この歌を歌いつつ行進したものだった。その時はなんの意味やらさっぱり分からぬことで、二つの四角形を90度ずらせて重ね、赤、青、紫を表し、その中に「武相」と書かれた校章は、おおかた人間の動脈と静脈を表したものだと、勝手に解釈していた。
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昭和24年1月、武相中学2年当時、副級長の筆者(前列左端)が芹沢信先生、学友と校庭で |
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動中静あり、静中動あり、の言葉に秘められた、人の生きてゆくための、悟りのような深遠な意味を解釈した時、それが仕事で台湾の高級官僚の方や、中国の無錫や杭州や大連で、党の上級幹部と会話を交わした時に、鮮やかに蘇り、同じ東洋人の心を通じさせてくれた。
どれだけ、「うま校長」の偉大さを感じたことか。まさに門前の小僧、習わぬ経読むということが、いかに大事かをつくづくと考えさせてくれたのである。
今、わがプリンス幼稚園の園児は、いろはかるたで遊んでいる。日本語のもつ言葉のリズムと共に、それは彼等の頭の中に入りこむ。
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イギリスの幼稚園や小学校の様子をみていると、プロジェクト学習というものが、よく採り入れられている。イギリスばかりではなく、オーストラリアやニュージーランド、カナダなどでも、このひとつのテーマと目的をもって教室と野外の双方で実体験した結果をまとめてゆくというやり方で教えてゆく。
子ども達もノート片手に、観察したり、書き留めたりしている。これを行うには先生たちもまた、研究生になって生徒と一緒に探究する心がなくてはならない。
ある幼稚園では秋のマートに並ぶ果物を描いたり、製作していたが、その前段階で、まず図鑑をながめて、どんな果物があるかをしらべ、次には、朝早いうちにマートを見学して売り手のおじさんから話をきく。つぎに園に戻って、欧州の地図を描き、どの国からその果物が送られてくるか図に描く。すでに、幼稚園の段階からこうしたテーマがとりいれられているのだ。
こどもの頭の中には、すでにかなり複雑なことにも対応できる回路が仕組まれていると思う。そうした回路の枝先に刺激を与え、少しでもかわいい芽を発芽させておくことが、のちのち大きな枝に生長し、立派な花を咲かせることに繋がるのだろう。
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フランスのノルマンディー地方は、ドーバー海峡をはさんで、イギリスからフェリーで日帰りのできるほどの近さだ。あの有名な]デー、ノルマンディー上陸作戦の敢行された場所に戦争博物館がある。戦争は前線でドンパチすることだけが、よく報道されるが、問題は補給ラインの確保にあり、特に第2次大戦のこの上陸に際しては、潮の干満のもっとも激しいこの海岸に、いかに補給路をひらくかが問題であったという。この作戦の準備段階のかなりの部分が、浮きドックの前線への輸送と戦場での組み立て方法の研究に費やされている。博物館にはそうしたプロセスの説明や、連合軍を迎え撃つドイツ軍の作戦計画などが、実物の資料と写真や図でこまかく説明されていた。
ここにイギリスの小学生の遠足がたくさんやってきた。見ていると日本の学生の遠足とは、かなり様子がちがう。生徒の態度が熱心で前向きなのだ。先生も一緒になり説明を聴いたり、相談にのったりしている。
どうも、教室で生徒と先生のディスカッションの中から、疑問となっているところが、絞りこまれているらしい。
赤いほっぺたを膨らまして、小太りの男の子が熱心に質問をしている。
教育とは、教わる側に、なにがしかの経験があって、そこに興味の沸いたときがチャンス。子どもたちは数倍、いや数十倍の早さで、学習を達成してしまう。そして一生それは肥やしになるのだ。
この海辺の片田舎で私は、つくづくその原理を学んだのだった。
毎年、2月の半ばになると、万難を排して私は幕張のメッセに出かける。大袈裟にいうと近未来をちょっぴり覗いたり、経験するための楽しい旅である。MaCE
xpと呼ばれる年中行事は、毎年、なにか、10年から15年先を夢見させてくれる。
そうした新しいクリエイティブ技術の革新は、思ったより早く、自分の手のひらの近くにやってくる。絵を描くことが苦手の人間に、簡単に構図の取り方を教えてくれたり、模型でつくった空間にカメラを入れて、あたかも自分が入り込んで見えるような3次元の風景をとらえたり、合成したり。自分で撮った映像をその場で編集、ナレーションにバックミュージックを配したショートムービーを創ってEメールで送ったり。
私たちがこどもの頃は、音楽、図工、造形、作文といった表現の方法は、それぞれ別々のジャンルのものであった。今コンピューターの技術進展によって、写真、映像の分野までもひっくるめて、表現できるようになった。しかも、そのようなビジュアルな表現が、感性さえあれば、一般の技術をもたない人でも、簡単に表現できるような世の中が、すぐそこいらまで来ている。
自分の伝えたいことを、世界の誰彼に向かって発信できる世界、広い世の中にむかって、「この指とまれ」と言える時代がすぐそこまで来ている。
幕張の大ホールに数千人の人が、つぎに何が飛び出すかと、期待をもって集まる中で、カリフォルニアから飛んできたMaCのCEO、スティーブジョブス氏から新しい技術が飛び出すたびに、賞賛の口笛と拍手がとぶ。ジーパン姿の彼はまるで近未来の案内人のように得意げに、昔、ガレージで自家製のコンピューターを組み立てたときのように、いたずらっ子ぶりを発揮する。
こうしたことにウキウキと浸るのは、幼稚園児のように、飛び込んで経験してはじめて分かることなのだ。理屈だけで逃げないで試して実感を味わう。そこから次の世界が見えてくるのだ。
今年は台所に透明感のあるブルーのiMaC(アイマック)を家電の一つとして置いてみようと思う。台所からインターネットを通じて何が見えてくるだろうか。今から楽しみである。(完)
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