編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.780 2015.11.29 掲載 
戦争

 
 昨日、今日、明日
  
前編
文:田辺 雅文(港北区下田町 プリンス幼稚園・理事長 / ライター
  
        ★平成11年10月25日発行『とうよこ沿線』第73号から転載
 


 オーストラリアの木の名前


  

もう15年も前のことだろうか。オーストラリアの黄金海岸に近いブリスベーンに、仕事で立ち寄ったときのことだ。忙しいスケジュールの合間、といっても、たかだか早朝か夕方の一時だが、植物園を歩くのが楽しみだった。
 そこで面白い名前の潅木を見つけた。背丈が2メートルくらいだったろうか。花をいっぱいに付けているのだが、それがピンク、白、薄紫の花を同時に咲かせているのだ。今までに見たこともないこのシュラブの名は、イエスタデイ・トゥデイ・トモロウ、「昨日、今日、明日」と付けられていた。

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 湘南逗子に生まれ、草深かった日吉の奥に育ち、渋谷のミッションスクールから、アメリカのミシガンに留学して、広い太平洋と欧米を仕事の場として約60年、これからの新世代に羽ばたく幼児たちと幼稚園に遊び、文化と歴史を語りながら外国を旅する人たちに新しいスタイルのガイドブックを書いている。
 ちょっと変わったキャリアからの、肩のこらないエッセイを書いて欲しい。そんな編集者にうっかり、
OKを出してしまった。

若い父母、その出会いから


 私の父は日吉の旧家の出だが、目蒲線の不動前にある攻玉社の工専(工業専門学校)を苦学して出た。当時東横線は存在せず、徒歩で約5キロの道を丸子の渡しまで歩き、現在の多摩川園駅から電車で通ったというから驚く。しかも昼間は学僕として働き、夜学を終えて、元住吉から人家のない井田山を抜けて深夜に帰宅したという。学生時代に東横線の田園調布〜渋谷間、その鉄道新設の測量を実地訓練として経験して、逗子町役場に奉職する。

 その頃、茨城県の笠間の在から、東京・芝の慈恵会病院付属の看護学校に学んだ母が、当時貴族の松方男爵その葉山別荘付きの看護婦として勤務していたときに父と出会って結婚し、逗子に居を構えたことから、私は逗子開成中学の近くで生まれたのだった。
 当時まだ海岸の岩を背景に建っていた浪子不動の石碑の前で、都会っ子だった私の姿が写真に残っている。

 松方乙彦氏は米国プリンストン大学に学び、ルーズベルト大統領と学友であったというが、若き母は、この松方氏を横浜の埠頭に見送った経験がある。その強い印象が、後年私をミシガン州立大学に留学させる素地をつくるのだが、時代は戦争に向かっていた。

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 開通間もなくの湘南電車(現在の京浜急行)はトンネルが多く、中を通過しても車内灯がつかないことがしばしばで、幼児としては怖かった記憶がある。

 横浜駅の東横線は、まだ島式の高架ホームだったが、ここは私の楽しみにしている場所だった。大きなロッカーほどの鉄製の自動販売機がおかれ、明治のミルクチョコレートとミルクキャラメルの絵が貼られていて、硬貨
を入れてボタンを押すと、下のシュートにお菓子が出てくる仕掛けであった。私はボックスの後ろに回ってみて、どこから人が入るのかと探してみたが、それらしきドアーはなく、不思議であった。

 日吉で過ごした小学校時代

 日吉の駅から徒歩で約2キロ、下田の渓はまったくの田園で、タケノコ掘りの名所だったらしい。
 現在の松の川緑道を流れていた小川が長い年月をかけて、この多摩丘陵の尖端にある日吉の丘を梳った浅い渓谷は、絵に描けるほど美しい田園だった。

   それは、いまバスのサンヴァリエ日吉線が走る常盤台から高田町の興禅寺に至る道路が三つの大きなカーブを描いて渓を抜けていることから推定できる。岬のように尖ったカーブを抜けるたびに、田圃と緩い丘と木立に囲まれた民家が散見され、その中央に二つの神社と地蔵尊の森が、高くそびえていた。でも都会っ子の私にとっては、竹薮に囲まれた村はド田舎であって、夜は鼻をつままれても分からないような漆黒の闇の中の世界だった。


 


筆者が学生時代描いた自宅前の風景。
現在後方の丘は公団サンヴァリエ日吉

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 終戦は日吉台国民学校4年生の頃、進駐軍とともにいち早くやってきた。小学校は爆撃で瓦礫と化し、私たち小学生だけは、特別に許可なしに米軍の駐屯する現在の慶応大学の敷地を通行して、山の反対側の、通称マムシ谷にある運動部の部室を教室にして通っていた。米兵に話しかけられたとき、なぜかアメリカの匂いがしたと思った記憶が残っている。

 当時の私の宝物は、現在の普通部通りにあつた篠田書店で買った『日米会話手帳』だった。母はこれを見逃さなかった。
 ある日、五線紙のようなノートを買ってきて、アルファベットを教えてくれた。活字体、筆記体の大文字、小文字を2、3日で覚えてしまったのは5年生のときだった。今にして思えば、これが私の人生の出発点だった。

 ドミニク君のジェスチャー

  昨年、米国西海岸のシアトル近郊のタコマに住む友人の子で、12歳のドミニク君を1週間ほどホームステイに招いた。彼は日本語を習っていて試してみたいと盛んに言っていたので、思い切って幼稚園の中で遊んでみないかと持ちかけた。私は週1度、幼稚園で5歳児とともに、英語で遊ぼうというプレイルームを担当しているので、彼らを夢中にさせるうら″を知っている。


幼稚園の園児たちと英語で遊ぶ時間「プレイルーム」のとこの筆者

 それを彼にそっと耳打ちしておいた。ノート型パソコンを操り、サッカーボールを脚でお手玉のようにはじく彼は、たちまちのうちに、園児さんの中で人気者になった。
  プレイルームの中に、簡単な動作を口で唱えながらジェスチャーをする場面がある。UPDOWNPUSHPULLTURNAROUNDなど、動詞が多いのだが、彼は、もっと楽しいのがあるよ、と言って、HAPPYSADなどを付け加えた。HAPPYは何とか表現できるとしても、果たしてSAD(悲しい)はどんな格好をするのかなと、私は内心ぞくぞくして見守った。

彼の付けた動作はなんと、日本のお猿さんが示して、一時有名になった「反省」のポーズだった。片手を低いテーブルに置いて、うつむき、悲しい表情をする。日本だったらさしずめ両手を顔に当てて泣く真似をするのだろうが、文化の違いはこんな具合に出てくるから面白い。

 この遊びのヒントは香港で仕入れた話から得たものだ。戦前、神奈川区にある浅野中学(現浅野学園)では、体操を英語の号令のもとに行っていたという。すすめ、みぎ、ひだり、とまれ、などと英語で掛け声をかけていた。戦後ここの卒業生が初めて出張で香港に出かけ、的士(テクシ、香港では英語流にこう発音する)に乗ったとき、これが活きてきた。「面白いように通じたよ」とその人は目を輝かせた。

 子供の頃に身体を通して覚えたものは、結構残るものだ。それより何より、園児さんたちはこの遊びを嬉々として楽しんでいる。(続く)

 筆者紹介

 田辺雅文(たなべまさふみ)

 1935年(昭和10年)両親の勤務地、逗子市に生まれ、小学校時代から父の生地、港北区下田町に住む。

 ミシガン州立大学大学院ホテル経営学修了。1965年(昭和40年)に東急不動産に入社。赤坂東急ホテルのチーフプランナーを務めた後、東急ホテルズインターナショナルで約25年間、太平洋各地のホテル建設に携わる1992年(平成4年)にホテル設計・建設のコンサルティング会社を設立。実家の下田町でプリンス幼稚園を経営し理事長。

 著書に柴田書店刊「リゾート事業予見」。旅名人ブックス「ケンブリッジ・東イングランド」、同「ウェールズ」、近日発売の同シリーズ「オランダ」を執筆。愛称はPete Tanabe

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