編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.762 2015.11.18 掲載 
戦争
東西 比較文化論
第4回
幸運を運んだ人
 
   文:イラスト:矢口 高雄(漫画家 奥沢在住) 

                  ★昭和61年9月30日発行『とうよこ沿線』第35号から転載

 仕事柄マンガ家仲間との交流が多いと思われがちだが、実はあまりない。
 マンガ家同士がお互いに忙しいのである。忙し過ぎて時間がないのである。


 

 そんななかで親しく付き合っているマンガ家に石井いさみさんがいる。「くたばれ涙くん」や「750ライダー」で知られる人気マンガ家である。石井さんと知り合ったのは、もう16年も前の昭和45年のことで、実に奇妙なきっかけであった。

 上 京

 その年の6月、ボクはマンガ家になるために12年余り勤めた郷里(秋田)の銀行を退職し上京していた。子供の頃からマンガを描くことが好きで、その夢を実現するために敢行した脱サラであったが、夢と現実の計りようのない葛藤を感じて不安な日々だった。

 一般に、新人のデビューは出版社が設定した新人賞に応募し入選するとか、作品を編集部に持ち込んで認められるケースが多い。ボクもそれと大差のないケースでデビューし、銀行を辞めた。
 銀行員時代に描いた作品が認められ、退職早々大型連載の話があった。しかし喜びも束の間、その連載が突如中止となったのである。順風満帆のはずのスタートが一転してうつうつたる日々に変わった。

 そのうつうつたるなかでボクは、誰に依頼されることもなく一本の作品を描いていた。「鮎」という作品である。釣り好きだったボクが、ふるさとでの楽しい鮎釣りを想い出しながら描いた作品である。
  石井さんは当時少年サンデーに「くたばれ涙くん」という作品を連載中の超売れっ子マンガ家だった。ボクより2歳年下ながらすでに10年余りのキャリアを持っていた。

  幸運の夜

 ちょうどボクの「鮎」が完成した夜のこと、3人の編集者がドカドカとボクのアパートを訪れた。
 「石井さんが病気で倒れた。もう校了タイムぎりぎりだ。『鮎』を代わりに掲載させてほしい」だった。

 突如ボクにラッキーが訪れた。病に倒れた石井さんにはアンラッキーだったろうが、とにかくボクにそのスペースが与えられ、思ってもいなかったデビューとなったのである。
 奇妙なきっかけと書いたが、実はこんな例はマンガ界にはよくある話である。急病の例ばかりではなく、多くの仕事をかかえた人気作家が締め切りに間に合わなかった場合などに、思わぬ新人にデビューのチャンスが回って来るというわけである。


 

「鮎」は発表されるや大変な反響を呼んだことを編集者から知らされた。それと同時に立ち消えた大型連載の話がその後トントン拍子にまとまっていったのである。



起死回生の満塁ホームランとなった矢口作品

出会い

 石井さんに会ったのはそれからしばらくした秋のことである。すっかり病気の治った石井さんは、笑顔でボクの「鮎」をほめてくれた。嬉しい一時であった。
  年上の私ではあるが、駆け出しの新人のボクにとっては何よりの支えとなった。以来、事あるごとにコーヒーを飲んだりグラスを重ねながら語りあう仲となった。



 筆者・矢口高雄さん
  本名 高橋高雄

 漫画家 奥沢在住

  

 昭和14年、秋田県平鹿郡増田町に生まれる。秋田県立増田高校を経て羽後銀行に入行。昭和45年漫画家を志し銀行を退職。『鮎』(少年サンデー)でデビュー。昭和49年『釣りキチ三平』『幻の怪蛇・バチヘビ』 で講談社出版文化賞、昭和51年日本漫画家大賞を受賞する。
 他の主な作品に「釣りバカたち」・「マタギ」・「マタギ列伝」・「おらが村」などがある。

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