編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.760 2015.11.17 掲載 
戦争
東西 比較文化論
第2回
  サントリー宣伝部
 
            文:今井茂雄(サントリー音楽財団・理事・元住吉在住)  

                  ★昭和61年2月20日発行『とうよこ沿線』第32号から転載

 大阪の毎日新聞社を前年の暮れに退職し、昭和36年正月、私は寿屋(現サントリー)に入社.
 4月から東京支社の宣伝部に勤務するため、川崎・元住居の社宅に引越してきた。

 


 ∇新進気鋭のアーチストたち▼

 その頃、サントリーの宣伝部は戦後の黄金時代を迎えていて、名コピーライター・編集者の開高 健・山口 瞳、切り絵とペンでユニークなキャラクターを創りだすイラストレーター柳原良平(当時雪谷、現横浜山手町在住)、多芸多才のアートディレタタ一坂根 進、CMづくりの奇才酒井睦雄、カメラマン杉本直也といった気鋭の才人たちが連日広告の制作に情熱を燃やしていた。そこは、会社の一部門というよりは、創造的雰囲気の濃密な一種のサロンのようでもあった。

 これらの若いアーチストたちは、特別声の大きい座談の名人・開高さんを中心にデスクを囲んで集まり、世界の酒について、文芸美術について、人生について談論に花を咲かせ、そこから<トリスを飲んで/人間らしく


のち、作家になった開高健

やりたいナ/人間なんだからナ>(開高) (トリスを飲んでハワイへ行こう〉(山口)のようなヒットコピーや、“アンクルトリス”と愛称されたおじさんがブラウン管の中でドラマを演じる一連のアニメーションCM(柳原・酒井ほか)、当時としては抜群に洒落たヌード写真(杉本)とソフィスティケーテッドな編集企画でPR誌のはしりとなった『洋酒天国』などが次々と生まれていった。そして、巷に灯がともりはじめると彼らは夜の取材のためにサントリーバーに出かけていった。



船と海でお馴染み、柳原良平の作品

私は紺屋の白袴のうえ、孤独癖が重なって彼らの方から匙を投げられていたフシもあるが、それでもときたまは学習のため山口さんや同じ社宅の住人たちのお伴をして銀座や新橋のバーに出かけて行った。帰りはきまって1台のタクシーを拾い、雑談の続きを楽しみながら元住吉のそれぞれの社宅に辿りつくのだが、当時の私たちにはそれがちょっとしたぜいたくで、幸せな時間であった。

 いま思えば、みんなの暮らしはまだまだ貧しく苦しかった。しかし創造する喜びで、若い私たちはたいそう幸せであった。それはまた、いよいよ高度成長へとテイクオフしてゆく戦後日本の青春期でもあつた。


∇山口瞳と『江分利満氏』▼

 こうした日常の生活や世相をテーマに、山口さんは『婦人画報』の当時の編集長・矢口純さんの奨めで、『江分利満氏の優雅な生活』を同誌に連載しはじめ、昭和38年この作品で山口さんは直木賞を受賞した。




元住吉が舞台の直木賞作品
 サントリーは大阪に本社のある関西系の会社で、宣伝部もその少し前に大阪から東京支社に移ってきたばかりだったから、宣伝部員も殆どみんな関西出身。従ってそこでは大阪弁がいわば公用語のようなものであった。そこに生粋の東京人山口さんが加わっていたことが、このサロンをいっそう生き生きとさせていたのかもしれない。

 

 山口さんも「江分利満氏」の中で、この会社に入社の当初、自分が(異邦人の如き感があった)と述懐しているが、そこで初めて関西人とその文化のアクの強い異質さをじかに体験することになった一種のカルチャーショックが、山口さんに『江分利満氏』の筆をとらせた一つの契機であったと思う。ちなみに江分利氏の勤め先は“東西電気”という名の会社であった。

 新幹線で僅か3時間の距離を隔てて東と西にかなり異質の文化が併存して相互交流が行なわれていることは貴重なことだという趣旨の桐島洋子さんのエッセイをどこかで読んだことがあるが、僅か3時間の隔たりにもかかわらず、異質の文化や人間同士の相互理解ということになると、じつはそんなに容易なことではない。

 作曲家三善 晃さんはそのフランス留学の体験から、根源的なところでの東西の理解などまず望めないと悲観的だし、俳人安住 敦さん(都立大在住)は久保田万太郎について(東京人にしか分らないものを持っていた人)と評している。

 山口さんは私にとってそういう東京人らしい東京人であって、短い交友の間、私が山口さんに敬服したことは決して少なくない。

 山口さんはつねに自分にもひとにも一生懸命な、折目正しい人で、どんなことであれすぐにその


国立市の自宅で作家・山口瞳

撮影:岩田忠利

本質が見えてしまうし、何よりまずこの国の言葉の美しさを一人になっても守りぬくぞという侍のような文人である。山口さんはまたこよなくウイスキーを愛したが、そばで眺めながら私はよく思った。古風に言えばこの人は“酒道”の宗匠ではないかと。

 20年の歳月が過ぎ、『江分利満氏』の舞台となった川崎・木月大町の界隈もかなりの変貌をとげた。
 町のたたずまいは相変らず雑然としたままだが、雨が降ると長靴を穿かなければ歩けなかった泥んこ道、トラックが拳大の砂利石をはねて社宅の窓ガラスを割った道路もいまはすっかり舗装されて、つい先ごろ下水管が埋め込まれたし、6月がくるとカエルの声が夜空をつんざくばかりであった田圃も大方は家が建った。
  山口さんがさまざまな思いをこめて住んだテラスハウスの社宅も、老朽化と手狭のためか、昨年溝酒なマンション風に建てかえられてしまった。

 久しぶりに『江分利満氏の優雅な生活』を読みなおし、人生とは、かくも短きものかと愕然とするこの頃である。 (完)








筆者・今井茂雄さん(64歳)

サントリー音楽財団
理事

 大正9年大阪生まれ。昭和22年毎日新聞社(大阪)に入社後、昭和36年サントリー入社。宣伝部の制作室長、宣伝部長を経て、昭和55年定年退職。現サントリー音楽財団理事。
 川崎市中原区伊勢町在住。

 
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