編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.759 2015.11.17 掲載 
戦争
東西 比較文化論
第1回
  すばらしき才人たち
 
            文:今井茂雄(サントリー音楽財団・理事・元住吉在住)  

                  ★昭和60年12月10日発行『とうよこ沿線』第31号から転載

 半生をふりかえってみると、私は随分たくさんのすばらしい才能との出会いに恵まれてきた。
 岩田編集長から貴重な誌面を頂戴したので、その人々の思い出を記させていただく。


 ∇学生時代▼

 まず中学のときに、のちの芥川賞作家・庄野潤三君と1年間同じクラスで机を並べ、一緒に国語を教わったのがいまは亡き詩人・伊東静雄先生であった。
 伊東先生は、長く大阪の町中の狭い路地裏の陋屋(ろうおく)に住み、「わがひとに与うる哀歌」「夏花」など近代文学史に一頁を画した美しい詩を書きつづけ、48年の短い生涯を一高校教師のまま終えられた。
 先生の寓居の前の路地は、御影石の敷石がいつも打ち水で綺麗に洗われていて、2階の軒下には絶唱「水中花」に唱われた釣りしのぶが懸っていたように思う。
 堺の耳原御陵のそばに引っ越されてから時々伺うと、新しくできた作品をいくつか、ご自分で独特のフシをつけて朗読して聞かせてくださった。

 いま川崎の生田に住んでいる庄野君には、戦後の混乱期、就職のことでお世話になったが、父上のお家にごあいさつに伺った折、出された座布団が紺緋の薄いセンベイ布団であったのにひどく感動したのを覚えている。



晩年の作家・庄野潤三

庄野君の父上は帝塚山学院を創設されたすぐれた教育者であったが、その布団がこの偉大な教師の志をみごとに具現していて、若い私はハッと胸打たれた。庄野文学のあの誠実で優しく暖かい情愛の世界は、この父上と伊東先生の薫陶が大きく影響したにちがいないと思う。

 大学では、国際法と法哲学の故恒藤恭(つねとうやすし)先生のゼミナールで卒論を書いたが、先生は芥川龍之介の親友で、いま私がその令息の作曲家・芥川也寸志さんに日頃数々のご指導をいただいているのも何かの因縁だが、数年前、芥川さんから自分の名前は恒藤さんの“恭”から貰ったんですよと伺って、いっそう先生が懐かしまれた。

 恒藤先生からは論理的思考や言葉の概念規定の厳しさなどを教わった。大方は忘れてしまったが、私がゼミでグラウゼヴィッツの戦争論を発表したとき、性格と性質という言葉を無造作に混用したので、その二つはそれぞれ別の意味概念の言葉だよと、さとされたことだけをなぜか今でもよく思い出す。ちなみに、旧制一高の卒業成績は恒藤先生が1番、龍之介が2番であったという。

 大学を繰り上げ卒業してすぐ入隊した海軍予備学生の旅順の学校では、伊東先生から紹介の手紙をいただいて、庄野君の九大の学友であった日本文学大賞作家・島尾敏雄さんと知りあった。

 庄野君とは近くに住みながら毎年の年賀状だけで失礼しているが、島尾さんとは思いがけなく3年前、私たちが聴いた作曲家・柴田南雄さん(大岡山在任)の音楽賞記念コンサートで、ミホ夫人に奄美の民話を朗読して頂いたとき、会場で久しぶりに会うことができた。17年の歳月をかけて書かれた名作『死の棘』に描かれたミホ夫人に初めて会って、その純粋無垢の美しさに心打たれた。

島尾さんは最近『魚雷艇学生』という旅順時代の訓練の日常を綴った本を出版したが、そこには公式論的な戦争の否定や肯定など、一行も書かれてはいない。




 ∇毎日新聞社時代▼

 戦争から復員して2年目に入社した毎日新聞社では、当時学芸部の副部長であった井上 靖さん、婦人記者の山崎豊子さん、外信部の若い記者であった大森 実さん(アメリカに移住の前、日吉に在住)などと知りあった。しばらくして、フルブライト留学から帰国した竹村健一さんが英字新聞の記者として入社してきた。痩せて精悍な行動する青年記者であった。

いつだったか、そのころ同じ学芸部の音楽担当記者だった渡辺 佐さん(現評論家)の家で、井上さん、山崎さんたちと一晩語りあかして雑魚寝(ざこね)をした懐かしい想い出がある。

 40代のはじめだった井上さんはまだ文壇に出る前で、たいそう礼儀正しい端正な紳士の文芸担当記者で、伊東先生がジャーナリズム嫌いでなかなか新聞に詩を寄せてくれないんだよ、と嘆かれていたりした。

ある日、小説ができたから読んでみてくれないかと、原稿を渡された。それは、のちに佐藤春夫が激賞し、井上さんが文壇にデビューするキッカケともなった記念碑的作品『猟銃』であった。
 都会人の心理をみごとな構成で描いた実に洗練された作品であったが、私はそのとき若気の至りで「たいへんブルジョア的ですね」と批評したのをいまでも冷汗がでる思いで思い出す。
 それから間もなく、井上さんは『闘牛』で芥川賞を、山崎さんは『暖簾』で直木賞をそれぞれうけ、やがて退社していった。



作家・井上 靖


作家・山崎豊子

 ▽サントリー時代▼

 さて、昭和35年の年末で、私も新聞社を退職し、洋酒メーカーのサントリー宣伝部に入社した。3カ月ほど大阪の本社で見習いをしたあと、東京支社に移り、そこで開高 健、山口 瞳、柳原良平という才人たちと出会うことになった。

 私は生まれてはじめて関西を離れ、川崎の元住吉に移り住むことになった。そして直木賞作品『江分利満氏の優雅な生活』の舞台となった山口さんの社宅は、私の社宅かち歩いて5分ばかりの隣町にあった。
 柳原さんもその頃はたしか池上線の雪谷のあたりに住んでいた。
 こうして私の新しい生活がはじまった。

筆者・今井茂雄さん(64歳)

サントリー音楽財団
理事

 大正9年大阪生まれ。昭和22年毎日新聞社(大阪)に入社後、昭和36年サントリー入社。宣伝部の制作室長、同部長を経て、昭和55年定年退職。現サントリー音楽財団理事。
 川崎市中原区伊勢町在住。

 
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