編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.733  2015.11.05 掲載
 

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紀行
横浜事始め-1  総集編
  

 横浜の歴史は、幕末の開港に始まると言っても過言ではないでしよう。開港以来、横浜はわが国の表玄関として外国から多くの人、物、そして文化を受け入れました。

こうした外国からの文化は、横浜で花開き、日本各地へと広がっていきました。

今回の「みなと横浜」特集では、横浜をわが国発祥の地とするさまざまなものにスポットを当て.「よこはま事始め・総集編」としてご紹介します。

            桑原芳哉(本誌編集委員)  イラストマップ:石野英夫(同編集委員)  カット:高田信治(同編集委員)    
                                 昭和60年12月1日発行『とうよこ沿線』31号から転載

  今や生活必需品――鉄道、水道、ガス、新聞、電信
  

鉄道、水道、ガス、新聞、電信と言えば、今や日常生活にはなくてはならないもの。これらはみな、横浜がわが国発祥の地。まずはこういった生活のにおい≠感じるものから、事始めめぐりを始めよう。その始発駅は、東横線の終着駅・桜木町駅だ。

鉄道発祥の地――桜木町駅

 東横線の終着駅、桜木町駅が、日本の鉄道発祥の地であることはご存じのとおりである。

明治5年(1872年)9月12日(新暦1014日)、新橋(現・汐留)〜横浜(現・桜木町)間の鉄道開業が、日本の鉄道の始まりとされている。しかし、実際の営業は57日(新暦612日)より、品川〜横浜間で始められていた。ともあれ、桜木町駅が日本の鉄道発祥の地であることは間違いない。

現在、桜木町駅前に立つ「鉄道発祥記念碑」は、台座にSLの動輪を型どり、側面の柱は開業当時のレール、頂点にはSLの汽笛と鉄道ゆかりのもので作られている。また、コンコースには鉄道建設に貢献したイギリス人牧師、エドモンド・モレルのレリーフもある。ともすれば見過ごしてしまうようなものだけに、気をつけて見てほしい。



明治5年鉄道が開通して間もない頃、「横はステンショ」と呼ばれていた初代横浜駅(現桜木町駅)

 瀟洒な駅舎がひときわ目立ち、弁天橋を渡ると正面は交番。その右手に線路があり、機関車の方向を変える回転台が見える


水道、瓦斯発祥之地――野毛山、本町小学校

 この二つが止まれば、もう生活できない水道とガス――-これもわが国では横浜から広まっていった。   まず水道、と言っても近代的水道だが、これは明治20年(1887年)に相模川の支流、道志川から野毛山配水池まで引かれたものが、わが国における始まりである。
 横浜は海や沼を埋め立てて造られた地が多く、水質が悪かった。そこで多摩川から水を引くことが試みられたが、失敗に終わっていた。その後、神奈川県がイギリス人中佐パーマーを雇い、水道を建設、明治20年完成し、1017日から市街への給水が始められた。
 百年近く前に完成したこの水道は、現在でも使用されている。パーマーらの技術の高さの証しと言えよう。

次にガス。今は主に熱源として利用されているが、当時は照明、つまりガス灯という形で利用された。
 明治5年(1872年) 91日 (新暦103日)、現在の本町小学校の敷地(中区花咲町)にわが国初のガス会社が生まれ、929日(新暦1031日)に大江橋から馬車道、本町通にかけてガス灯がともされた。現在、本町小には一本のガス灯と「日本最初のガス会社跡」の記念碑がある。

初点灯から113年後の今年1031日、今度は山下公園前にガス灯がともされた。百年前の明かりは、また横浜の新しい名物になることだろう。


   新聞、電信発祥之地――北仲通、日本大通

 ニューメディア≠ニいう言葉が使われる今日だが、今なお情報源として欠くことのできない新聞と電信、この二つも横浜がわが国発祥の地である。

 わが国初の日刊新聞は、明治3年128日(新暦1871128日)創刊された『横浜毎日新聞』であった。それまでも、横浜では外国人らによってさまざまな新聞が発行されていたが、日刊新聞という形をとったのは『横浜毎日新聞』が最初であった。
 この新聞、創刊時から月間、さらには年間の購読料まで決められていたようで、1日なら1匁が、1月24匁、1年では240匁となっていた。このあたり、日刊で発行する自信が満ちあふれていたと感じる。
 現在、中区北仲通の生糸検査所内に、「日刊新聞発祥の地」の碑がある。

 わが国における電信の始まりは、安政元年(1854年)226日(新暦324日)に、今の日本大通付近で行われた通信試験であった。その後も試験が重ねられ、実用化されたのは明治2年1225日(新暦1870126日)のことであった。
 その21年後、明治231216日には、横浜電話交換局で電話交換も開始されている。現在、「電信創業の地」の碑が中区日本大通の横浜地方検察庁前に、また「電話交換創設の地」のプレートが同じく日本大通のNTT横浜電話局外壁にある。
 瓦版や飛脚しか知らなかった当時の人々にとって、新聞や電信の出現は大きな驚きであっただろう。電信はキリシタン・バテレンの魔法≠ニ信じられ、手紙が電線を通るというので弁当を持って一日中電線の前に立ったり、電柱に耳をつけて話を聞こうとした人もいたという。当時の人々にとってはまさしくニューメディア≠セったのである。


 
 西洋建築技術の粋――キリスト教会、洋風劇場、西洋瓦、鉄橋

  

 開港後の横浜には外国人居留民も急増し、洋風の住居などもふえた。それまで木と紙でできた%本建築しか知らない日本人にとって、石で築く″洋風建築は全く新しいものであっただろう。
  さまざまな洋風の建物が建てられ、さらには西洋の技術による橋も架けられた。まさしく横浜は、「西洋建築発祥の地」である。


   基督教会発祥之地――山下町、日本大通

洋風の建物として、幕末からすでに建てられていたものにキリスト教会がある。
  近代日本最初のキリスト教会は、文久元年(1861年)、現在の山下町の地に完成した聖心教会堂であった。日本人も「耶蘇(やそ)寺」と呼んで見学に来る者も多く、キリシタシ禁制下で信者になったため、戸部の牢に捕らわれる者まで出たという。
 この教会はのちに山手に移り、現在も山手カトリック教会として続いている。中庭にあるマリア像は聖心教会堂時代からのものという。また、中区山下町81番地には「横浜天主堂跡」の碑がたてられている。

 プロテスタント教会の発祥は、明治5年(1872年)設立された日本基督教会。現在は横浜海岸教会となり、「日本基督教会発祥地の碑」とともに日本大通8番地に建っている


洋風劇場、西洋瓦発祥之地
        ――港の見える丘、元町


日本における洋風劇場の始まりが、明治3年(1870年)に建てられた「ゲーテー座」であった。この当時は、現在の山下町68番地にあったが、その後山手の丘の上、今の港の見える丘公園の入り口に移った。このゲーテー座は関東大震災で焼失したが、昭和55年、この跡地にゲーテー座を模して「岩崎博物館」が完成し、昔をしのばせている。

この博物館建設中、ゲーテー座跡地から屋根に使われていた西洋瓦の破片が多く出てきたという。この西洋瓦は、フランス人アルフレッド・ジュラールによって建てられた日本最初の西洋瓦工場でつくられたものである。この工場は、現在の元町プールの地にあったもので、ここでも当時つくられた西洋瓦の破片が出土するという。


鉄橋発祥之地――吉田橋

 日本初の鉄橋は、明治7年(1869年)11月に完成した吉田橋であった。この吉田橋には、海岸側の外国人居留地に入るための関門が設けられていた。 現在「関内」という地名が用いられるのも、本来はこの門の内側という意味であった。
 このような関門のある橋ということもあり、吉田橋は人馬の通行が多く、長年使用できる鉄橋に架け替えられた。 そして、この鉄橋は「かねのはし」として市民に親しまれたという。
 その後、明治44年(1911年)にはこれもわが国初の鉄筋コンクリート橋になり、昭和33年改築された後、昭和48年、大岡川の埋め立てに伴い姿を消した。
 しかし昭和53年、「かねのはし」時代の欄干を復元し、川のない橋″でありながら明治の昔をしのばせている。


        昭和4年、吉田橋から関内を望む

 このコンクリートの橋も日本初だそうです。右手奥に横浜市庁舎と県庁が見える


  食べる、飲むにも西洋の波――アイスクリーム、ビール

建物や橋の話では味気ないので、今度は味な話。食べ物、飲み物も西洋渡来のものがいろいろある。その多くが横浜で育ち、全国へと広がっていったのである。

氷水発祥之地――馬車道

 アイスクリームを日本で初めて売り出したのは馬車道の町田房造という人で、明治2年(1869年)のこと。この時は失敗し、大損をしたが、翌明治3年、伊勢山皇大神宮の大祭の時に再びアイスクリームを売り出したところ、飛ぶように売れたという。その後、横浜の市街地には「氷水屋」の看板がふえたとも言われる。

 その元になる氷であるが、わが国で初めて機械製氷が行われたのも横浜。明治12年(1879年)、山手の「横浜氷製造所」でつくられた。
 現在、アイスクリーム発祥の地、馬車道にはこれを記念して「太陽の母子像」がたてられている。

発祥之地――千代崎町、諏訪町

 ビールが日本で初めて醸造されたのも横浜の地。当時の天沼、今の中区千代崎町・諏訪町の地であった。この地にビール工場ができたのは、アメリカ人醸造技師コープランドが、散歩中に偶然天沼の清水を見つけたためであるという。そして明治3年(1870年)ごろ、この地でビールの醸造が始められたのである。このコープランドの工場が、現在のキリンビールにまで引き継がれている。
  現在、コープランドのビール工場の跡地には「キリン園」が開かれ、「麒麟麦酒開源記念碑」もたてられている。また、隣りの北方小学校内には、ビール井戸も残されている。

すっかり大衆化したスポーツ
            ――
近代競馬、国際親善野球

 飲んで食べたら、休も動かさないと――というわけで今度はスポーツ。横浜から広まったスポーツも、今やすっかり大衆化している。中には、大衆化しすぎたきらいのあるものもありそうだ。

    近代競馬発祥之地――根岸

 わが国の近代競馬発祥の地は横浜の根岸である。慶応3年(1867年)、初の近代競馬場「根岸競馬場」が完成し、以来昭和18年までレースが続けられた。

 明治初期、開設直後の競馬に出走した馬はほとんど日本産か中国産で、サラブレッドは一頭もいなかった。レースも宮内省杯、県庁杯からフジヤマ杯、「婦人たちのへソクリ賞」なんてものまであったという。
  戦後しばらくは米軍に接収されていた根岸競馬場、返還後は根岸森林公園、根岸競馬記念公苑となり、「馬の博物館」では根岸競馬場の昔を振り返ることもできる。

  国際親善野球発祥之地――横浜公園

 現在、横浜大洋ホエールズのホームグラウンドとなっている横浜スタジアム。この地は、日本における国際親善野球発祥の地であり、また日本で初めてナイターの行われた地でもある。

 国際親善野球は、明治29年(1896年)、当時クリケット場だった横浜公園内で、一高対居留民チーム「横浜倶楽部」との間で行われた。一高側はユニホームもなく、キャッチャー以外はグローブもなかったが、294で勝ったと言う。
 初ナイターは戦後の米軍接収時代。当時、球場の名は「ゲーリックスタジアム」と言った。昭和23817日、この米軍専用球場をプロ野球が借り、巨人−中日戦が初めてナイターで行われたという。
 米軍から返還後は「平和球場」と名を変え、昭和53年装いも新たに「横浜スタジアム」として生まれ変わった。
 現在この地にフランチャイズを置く大洋も、25年間優勝から遠ざかっている。阪神タイガースも21年ぶりに優勝したことだし、大洋も明治29年の一高パワーを見習って、がんばってほしいものである。

                    ★☆★

 このほかにも、ここに紹介できなかったものが数多くあります。日常生活には欠かせないものに西洋野菜、パン屋、レストラン、クリーニング、写真、マッチ、石鹸、病院、ゴム印、公園、近代式道路、外国郵便、クリスマス、パトロール、洋楽器、貸自転車などがあり、スポーツでもボートレース、射撃場などがある。

                 
               記念碑ウオッチング ガイドマップ


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