編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.732  2015.11.04 掲載
 

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紀行
横浜事始め-1  ガス灯/公衆便所/床や/電信
  
                 杉村みゆき(本誌編集委員)  生方由美子(本誌編集委員) イラスト:石野英夫(本誌編集委員)   
                                      昭和60年6月1日発行『とうよこ沿線』28号から転載

  ガス灯
  

我国最初のガス灯が大江橋から馬車道、本町通にかけての通りに点灯されたのは、明治5年(1872年)9月29日のことでした。その頃13歳だった岩科清五郎氏は、後にこう語っている。
 「――そこへ今度はガス灯ができた。それが石炭をいぶした息だというのだからまったく驚いたものだよ。青白い火はシュウシュウ音がしてきれいに灯っている。風が強く吹くと消えたようになり、風が静かになるとまた大きく灯る不思議なものと思うほかはなかった」。
 
ガス灯の光は人々を大変驚かせ、キリシタンの魔法″だといってこわがる人もいた。「異人と結託して市中に火の元の管″を敷き、戦争が始まったら火をつけて横浜を爆発させようとしているのだ」とこの偉大な事業を成し遂げた高島嘉右衛門に夜襲をかけるという騒ぎまで起こった。



日本最初のガス灯が右手の桜の木に沿って立つ

明治10年頃の西区の伊勢山皇大神宮、桜並木


野毛に完成したガス工場

はじめは彼を含む9名で設立されたガス灯建設のための会社「日本人社中」も、あいついでメンバーが脱落していき、とうとう嘉右衛門ひとりになってしまった。上海のガス灯建設を手がけたフランス人技師アンリ・ベルグランの力を借りてガス工場の建設を始めたものの、肝心の資金調達のメドが立たず、窮した彼はガス工場の敷地や建物、イギリスから輸入していた機械類の一切を抵当に置いて政府から金を借り入れ、何とか、着工1年半後に野毛の工場にガス発生炉とタンクを完成させることができた。

 本町小学校敷地内のガス工場跡には、当時をしのばせる一本のガス灯が建てられ、そばには我国最初のガス灯点火を記念する碑も設けられている。
  公衆便所

外国で嫌われる日本人のマナー、色々ありますけれど、ところ構わずしでかす、立ち小便は、そのトップに挙がるでしょう。開港後、横浜にきた外国人も嫌いましたそうでした。

外国人の強い要求のため、幕府は禁止令を出しました。しかし、悪習はそう簡単にやめられるものではありません。刀を腰にさしたサムライまでが禁止令を破る始末。

困り果てた政府が、1871年(明治4年)の11月、横浜の町角83カ所に便所を新設しました。各町内の分布は以下のとおりです。

 

堺町(1カ所)、弁天通(4カ所)、南仲通(8カ所)、北仲通(4カ所)、太田町(5カ所)、高砂町(4カ所)、常盤町(5カ所)、元浜町(4カ所)、小宝町(1カ所)、相生町(3カ所)、入舟町(1カ所)、駒形町(1カ所)、住吉町(7カ所)、尾上町(5カ所)、真砂町(3カ所)、港町(1カ所)、鉄橋際(1カ所)、羽衣町(2カ所)、弁天杜(4カ所)、衣紋坂(1カ所)、姿見町(7カ所)、吉原町(12カ所)。

また、「立ち小便をした者には銭100文の罰金刑!!」と布告。政府の苦心の策がうかがえます。

この便所は、四斗樽を地面に埋め、横囲いをしただけの簡単なものでした。その後、人口が増え、市街地も拡張されてくると、今までのような辻便所式のものでは体裁が悪く、道にあふれ出るため、住吉町で薪炭商をしていた浅野総一郎が神奈川県令の許可をもらい、2千円の補助金で改善を進め、1879年(明治12年)年に63か所を完成させました。
 このころから、共同便所と言われるようになったそうです。今はトイレもファッショナブル。



  床や

今、チョンマゲで元町あたりを歩けと言われたらどうしますか? その勇気を思うと、当時いち早くザンギリにした人たちに思わず脱帽!

日本人で初めてザンギリ頭になったのは、1866年(慶応2年)頃、横浜の太田陣屋(現・中区日之出町付近)でフランス式の軍事訓練を受けていた越前福井藩士たちで、帽子をかぶるのにチョンマゲでは邪魔になるということから流行し、一般に伝わっていきました。

 その頃、横浜で髪結床を開いていた小倉虎吉は仲間と共に外国船に乗り込み、船内の外国人理容師の技術を覚え、1869年(明治2年)に横浜居留地148(現・中区山下町148)に我国初の理容店を開きました。

当時は断髪するのは首を切られもよりつらいという保守派が多く、初めは役人や洋学者などわずかな人に限られていましたが、そのうちザンギリは文明開化の象徴とまでいわれるようになり、1871年(明治4年)には断髪令まで出されるようになりました。

 切り取られた自分のマゲを、弁天様へ奉納したり、武士の最後とばかりに綺麗に結い直してから切り落として、後日の記念に大切にしまっておく人もいたということです。


    電信

 

私ごとですが、未だにテレビがなぜ人や風景を映し出すのかよく解らない科学オンチなもので、つい最近まで飛脚が手紙を運んでいたという時代に、遠くの人とその場で言葉のやりとりができるという電信の発明が、どんなに驚異的であったか想像に難くありません。
  
  我国の電信機は、蒸気機関車の模型と一緒にペリー提督が将軍へのお土産に持ち込んだのがはじまりで、1854年(安政元年)3月には横浜で我国最初の通信テストが行われました。
 
1869年(明治2年)、灯明台役所から本町通りの神奈川裁判所(現横浜地方検察庁付近)までの間に、約7丁(約800b)に電信線を架設し、プリゲ式指字電信機を備えて実地に試験。その結果が良かったので、同年9月に神奈川裁判所から東京築地明石町の運上所までの間に電信線を架設し、1225日から通信を始めたのです。



電信が始まった当時の電信機

  
      
こんな物好きな人も……

 

横浜・弁天杜のそばに中山吉右衛門という人がおりまして、その奥座敷を役人が借りておりました。また駒形の田辺喜平次の奥座敷にも役人がおりましたが、この喜平次の奥座敷から、吉右衛門の座敷へ針金を引っ張って、ここから向うへ何か一言いってやる。向うからその返事をよこす。これがテレガラフという物だということを聞いて、それでは手紙がこの針金を伝わって向こうへ行くのだろう……。道理で、みんなが「ハリガネ便り」と呼ぶワケだ、と。
 この模様を見てみたいと、多くの人々が見に行きました。なかには物好きな人は、きのう一日中、見ていたが、見られなかったという。それは「ワシがきっと昼飯に家へ帰った留守にハリガネ便りが通ったにちがいない」。きょうこそは、と昼飯の弁当をもって来たという人がおりました。

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