編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.730  2015.11.03 掲載
 

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紀行
横浜事始め-1   ホテル / 洋風建築
  
                                込宮紀子(「とうよこ沿線」編集委員 神奈川区六角橋)      
                                      昭和60年2月1日発行『とうよこ沿線』26号から転載

  ホテル
 

開港と同時に、たくさんの外国人たちがやってきた横浜。当然、宿泊施設も必要になってくる。というわけで、ホテル第1号も、この横浜にできた。

  ホテル第1号の謎

 
場所は海岸通5番(今の県民ホールのあたり。当時山下公園の前の通りを海岸通りと呼んでいた)。文久3年(1863年)イギリス人WH・スミスが作った「横浜ユナイテッドクラブ」がそれ。

イギリス人のみの会員制クラブだったが、明治2年には会員以外の人も泊まれる一般ホテル部門―-「クラブホテル」ができた。居留地の大部分が被災した慶応2年(1866年)の“豚屋火事”では類焼を免れたので、多くの外国人たちに利用されたという。料金は一日3ドル(3食つき)。各国の新聞をおいた読書室もあった。

また、安政6年(1859年)に運上所近くの居留地にできた「横浜クラブ」が第1号だという説もある。広間が2つ、小部屋が8つ、窓もストーブもない日本家屋だったという。バーやビリヤードがあり、ロシアの無政府主義者バクーニンやシーボルト事件のシーボルトが泊まったとされているが、確かな記録はない。



後方中央が明治10年代のグランドホテル

写真は日下部金兵衛が白黒写真に色づけした、いわゆる“横浜写真”

同じように、慶応3年(1867年)に創刊された英字一『ジャパン・ガゼット』が開港50年を記念して発刊した『ジャパン・ガゼット横浜五十年史』にも第1号らしきホテルが紹介されている。アーサー・ブレンドという居留民が1860年代の横浜を回想している中に、本町通り85番辺りにある「コマーシャルホテル」という3流ホテル以外にホテルはなかった、というくだりがあるのだ。

どちらにしても、初期のホテルはかなりお粗末だったようである。先ほどのアーサー・ブレンドは、「三流ホテルしかないので、横浜を訪れた人を居留民が自分の家でもてなした」といっている。「田舎に泊りがけで出かける時には、陶器類、炊事道具にコックまで連れて行った」とも。

また「横浜ユナイテッドクラブ」には毎晩、雑談と一杯のシェリー酒やビターズ(苦味酒)を楽しむため、朗らかな居留民たちが集まってきて、夕食前のひとときを過ごしたという。
  

華麗なグランドホテル(写真右上)

 明治6年には、ホテル・ニューグランドの前身、グランドホテルが海岸通
20番にできた。今のちょうどマリンタワーの隣あたりである。1階に食堂、料理室、読書室があり、2階には室がおよそ30つくられた。
 当時としては、かなりモダンなホテルで明治初年に発刊された写真入り英字新聞『ザ・ファー・イースト』にも「居留地内ではもっとも美しい建物のひとつ。毎夜、楽隊が楽しい音楽を奏でた」と紹介されている。
 明治22年に経営者が変わると、新館が増築され、自家発電の設備まで整った。
 他にも、「オリエンタルパレスホテル」「ホテル・フェニックス」など、この時代になると、今の山下町と同じように、ホテルが建ち並んでいたようである。




関東大震災で崩壊した旧居留地の山下町。後方がグランドホテルの外壁
   新しいグランドホテル

大正12年の関東大震災は、この地区にも決定的なダメージを与えた。「グランドホテル」も「クラブホテル」も崩れ去り、どこもかしこもガレキの山と化した。ちなみに山下公園は、このガレキで作った公園である。
 震災後、被災した多くの外国人を救済するため、また衰退しだした横浜貿易に歯止めをかけるために、横浜市は復興計画の中に外人ホテル建設を盛りこんだ。こうして作られた新しいホテルが「ホテルニューグランド」である。
  大正1512月1日、山下町10番に開業。だから、グランドホテルとは、直接関係があるわけではない。喜劇王チャップリン、野球のベーブルース、そして連合軍司令官マッカーサーと数多くの有名人が泊ったこのホテルも、今や老舗中の老舗となった。


    洋風建築

洋風建築の最初は、横浜の運上所といわれている。運上所とは、開港と同時に設けられた幕府の役所で、外交行政と関税事務を扱った。場所は中区日本大通、神奈川県庁の構内。現在は、運上所跡の碑が建っている。ここから東側が居留地、西側が日本人町であった。
  安政6年(1859年)の開所時、ここは畳の入った日本家屋だったが、慶応2年(1866年)の豚屋火事で類焼した後、翌年、河井松右衛門という日本人が請負い、外壁石貼り木造2階建てで作られた。同時に波止場に建てられた運上所上屋(倉庫のようなもの)も外壁右横の木造平屋であったが、どちらも今は姿を見ることができない。



日本で最初の純洋風建築といわれる横浜の運上所


今なお明治の風格を感じさせる県立博物館

現存する横浜の洋風ビルで最も古いのは県立博物館(中区南仲通)。明治37年建築のドイツルネッサンス風。元々は横浜正金銀行であった。銀行時代は、2階・3階がない天井の高い吹きぬけだったとか。今では考えられないゼイタタな造りである。約6千点の浮世絵と約9千点のカニの標本が見もの。特別展、講座も開かれる。

道一本はさんだ反対側には、負けずおとらずノスタルジーをかきたててくれる日本火災横浜ビルが……。こちらは大正7年(1918年)の造り。旧川崎銀行。3階の窓の上の三角破風が珍しい。大桟橋通のマースクビルは旧露清・独亜銀行。
  関東大震災の前までは県立博物館のような丸ドームがあった。そう言われてみると、なるほどという感じである。

日本大通の三井物産横浜ビル。日本一古い現役コンクリートオフィスビルである。明治44年(1911年)に作られたとは、とても思えない。この界隈には、まだまだアンティックな建物が点在している。



日本一古いコンクリートビル、三井物産横浜ビル。これが明治時代に造られたとは?!
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