編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.729  2015.11.03 掲載
 

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紀行
横浜事始め-1 牛乳 / 牛鍋(スキ焼き)
  
                                込宮紀子(「とうよこ沿線」編集委員 神奈川区六角橋)      
                                      昭和59年12月1日発行『とうよこ沿線』25号から転載

  牛乳
 

眠たい朝、コップ一杯の冷たいミルクをグッと飲み干す。心も体も目醒めてくる。こんな牛乳も、開港までは薬として使われるくらい、日本人にはなじみの少ない飲み物だった。
 ところが、横浜の居留民たちにとっては必需品。フランス人の朝食はミルクたっぷりのカフェオレとクロワッサン。イギリス人も3時休みには、パウンドケーキとミルクティを欠かせない。

 

というわけで、スネルというオランダ人が幕末、中村川の前田橋あたりに牛乳搾り場を作り、牛乳を売りだした。

やがて前田留吉という人が雇われるようになり、慶応2年(1866年)には今の加賀町警察署付近に自分の牧場を造り、日本牛6頭を飼い始めた。

 もちろん、日本人にはまだまだ縁のない飲み物であったが、そこは文明開化のご時世のこと。新政府から、東京に牧場を造り、彼は言うなれば牛乳搾りの専門技術者としてスカウトされる。


当時根岸にあった牛乳搾り場

この後、彼は明治天皇の前で牛乳搾りの実演をしたり、今の港区芝あたりに大きな牧場を造ったり、と牛乳搾りのパイオニアとして活躍した。彼には時代を読む目があったようだ。

明治5年(1872年)頃、写真の創始者として有名な下岡蓮杖も東福寺(現西区赤門町)あたりで乳牛1頭を飼い、牛乳を売りだしたようである。外国人が1合6銭で売ったのに対し、蓮杖は4銭にした。安いのだから売れるかと思いきや、水で薄めているという悪評がたってしまったという。牧場を人々に開放し見学させたところ、評判を取りもどし、大儲けしたそうだ。

エネルギーと野望に満ちた新しい街横浜には、売れる≠ニわかった牛乳を扱う人がどんどん増えていく。明治12年(1879年)には県が衛生面での取締りを行わねばならなくなったほど。

いま、中区蓑沢に2軒の牧場がある。創業は明治の終わりだとか。おそらくこの流れで始められたのだろう。

「わたしは3代目。昔は100頭ぐらい牛がいました。え、え、北海道の牧場のようでしたよ。今は家が建てこんできちゃったから、虫がでるとか苦情がいろいろでね。だから20頭ぐらいになってしまいました。もちろん乳牛です」
と第一根本牧場のご主人。
 アメリカ風の景色が続く根岸森林公園の裏手にボツンとあるこの牧場。これも文明開化の遺物なのかもしれない。



根本牧場の根本さん



根本牧場の牛クンたち




    牛鍋(スキ焼き)

中区末広町に「太田なわのれん」という牛鍋屋の老舗がある。このお店、老舗も老舗。なんと、横浜の歴史を綴った『横浜市史稿』の文明開化編に牛鍋屋(シキ焼き屋)の草分けとして紹介されているのだ。
  明治元年の創業時と同じ場所で、今は5代目故高橋富美男さんの妻ハナエさんが店をとりしきっている。まずそのお話を聞こう。

――初代の音吉は石川県の能登から一旗あげようと横浜へやってきて、まず吉田橋(関内駅前)あたりで牛串焼きの屋台を始めました。開港当時ですから「牛肉を食べると四つ足になる」なんて時代です。

  なにしろ昨日までの貧しい漁村横浜は、一夜明けると、野心に燃えた外国人、武士、商人のごった返す街となっていた。だから居留地の入り口にあり、そういう人々を相手にした彼の店も結構、繁盛したようである。

――それでここに店を構えました。今度はふつうの日本人相手だから、最初は売れなかったとか。それでも馬車引きや大工さん、遊郭帰りの人々が食べだしてね。気味が悪いけど試しに一回食べてみようみようなんて。その頃、小港町の方に外人のための、牛馬を殺して皮をはいで肉にする“と殺場”があって、まあ、カス肉を安く仕入れてきたそうです。

こんな時代に牛肉が売れる≠ニ見込んだ音吉氏。先見の明があったようである。

――この初代は大酒飲みで頑固者の変わった人だったとか。客には体にさわるといって3合以上は飲ませないのに、自分は朝からほろ酔い気分で仕事。肉を薄く切るなんて面倒だとブツブツ大切りにして牡丹鍋(猪鍋)のように味噌で煮込んだら、これが評判になったそうです。

 明治17年(1884年)発行の「横濱一等流行店濁案内」という本に早くも名を連ねている。日本人の新し物好きは今も昔も変わらないようだ。

――店の前の道路を昔のことだから馬車が通るわけですよ。ハエもたくさん飛んでくる。それを防ぐために入り口に長い縄でできた“のれん”を垂らしていました。一時、道路の整備のため太田(現西区赤門)に店を移していたこともあって、《太田なわのれん》と呼ばれるようになったと聞いています。
  創業時は牛鍋5銭、お酒2銭5厘、ご飯2銭でした。

今ライスは250円くらい。とするとその2.5倍、つまり625円で牛鍋(スキ焼き)が食べられる計算になる。現代の〇〇屋の牛井並の安さだ。ちなみに今のお品書きでは、牛鍋3千6百円。コースは6千5百円から。といっても、最上のヒレとロースだから当然のお値段。



現在も縄のれんがかかっている「太田なわのれん」


芸術品のような左院帳

――故獅子文六さん、故大宅壮一さん、高木東六さん……今もいろいろな方が見えます。横浜にゆかりのある方が多いかしらねえ。

 ここのサイン帳は「左院帳」という和綴じの帳面である。映画監督の山本嘉次郎、作曲家の古賀政男、評論家・大宅壮一ら著名人の毛筆サインと素晴らしい手描きイラスト入り。なかなかの芸術品である。こんなところにも何となく明治≠感じてしまう。
 さあ、文明開化を舌で感じてみたいあなた、一度「太田なわのれん」へお出かけになってみては?

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