編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.728  2015.11.04 掲載
 

      ★画像の上でクリックし拡大してご覧ください。

紀行
横浜事始め-1 競馬/テニス/野球
  
                               文込宮紀子(本誌編集委員 神奈川区六角橋)      
                                      昭和60年4月1日発行『とうよこ沿線』27号から転載

   競馬
  
 相州弁天(現中区相生町5丁目)付近の馬場で、最初の競馬が催されたのが1961年(文久元年)、やがて1866年(慶応2年)、根岸に近代競馬場ができた。 春と秋には大きなレースが行なわれ、1873年(明治6年)以来、天皇も13回、この競馬場に行幸された。

居留地の外人たちにとって、競馬は映画「マイフェアレディ」に出てくるように、上流階級の社交の場であったのだ。だから、その流れを汲んで、日本人も紋付、袴といった正装でなければ競馬場には入れないし(貸衣装屋が繁盛したなんて話も)、その入場料、馬券も相当高かった。たとえば大正12年頃、新卒初任給30円に対し、入場料が1等席2円、2等席1円、1馬券は1枚20円もしたという。
 馬主も外交官、貴族といった上流階級の人々であり、作家の菊池寛が馬主になろうとしたが許可されなかったというエピソードも。
 競馬が大衆的になり、赤鉛筆と競馬新聞を持った人々が競馬場のまわりに群がるようになったのはずっと後、戦後になってからなのだ。
 裏話その1  1880年(明治13年)春、天皇から銀杯が贈られるレースが行なわれ、やがて「帝皇御賞典競争」と呼ばれるようになった。これが何と、現在の天皇賞の前身なのである。
 裏話その2  まだ居留民だけでレースが行なわれていた頃、日本の武士を騎手として招待した。侍スピリットにあふれていた彼らは、藩を代表してレースに参加するという意識を持っていたので、負けることを非常な恥とした。



当時の競走馬は背が低い日本産か中国産馬



脚が長く背の高い、現代の競走馬
サラブレット



 約28万平方bと広い、1970年(明治3年)の根岸競馬場

 左が2等席、右が1等席であろうか

レジャーとしで競馬を楽しんでいた居留民は非常に驚き、それっきり武士たちを呼ばなくなったとか。

根岸競馬場は1942年(昭和17年)に幕を閉じ、1977年(昭和52年)森林公園として私たちの前にカムバックした。この中には、世界でも珍しい馬の博物館があり、月数回ポニーに子供が無料で乗れる日もある。
 まっ青な空の下、緑まぶしい馬場を懸命に走る馬たちを見る競馬は、もしかしたら、ずっと健康的なスポーツなのかもしれない。


   テニス

緑が茂り、瀟洒な洋館が建ち並ぶ山手の丘。テニスラケットを小脇にかかえた少女の姿が絵になる街である。
 テニスが誕生したのは、もちろん、この山手。フェリス女学院の下方に広がる山手公園からだ。1878年(明治11年)居留地の外人女性たちのために5面のコートが作られた。ウィンブルドンを思い起こさせる緑あざやかなローンコートに、これまた、日本で最初に植えられたというヒマラヤ杉が涼しい木陰をつくる。バラやアジサイも美しい花を咲かせていたという。
 ゲームの後は、木陰で紅茶とビスケットのティータイム。我らが先輩たちはどんな思いで、こののどかな光景を見つめていたのだろうか。
 現在、横浜インターナショナルテニスクラブがその歴史を継いでいるが、横浜市が直接、管理しているコートもある。



       テニスを楽しむ居留民

『ザ・パンチ』から。この雑誌は、日本洋画界の恩師ワーグマンが幕末から明治初期にかけて発行した、日本の風俗を風刺的に描いた月刊誌
(あこがれのローンコートあり)テニス少年少女を自認しているキミ、この由緒あるコートでゲームをしてみては?


     野球  

 

私たちにとって、野球は最もポピュラーなスポーツである。リトルリーグから大人の草野球まで、野球大好き人間は数多い。甲子園の季節ともなれば、母校の活躍ぶりにみんな、一喜一憂させられる。

この野球を日本に伝えたのは、鉄道局の平岡 煕技師。汽車製造法研究のためにアメリカに渡った彼は、1873年(明治6年)、1本のバットと3個の硬球ボールを持って帰国した。同じころ、東京帝国大学の学生も米人教師から野球を教わり、やがて各地に野球熱が広まった。

1896年(明治29年)現横浜公園のクリケット場で、東京第一高等中学(いわゆる一高)の学生ど外人居留民でつくられたアマチュアクラブとの間で試合が行なわれた。

これが日本で初めての国際親善野球である。ユニフォームもバッチリ決まった外人チームに比べ、一高チームは盲縞(めくらじま)の脚絆に素足といういでたち。おまけに、捕手以外は全員素手であった。それでも29対4という大差で一高が圧勝したというから、当時の日本人のド根性には、まったく脱帽!である。大負けした外人チーム、悔しさの余り再試合の挑戦状をたたきつけた。結果は32対9。またもやラグビー並みのスコアで大敗してしまった。



この国際試合に出場した一高ナイン

右下のキャッチャーと思われる人だけがミットを持っている
 
  横浜公園は、日本プロ野球の初ナイタ―が戦後1948年(昭和23年)、巨人対中日戦が行われた所でもある。当時は米軍の専用球場で「ゲーリック球場」と呼び、その後、「平和球場」となり、現在横浜ベイスターズの本拠地、「横浜スタジアム」となっている。

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る