編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                       NO.727  2015.11.02 掲載
 

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紀行
横浜事始め-1 アイスクリーム/ビール
  

 さて、皆さん、お立ち会い! 幕末から明治にかけて、ミナト横浜が日本の玄関となり始めた頃のこと。青い瞳の異人さんたちと共に、数々の珍しい文化が、ここ横浜の波止場から上陸した。牛乳、マッチ、クリーニング……今ではごく、ごく当たり前になっているモノたちが、横浜にオリジンを持っている。

 偉大な好奇心と吸収力で、そんなアレコレをわたしたちに伝えてくれた先輩たち。
 明治の横浜は、今よりずっとハイカラで、フロンティア精神あふれる街だった、なんて思わず感嘆、瞑想してしまう。先輩たちに敬礼!

 それでは、横浜に始まる「文明開化」を探るタイムトリップ、そろそろ出発するとして、第1回は夏にふさわしいモノと、あいなりました。では、ご一緒に!!

                                  込宮紀子(「とうよこ沿線」編集委員 神奈川区六角橋)      
                                      昭和59年7月1日発行『とうよこ沿線』23号から転載

  アイスクリーム

  港風に吹かれながら、アイスクリーム片手に街を歩くなんて、何とも横浜っぽい風景だ。それもそのはず、アイスクリームが初めて売り出されたのはこの横浜。

 明治2年6月のこと。馬車道通五丁目(現在の中区常盤町)で町田房造という人が開いた氷水屋がそれ。”あいすくりん“という名のシャーベット風アイスクリームだったという。ところがその頃の日本人には、夏に氷を食べるなんて習慣はまずない。大体、氷がない。せいぜい、冷たい砂糖水に白玉を浮かべたものくらいしかお目にかかったことがなかった。だから、通りかかった外国人がたまに買うくらいで、日本人はそれを見ているだけだった。お値段の方もー杯金2分。これは当時の女工さんたちの給料の約10日分に相当したというから、大変なもの。

彼の店は、すぐにつぶれてしまった。が、翌3年の5月、伊勢山皇大神宮(西区)の大祭で、この”あいすくりん“を売りだしたところ、今度は、初夏という気候のせいもあってか、飛ぶように売れたという。以後横浜に“氷水屋”が増えたとか。

 もっとも、外国へ渡った日本人使節の中には、これより前からアイスクリームを口にしていた者もいた。たとえば、万延元年(1860年)アメリカを訪れた福沢諭吉、勝海舟らは、アイスクリームのことをこう書き残している。

「珍しき物あり。氷を砕いて色々に染めて出す。口中に入るにたちまち溶けてまことに美味なり。これを“あいすくりん”という。これを製するには……(略)生卵を入れざれば再び氷らず」(柳河日記より)



東京芸者の一日
絵:フランス人画家ジョルジュ・ピゴー 明治24年



馬車道に建つ「太陽の母子像」

 ともあれ、当時の日本人にとってアイスクリームは、甘く冷たい夢のようなお菓子だったようである。しかし、まだまだお金持ちのゼイタク品。誰にでも手が届くようになったのは、大正9年、工場生産が始まってからだ。

 今、馬車道には、この町田房造の氷水屋を記念して「太陽の母子像」が建っている。また、毎年5月9日、県内の恵まれない子どもたちにアイスクリームがプレゼントされ、この像の前でも道行く人に無料で配られる。来年の5月、忘れずに行ってみようね。



     ビール

 

ビヤ坂という坂が山手の丘にある。この丘の上に明治3年から大正12年の関東大震災まで53年間、日本最初のビール醸造所があった。そして、ビール樽を積んだ馬車が行き来した。

 この仕掛人は、コープランドというノルウェー系のアメリカ人。今の中区諏訪町北方小学校の隣りのキリン園辺りにスプリング・ヴァレー・ブルワリーというビール醸造所を作った。その頃、ここ一帯は天沼と呼ばれ、こんこんと泉のわく春の園のように美しい所だったので、この名がついたとか。

 それまでも、ビールは居留地の外人にとって欠かせない飲み物であったが、輸入に頼るしかなかったので、彼のビールは人気を呼んだ。やがて、地元の日本人にも「天沼ビヤザケ」という名で親しまれていった。



  コープランドのビール井戸跡

ここ(中区諏訪町北方小学校校庭内)からビール醸造所まで水を引いた


 といっても、大ビン1本20銭(明治11年)というお値段。米1升(1.3s))が約5銭、酒1升で約9銭という時代だから、単純換算して今の約2千円にあたるゼイタク品。当時はまだ高級軍人や実業家などにしか手が届かなかったという。大政奉還をした徳川慶喜の実家である一橋家の日記に、明治3年、当主徳川茂栄が東伏見宮彰仁親王を訪れた際、5本のビールを手土産にしたところ、大層珍しがられ、喜ばれたと記されているぐらいなのだ。


中区諏訪町にあったビール醸造所


国産初のビールラベル

丸善鰹椛

 コープランドのビールは大いに売れたが、経営上の問題で行き詰まり、明治18年、在留外人の共同経営によるジャパン・ブルワリーに買収された。明治21年に発売きれたジャパン・ブルワリーのビールに、キリンのラベルが初めて登場するのである。そしてこれが明治40年、現在のキリンビール株式会社となる。

 キリンビールの前副社長で現在額間の桑原良雄さん(大倉山在住 当サイトの「私の町」に登場)から、明治初期のビールについてお話を伺ってみよう。

 「当時のビールはワインのような細長いビンに入っていて、コルク栓でした。だから、あけるのが大変でネ。ワインをぬく要領なんだけれど、固くてビンの口が割れてしまったこともあったそうですよ。味ですか? 日本人は苦いと思ったでしょうね。コトブランドはドイツ人技師からビールの醸造法を学んだし、ジャパン・ブルワリーもドイツ風ビールをつくりました。キリンもその味を継いでいますよ」

 ドイツ風ビールはイギリス風ビールより苦味が少なく口当たりも軽かったというが、今のビールより相当濃い、コクの強い味だったという。明治35年に描かれた北沢楽天のマンガに、ビヤホールで初めてビールを口にした日本人の話が登場する。
 「これがビールって言うのか、えらく泡ア立てるが、是れ喰ふのかな」「ナーニ泡喰ッちゃいけねえ、そりゃ熱燗(あつかん)のせいだよ」「ヒヤーこりゃ冷だ、おまけに苦げいや」

 現在では、この「苦い苦い」と思われていたビールがアルコールの中で最も飲まれているのだから、今は山手の外人墓地に眠るコープランドも、さぞ満足なことだろう。

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