編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                  NO.725  2015.10.31 掲載
               
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紀行 何回長電話しても無料の国際電話 スカイプ  

 
まるで悲惨な地獄絵

                           投稿:山室 陽子(横浜市神奈川区六角橋 新横浜ゴルフ社長 69歳)      
                     平成7年10月10日発行の『とうよこ沿線』64号から転載

   主婦として周到な用意……

 
昭和20529日、その日は朝早くから警戒警報中でした。私は勤務先の神奈川税務署へ出勤する直前に空襲警報が発令されたため、自宅待機。間もなくいつもと違った緊迫感が家族の胸中を走りました。

午前830分頃にはいよいよ敵機B29の襲来に備えて防空壕を閉鎖するため、急いで必需品を投げ込みました。物資に乏しい時代、僅かの米や味噌と、私が覚えている物では鮭と蟹の缶詰、乾パンとソバ粉、醤油など。それから咄嵯の機転で五寸クギの大缶、そして曲尺、金づち。父の愛用のカメラは窓下の土中へ。
  私は母から、もしもの時の女性の身だしなみをやかましく言われておりましたので、ホームスパンのスーツを着用していました。リュックの中には着替えや下着など。臥せりがちの母はこの朝は悲壮な覚悟をしたようで、浴槽にできるだけの食券を沈めました。家の中を土足で皆が駆けずり回って身仕度するなど今までにないことでした。

そこへ先月、415日に自由が丘で空襲に遭い、焼け出された姉のお舅(しゅうと)、高木一雄様が来られました。
  お茶をすする間もなく空は真っ黒になり、辺りは騒がしく。父と次兄は家に残り、家を守るから4人で逃げるように指示され、母と自由が丘の姉夫妻と私は家を出ました。


   焼夷弾の雨の中、必死の逃避行

 

玄関先でザアー、ザアーと大雨と雷を一つにしたような音が私たちを疎ませました。
  近くに焼夷弾が落ちたのです。防空頭巾をしっかり被り、もうここは危険と手を取り合って家を脱出。置き去りにした可愛がっていた猫のミイーの姿と悲しい声を今でも忘れません。

 

電車通りへ出るまでの間、大変恐ろしい思いをしながらやっと大通りに出ると、そこには反町方面から全身に灰をかぶった無言の人、顔を火傷して悲痛な声をあげている人、布団をかぶって座り込んでいる人たちがたくさん。
 私たちは避難場所の高島山の方へ歩きました。本覚寺の下で「桐畑町内会」と記した看板を高く掲げた町内会役員の工藤さんの後に続きました。青木橋を渡って京浜神奈川駅では大勢の人が東海道線の線路へ下りて行きました。「橋は狙われるぞ!」という人の声。 私たちはそのまま宮前町へ。その時、上を見ると真っ黒な空の中に、はっきりと
B29の編隊がまさに手に取るように……。と、焼夷弾の雨……。



空襲のさ中、避難する人々。青木橋付近

提供:横浜市役所
 

しばらく電話局の入口あたりの空き地にうずくまってしまいました。後から後から人の波に押されるように進むうちに、田中屋小間物店のおヒゲのおじいさんに会い、「中央市場が安全だ」とおっしゃるのです。で、州崎神社の前を右折して栄町の方へ出ると、市電がすっかり焼けて骨組みだけに……。両側の家々が燃え盛る中、市電の軌道を歩き続ける。

熱い熱い中、口は渇き、ホームスパンのスーツはカリカリになり、水を求めました。電車通りの左側の天理教会の手水鉢(ちょうずばち)に僅かに残る泥水を、思わず口に含み、頭や衣服にも掛け合って助かりました。
 そこから神奈川公園は目の前。公園内の樹木のおかげで火をかぶらずに済みました。「中央市場は人でいっぱいだ」と人々がおっしゃるので、そのまま、東神奈川まで歩き続けると、その周りはなんと死人の山″……。逃げる途中で亡くなった人は路上で半焦げ、お腹はパンパンにふくれているのです。
 今でもその場所を通る時は、思い出して手を合わせたくなります。さらに水を求めて神奈川小学校の防火用水へ辿り着くと、そこには水を求める人だけでなく、全身に火傷を負った人がプールに浸りそのまま絶命して浮いていたり、もがいていたり……、それはまさに悲惨な地獄絵でした。

   帰宅したが、そこは……

とてもその場には居られず、死体をよけながら地下道をくぐり抜けて東神奈川駅の西口へ出ました。
 見渡す限りの焼野原で、実家のある桐畑方面は手に取るように見える。実家は焼失の中に残るは白壁の蔵が
3棟ほど。それでもなお、私たちは自分の家は焼け残っているかと希望をつなぐのでした。でも、到着したわが家は全焼していました。
  時計は午後2時を回っていました。午前9時頃から火の中を4時間余り歩き、やっと辿り着いたのでした。
 
とにかく家族の無事を確認することができ、ほっと胸をなでおろしたのでした。



筆者の実家のある桐畑の青木小から一面の焼け野原
反町公園から東神奈川、子安まで見渡せる焼け跡
提供:青木小学校
  家に残った父と兄は家から脱出する時、かい巻きを背負って電車通りに出たところ、あちこちから火に追われて来た人たちが、やっと持ち出したそのかい巻きを藁をもつかむ思いでグイグイ引っ張って、とてもつらかったそうです。兄は軍服を着ておりましたので、自分の持ち出した毛布を欲しがる人にあげたと聞いております。

 
(中略)わが家から2軒目の内山様のおばあ様は、早く逃げるよう促されたのに家と運命を共にされるまでお経を唱えていらして亡くなられました。当時の老人の生きざまを強く感じました。日暮れを待って、焼トタン板の上に焼木材を井桁(いげた)に積んでご家族の手で改めて火葬されたのです。
 戦災の場合、羅災者は田舎のある方や郊外の縁故を頼る方以外はほとんどその場所を離れることなく、一言の不平も言えずに防空壕暮らしを余儀なくされたのでした。

警戒警報に戻った夕方になると、京浜工業地帯の方面は赤い火が空を覆っておりました。早速欲しい水は断水、反町の踏切を渡って幸ヶ谷まで水を汲みに行きました。隣組に配るおむすびは栗田谷小学校が焼けなかったので、桐畑から反町を通って受け取りに。
  その道筋、今の反町駅前辺りは、それはひどい惨状で、置き去られたリヤカーの上には人の内臓がぶすぶす煙り、その臭いが鼻を突きました。近道をしたくとも横道は死骸がいっぱい並べられておりました。罹災当時はそんな無残な光景が脳裏を走り、まんじりともせず夜を明かしたものでした。

当時は今と違って物を買うことも贈られることもなく「欲しがりません 勝つまでは」の合言葉で、皆で頑張ったものでした。

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