編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                  NO.724  2015.10.31 掲載
               
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生死を分けた焼夷弾

                           投稿:水谷 吾弘(横浜市港北区日吉本町 法政二高元事務長 72歳)      
                     平成7年10月10日発行の『とうよこ沿線』64号から転載

   まさか日吉がやられるとは……
 
  昭和20310日の東京大空襲のときは、日吉の丘から東京が焼けるのを見ていたが、1カ月後に日吉がやられるとは夢にも思っていなかった。

昭和20416日、久しぶりに茅ヶ崎の陣地から帰ってきた私は、ゆっくり風呂に入っているうちに警戒警報が鳴り出した。「仕様がねえなあ畜生め」と思ってまだ湯に入っていると、空襲警報……。警防団が「火が漏れるぞ!」と言っている。風呂釜の火がチロチロ見えたらしい。母が火を消し、私が体を拭いているうちに「ザーッ」という音。
 「あっ、あれは焼夷弾だ。これはやられる。すぐみんなに知らせておくれよ」
 母はびっくりして飛んで行った。防空壕に入っていると、炸裂のたびに壕内までパーッと明るくなる。不用意に頭を出すと危ない、次の爆弾でやられるのである。私の旧知の人はこれでやられた。頭を出した途端に爆風直裁で首を飛ばされてしまったのである。パーッときたら次の間をはかって飛び出さないと危ない。
 壕の中では妹たちが震えている。見ていると腰をかけている膝が一寸くらいカタカタと上下していた。


  著者水谷さんの徴兵延期証書
 海軍経理学校に在籍していた水谷さんは徴兵が3年延期される。海軍関係の学校は3年、陸軍関係の学校は2年延期という特例があった

  焼夷弾を火ハタキで消す防火演習



    昭和18年、神奈川区白幡第2班防空演習のとき
 一家に一人が出動した防空演習だが、最前列女性二人は黒マスク、右後列の男性が持つ竹の棒は、この竹の先に縄を付けハタキのように火を払いのけるという“火ハタキ”
   提供:出川登志男さん(白幡町)

「ザーッ」とくるのは焼夷弾、「ヒュルヒュル」とくるのは爆弾で、この音が聞こえてくるとサッと下水の中でもなんでも頭から飛び込む。小さな溝では頭だけが入って、尻までは隠れない。まさに「頭隠して尻隠さず」で……。家のまわりにパラパラ火が降ってくるので、「火はたき」という竹竿の先にワラ縄を何本もつけたハタキの大きなようなもので、火を消そうと叩くとかえって火が広がってしまう。地域で行う防空演習なんぞクソの役にも立たない。相手は油脂焼夷弾だ。「駄目だこりゃ、シャベルで土を掛けろ」というわけで、専ら土で火を消した。

ザー、ザー、ヒュル、ヒュル。しまいには溝に飛び込むのも面倒になって、畑の中に伏せたり起きたり忙しかった。隣の半田さんの大きな茅葺き屋根の家が直撃をうけて、一瞬のうちにバッと炎上した。

  応援に行きようもない。わが家は屋根に直撃を食わなかったので、周囲の火は全部消し止めた。長い夜だった。 夜が明けてみて驚いた。私が伏せて、火を消していた辺りは、親焼夷弾の弾体部品がバラバラ、ゴロゴロ無数に落ちて転がっていた。一つでも体に当たっていればお陀仏である。よく助かったなあ、思わずゾッとした。

  B29が雨あられのごとく投下する爆弾と焼夷弾

生と死を分けるのは、一つは運、一つは要領だ。 B29が一般に落としたのは500ポンド爆弾、これが連続投下してくる。あとは100ポンド焼夷爆弾、それから通常の焼夷弾。これは2インチ半の口径の子焼夷弾が3ダースだか4ダースだったか、まとまって一つの親焼夷弾になっている。投下すると上空でハネて、子焼夷弾がバラバラになって、ザーッと音を立てて火を噴いて落下する仕組みになっている。つまり、油脂焼夷弾だ。この親焼夷弾をバラバラ落下するのだから、防空演習など役立つはずもない。

想定とケタ違いの量なのである。わが家の近くでも多い所では1メートル四方に子焼夷弾が3発も突き刺さっていた。



    B29が投下する大きいものが500ポンド爆弾
その周囲にゴミのように無数見えるのが100ポンド焼夷弾。さらにこの中に子焼夷弾が3〜4ダースが入っていて火を噴いて落下するという

  脚絆を巻いたままの睡眠

 
この頃は、陣地から日吉の家に帰ってくると毎晩のように各地に空襲があった。夜も巻脚半を巻いたまま寝る。
 夜が明けると「ああ、また一日生きのびたなあ」というのが実感だった。鉄帽も、一日中かぶりっぱなしだと首がおかしくなってきた。
 それから間もないある夜、
B29が落ちるのを目撃した。夜間なのでB29の高度は低かったようだ。西の方からダン、ダン、ダンと3発砲声がしたら、バッと火の玉ができた。B29が発火したのだ。コースを外れて我が上空を火の玉になって通過し、やがて東の空で二つの火の玉に分かれて墜落した。これは、今の大田区久が原に落ちた。

523日の夜、また空襲があった。陣地から見ていると、東京・横浜方向の空が真っ赤になった。心配なので、連絡を理由に、翌朝陣地を離れて家の様子を見に来た。電車は保土ヶ谷駅でストップ。仕方がないから保土ヶ谷から日吉の家まで歩いた。着いてみると日吉がまたやられている。
 慶應のグラウンドの入口に来たら一面ガソリン臭く、学生浴場が焼け落ちている。わが家の方を見ると、塀の向こうに屋根が見えている。ほっとした。

当時私は法政二中(現法政二高)の教務係を兼ねた教諭で生徒を連れて陣地構築に関わっていた。家に荷を下ろすとすぐ、自転車で法政二中へ向かった。住吉小学校の川沿いの道に出ると、いつもなら校舎の向こうに上の方だけ見える予科のボイラー室の煙突が、この日はいきなり根元から見えたので急いで行ってみて、驚いた。
 わが二中の校舎はきれいに焼け落ちてしまって、玄関の円柱2
本と小さな会計の金庫、それと非常階段だけが残っていた。とにかく、後で焼け跡整理をしたとき、焼夷弾のカラだけを積み上げてみたら高さ1メートルくらい、長さ15メートル以上になった。これでは手の施しようもない。井上校長や教務主任と今後の対策を練っているうちに数日が経ち、529日になった。

この日は、朝から空襲警報が出て、横浜市街がやられた。硫黄島が落ちて、サイパン島が玉砕されサイパン島に集結した米軍戦闘機が進出して来たからだ。10機編隊のB29が、あとから、あとから、来るわ、来るわ、爆撃でやられた石油タンクの黒煙が天を覆い、その間から際限もなく編隊が続いて来る。
 この空襲は昼過ぎにやっと終わった。来襲B29は約500機、これに直接戦闘機P51ムスタングが多数加わっていた。横浜市街はこの半日の空襲で壊滅した。のち、この空襲を「横浜大空襲」と呼ぶようになった。
 
茅ヶ崎の陣地から数日前に歩いた時は、人々が忙しそうに働き、明るかった保土ヶ谷への街並はすっかり焼け、真黒な瓦礫の山と化していた。

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