昭和20年4月15日の空襲で、近くの日本医大病院をはじめ青果物市場(現在、小杉町公団アパート)など一面火の海と化した。続々と運び込まれる重軽症の火傷患者・裂傷患者などで、当病院内は地獄そのものの様相であった。
私は空襲のたびごとに、寝食を忘れてその治療に当たった。ある時は、某知人の夫人が焼夷弾の直撃を受けながら徒歩で来院、頭髪は焼け縮れ、右手はぶらぶら、意識は明瞭であったが、呆然と立っておられる。診察すると、右肩から完全骨折、全身火ぶくれで、到底私の手には負えない。せめてものお別れと新しい綿入れ丹前・下着など、すっかり着せてあげて外科病院に送ったが、2日後には他界したと聞いた。
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昭和21年冬。前年4月15日の空襲で焦土と化した新丸子西口、医大通り。中央の白い建物は外壁が焼け残ったコンクリート製の日本医科大学
提供:小野基一さん(新丸子町) |
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