編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                  NO.723  2015.10.30 掲載
紀行 何回長電話しても無料の国際電話 スカイプ  
  患者で溢れるばかり

                           投稿:明石 嘉聞(川崎市中原区小杉町 東横病院元院長)      
                                  平成7年10月10日発行の『とうよこ沿線』64号から転載

   いつも火傷患者で満員
 

昭和20415日の空襲で、近くの日本医大病院をはじめ青果物市場(現在、小杉町公団アパート)など一面火の海と化した。続々と運び込まれる重軽症の火傷患者・裂傷患者などで、当病院内は地獄そのものの様相であった。

私は空襲のたびごとに、寝食を忘れてその治療に当たった。ある時は、某知人の夫人が焼夷弾の直撃を受けながら徒歩で来院、頭髪は焼け縮れ、右手はぶらぶら、意識は明瞭であったが、呆然と立っておられる。診察すると、右肩から完全骨折、全身火ぶくれで、到底私の手には負えない。せめてものお別れと新しい綿入れ丹前・下着など、すっかり着せてあげて外科病院に送ったが、2日後には他界したと聞いた。

 



昭和21年冬。前年4月15日の空襲で焦土と化した新丸子西口、医大通り。中央の白い建物は外壁が焼け残ったコンクリート製の日本医科大学

  提供:小野基一さん(新丸子町)
  私の病床はわずか19床。他の専門病院も満員なので、当病室もいつも重症火傷患者で溢れるばかり。看護婦2名、応援医師1名に外来数100人の患者、手の施しょうもなかった。入院患者の中には破傷風患者も出る。血清脊椎注射、全治したものも随分あったが、不幸な転帰をみた人も少なくなかった。ハエの侵入のために化膿したところにウジ虫が湧き、そのために傷口が清浄されるという珍現象も現れた。

  医師は病人を放置して逃げろ

  当時、「空襲時には医師は病人を放置して防空壕に退避し、後の救急のために身を守れ」という厳命がお上から出された。初めはその通りにしていたが、空襲が熾烈になると、もうどこにいても死ぬ時は死ぬのだという考えになった。防空壕に退避することもせず、重病人を背負って逃げたが、東西南北、四方に火の手があがり、爆音爆風の真ん中にあっては途方に暮れるばかり。喉はカラカラになり、尿意頻繁でどうしようもなく立ち往生することもしばしばであった。

その頃には疎開も不可能になった。それは「医師・看護婦は勝手に川崎市を離れることを許さぬ」という従事令書という法律が出されたからである。
 当時、空襲警報が出ると、人々は人家の少ない空地をめざして逃げ出すのが常であった。しかし、敵は照明弾を落とすので、身の隠しようがない。家にいても外に出ても絶体絶命、運を天に任すより仕方がないと諦めるほか、どうしようもなかった。



 ◆川崎市内の空襲十数回のうちで上記の昭和20415日の空爆が最大。
当時の川崎市の人口
34万人のうち焼失家屋33361戸、羅災者10万人以上、死傷者多数。
 とくに中原区内には富士通信・日本電気・航空計器・沖電線などの軍事工場が多かったために狙い撃ちされたようだ。

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