編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.690 2015.06.19 掲載

 
『とうよこ沿線』No.61…平成6年(1993)9月20日

 B5判 紙数:ページ68 +8ページ分の綴じ込みマップ

 頒布:有料  定価300円
   
  読者と編集室との架け橋
  この「ボイスBOX」は、61号“桷”60〜61頁から転載です。


      「菊名・妙蓮寺」特集から夢が…

 前号の「菊名・妙蓮寺」特集から夢が広がって、「菊名の昔を一冊の本に纏めては?」という話が具体化してきました。
 「アルバム拝借」「昭和初期の家並」復元地図などが土地っ子の心に懐かしい共感を呼び起こしたようです。地図復元でも協力された小泉 正さんは「ほら、この子が水菓子屋の茂ちゃんで、この子は経師屋のみっちゃん」とたちまち10人くらいの名前が出てきてうれしそう。
 小泉さんと「菊名囃子(はやし)」の仲間の斎藤吉徳さんは「こういう写真、うちにもあるよ。みんな集めて写真集にしよう」と大乗り気。『とうよこ沿線』は″町おこし≠ノも大活躍。感謝感激です。
 (港北区菊名・菊名北町内会・大崎春哉)








 じつは私も菊名〜妙蓮寺間に住んでいます。あの「昭和初期の町並」復元地図を見ますと、なんと私の家は篠原分教場の跡にあります。町内会で本を発行するとは画期的、素晴らしいことです。その発行人の中にわが家の前身、分教場を巣立った人もいらっしゃると思うと一層親しみを覚えます。本が出来ましたら是非読ませてください。
(菊名町の隣町に住む 鈴木みづえ)


  

            8カ所も引っ越しましたが

 本年月に湯河原からこの新築のマンションに引越して来ました。第60号の表紙の写真は私どものリビングから撮ったのではと思われる程です。
 大井町線大岡山、池上線久が原、田園都市線営前平、大井町線九品仏など戦後50年間で上記共8ケ所も転居しました。″ついのすみか″がここ菊名の丘の上です。
 バックナンバー5冊ほど買いました。
  (港北区菊名3丁目・会社員 佐藤郁郎)

佐藤さんは大変な引っ越し魔″だったようですね。でも菊名はどこへ出るにも便利、まだ緑も多く生活しやすいと思います。なにしろ歩いて新横浜駅まで行けば、最初の駅が名古屋、次が大阪ですからね。本誌のフアンになって頂きありがとうございます。ますます元気でご活躍を!  (鈴木みづえ)


              多くの広告を集めるのは…

 東横線に乗るたびに(編集室のある日吉駅で)途中下車しようと思っていながら遅くなってしまい、通過していました。
 郵便受けに60号が入っていたので、びっくり。声をかけて下さったらお茶でも差し上げましたのに……。再出発! 頭が下がります。『櫨』いっきに読みました。すばらしい編集。「おや?」「ま−」「ヘー」と頁をめくります。
 これだけ多くの広告を集めるのは、たいへんだったと思います。足しげく訪ねなければならないでしょう。交通事故に遭わないように気をつけてください。不況の風が吹きすさぶ中の出発、一歩、一歩、あせらず歩んでください。健康に留意して。
 (中原区中丸子・民話作家・萩坂 昇)
 










 萩坂先生にはいつも温かい目で私たちの活動を見守っていただき大変心強く、励みになっております。ベテラン(?)を自負しながらも毎号広告募集の難しさを実感します。とくに平成不況″の嵐は老体にはひびきますね。でも、私の跡継ぎが現れるまでは「是が非でもがんばらねば」と、今は開き直っています。(鈴木善子)
 

    

               生き返った写真

 前号『櫨』を拝見して、大変古い写真がたくさん出ているのにびっくりしました。普通なら汚れたり、捨てられたり、紛失したりして消えてしまうこれらの写真が、このようにしてまとめて頂いたことで再び生き返って、またさらに長い間残っていくものと思います。
  しかしこれだけの資料を集めるのは大変です。岩田様はじめ編集室の皆様のご苦労ははかりしれません。
 今回、私の写真の一部を提供させて頂いたことで、私は「町並みの記録」という意味での写真の存在を意識しました。
  その後、機会あるごとにフィルムの余りがある時、気になる町並みをあちこち撮影しています。30年後の『とうよこ沿線』に再び写真を提供させて頂ける機会があればと思います。
 (港北区仲手原・押尾泰典)

      












前号でのご協力ありがとうございました。押尾さんのように若い皆様方がわが子の成長をカメラに収めるように愛するわが街″も撮影しておいてくれたら、こんな炎天下、探し歩かなくてもいいのに、なんて勝手なことをつぶやきながら、本号も多くの家々にご迷惑かけました。
 「人間と同じように町や自然も生きている」。これが、14年間昔の写真を探し歩いた私の持論です。30年後の妙蓮寺の街は、どのように変わっているのでしょうかねえ?
 (岩田忠利)


       半世紀前の「とうよこ懐古」

栗田谷国民小学校1年生まで女学生の乗降客が多い「新太田町駅」(※東横線東白楽駅〜反町駅の間にあった駅)を利用する常連でした。桜木町から渋谷まで駅名を暗記したり元住吉の車庫に並ぶ電車を見て感激したりして、緑色の3両編成の電車の運転手が将来の夢でした。
 
 横浜大空襲で今の地へ。でも、忘れません。あの幼い日の憧れの電車とその沿線風景が…。次号の特集「綱島」の刊行が待たれます。



東横線「新太田町駅」があった場所は、現在こんな町角に変わっています。

戦時中、その綱島の奥の獅子ヶ谷にある光明寺に疎開しました。今ここは松竹大船の往年の名女優で急逝した桑野通子さんの菩提寺。忘れ形見の、みゆきさんもここで育ちお母さんの跡を継ぎましたが引退してこの地を離れたとか。閉園して久しい「ボタン園」とともに「綱島温泉駅」の呼称が偲ばれます。
 大倉山を出た電車は戦時中に直線の切り通しができるまで渋谷に向かって右に大きく迂回して下り線から先に通過していたのを眼をこらして見たのも半世紀たちました。
   (藤沢市辻堂・公務員・池田卓治)
           



















池田様と同じように私も、生まれも育ちも「神奈川」。「新太田町駅」「桑野通子」「ボタン園」と昔の固有名詞が鳥肌が立つほど懐かしく感じられます。

昭和2年頃、新太田町駅から新丸子駅まで切符を買うと今はない「丸子園が入場無料になりましたね。それから、獅子ケ谷の「ボタン園」も閉園のとき、ボタンの大半を大船フラワーセンターに寄贈したそうですね。

また昭和20年頃、神奈川区内小学校の学童疎開先は新吉田町や新羽町あたりのお寺でした。上級生が不慣れなリヤカーを引いて西山米店へ配給米を取りに行くのや、大倉山からの長い田んぼ道を子供の着替えなどを持って面会に来るお母さん方の姿を見かけたものでした。
 お会いする機会がございましたら、積もる神奈川のお話をしたいものですね。
(居残り疎開者・山室まさ)


 

              元住吉・井田の今昔に思う

 元住吉西口の先、井田中ノ町に来てから37年……。子供たちはここで育ち、東横線で幼稚園から小学校、大学まで通いました。
 私たちの最初の家は社宅で戦時中に井田山からトロッコで土を運び、田んぼやアシの生えていた沼のような所を埋め立てて平屋の木造が並んだ、いわば新住民たちの住居だったようです。私たちが住むようになってから、ぼつぼつ企業のコンクリートのアパートとか東口の方の公団のアパートが建ち、その近代的な建物を羨ましく思ったものでした。
 周囲は夏になると蛙の声で話し声も聞こえなくなるほど。道は砂利道、側溝もなく田に水が入ると道まで水がしみてきて、乳母車を押して歩くのも容易ではありませんでした。
 それから30数年たった今、田んぼはみんななくなり、アパートが建ちマンションになり、駐車場になり、平家は2階家になり、太陽もなかなか当たらなくなってしまいました。
 特に貴誌『とうよこ沿線』ではこの地区の私の知っている昔、知らない昔の写真や記事を興味深く読ませていただいております。
  (中原区井田中ノ町・主婦・遠藤美都子)








 遠藤様と同じ時代に私どもも隣駅の日吉に引っ越してきて、慶應大学の隣、綱島街道沿いに家を建てました。
  砂利道のその街道は車の通過と風の日は砂塵が舞い、終日掃除にあけたものでした。それが今、こんなにも変わるとはねえ! (鈴木善子)


      本誌を読んで行先を決める私

 調布に住んでいる私は東横線を利用する機会は余りないのですが、たまに使うことがあると、渋谷駅改札口前の売店で『とうよこ沿線』を買ってから乗ります。
  先日も57号を手に、桜木町へ行ってきました。ランドマークタワーの展望台から快晴の町並みを見下ろした後、野毛山動物園へ。誌面を読んで行き先を決めたのですが、とても参考になりました。
 地元小学校の教材にもなつている『とうよこ沿線』、これからも期待しています。
  (調布市国領町・会社員・高橋香代)
    



本誌を片手に横浜探訪。うれしいかぎりです。デートかな? (鈴木みづえ)


 

                   私も協力したい!

 60号で「お母さんの協力者募集」という記事があったのでぜひ協力したく葉書を出しました。私は今、洋光台に住んでいますが、実家は妙蓮寺。週12度は家に戻っている12カ月の女の子の母親です。
 市民活動で市内の保育園や幼稚園について調査を開始する予定なので、とくに保育園や幼稚園関係には関心があります。
 
(磯子区洋光台・主婦・島村智子)





 お便り多謝。皆さんにお集まりいただいて企画面や役割などご相談します。その時はぜひご出席ください!(岩田忠利)

      情報の“送り手”、延べ2333名の声

   編集の音(抜粋)


  は本号から参加した会員です。




今年は冷夏ではなく炎夏。38度の猛暑の中、頭の中が真っ白になりながらの撮影でした。空は抜けるような碧、雲は純白、頭の中も真っ白。振り向けばミンミンゼミが笑う。
(祐天寺・フリーカメラマン・深谷光男)




「とうよこ沿線」の編集に初めて参加しました。編集長とママさんの親切に感激しています。編集のことを何も分からない私に一から全部教えてくださるのですから…。皆さんよろしくお願いします。
(菊名・編集室・鈴木みづえ)





先日、近所の書店で新しいタウン誌を発見。本誌同様の鉄道沿線誌。うーむ、うちのほうがずっといい、とまず思ったのだけれど、編集スタッフの苦労を思い、雑誌作りの大変さを考えると……。
(東白楽・主婦・石川映子)










疎開という言葉古びぬ吾もまた
   土地になじみて老いの道ゆく
 私の戦後特筆は『とうよこ沿線』との出合いです。得たことは「即実行。努力。和合等々」勉強になりました。今後も「えんせん舞台」の黒子が務まるかしら?
(大倉山の物好き・山室まさ)









長い間ご無沙汰しています。相変らず糖尿病との闘いを続けています。歳のせいか、世紀末のせいか、腹の立つことが多いので、ワープロに「はらたちの花」という題で一部始終を打つことにしてます。すると、スーツと忘れられます。沢山たまったら本にします。乞うご期待。
(都立大・随筆家・前川正男)






初めての取材で「沿線食べある記」の沖縄料理を担当しました。朝食・昼食を抜いて取材にのぞんだその気合が伝わったのか、お店の女主人に「取材が上手」と誉められ、いい気分です。(ただ単に食い意地が張っているだけなんじゃ……)
(横浜・大学生・河住志保)





取材でいろいろな方と出会うたびに感動する私ですが、今回は以前わが家の近くにいた大学時代の友人と綱島の町でバッタリ。よほど東横沿線に縁があるのだと嬉しく思った私です。
(草加の松原団地・木村敦郎)





編集室に見えたお客を見送り、脱いだスリッパを下駄箱に入れようとしてビックリ。2足分を重ねたまま出した私、またそれを気づかず履いていたお客さん。どちらが“重症”?
(編集室 鈴木善子)





尾瀬にゴミがないのはゴミ持ち帰り運動が徹底しているからで、これは都会にも当てはまること。だが都会では逆にゴミ持ち帰らない運動でもしているようだ。先日、臨港バス(回送)の運転手が走行中、火のついたタバコを投げ捨てるのを後から車で走っていて目撃した。
綱島・酒店自営・加藤弘年)





弘前に旅行した。お城の桜が終わり、ねぶた祭りが始まる前の6月に。観光客の受け入れ設備に余裕があり気持ちが良い。人生すべて余裕を持ちたいものだ。取材も良い仕事ができるのでは。
(菊名の熟年者・本田芳治)






初取材の仕事を終えるなり、いまカナダに来ています。滞在しているトロントは、緑があふれ、道路も住宅地もだだっ広いです。雑然とした日本の街並を見慣れた目には、世界にはこんな都市もあったのかと驚きます。
 (日吉・大学生・庄鳴孝広)






気象庁が「戦後最も暑い夏」と発表した。今夏にやっと我が家に待望のエアコンが入ったのだ′ 寝苦しさよ、さようなら…と快適睡眠宣言。しかし、暑さはその日がピークでそれほど必要でなくなったのであります。
(大倉山・会社員・秋元重雄)





2週間かけてイギリス(主にケント州付近)のガーデンを探索。古い城の壁にバラが這い、一面ラベンダーなど多数のハーブの香りが漂う。各地を見聞しイギリスの底力、真の余裕を感じる旅でした。
(青葉台・会社員・小田房秀)





この本の編集に参加するかも、という話を親や友人にしたところ、「これで将来の就職先は決まったようなもんだ」と言われることしきり。それも悪い話ではないですよね、このご時世では。
(大岡山の素浪人・植田晋一)















 7月で本誌は創刊14年が過ぎました。その間、『とうよこ沿線』は沿線のおみこし″のごとく、じつに多くの皆様に担がれ、支えられ、ここまでやって来られました。この場を借りて、ご協力くださった編集室内外の皆様に衷心より御礼申し上げます。
 創刊当時住民の皆さんが集まり情熱の塊のように活動した日々、それがまるで昨日のよう。かと思えば、遠い昔のようにも……。
  前記登場の“大岡山の素浪人”こと、植田君は中学時代から当編集室スタッフを望んでいたという。そして意を決し編集室へ電話した先日は「受話器の前で2時間もウロウロした」ほどの純真な青年です。その彼の中学生の妹さんが“本誌と同い歳”というのだから、私もオジンになるはずですね。
 で、編集室の近況。今、優秀な若い人たちが続々スタッフに加わっています。次号に乞うご期待!
(編集長 岩田忠利)

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