編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.677 2015.06.09 掲載

        画像はクリックし拡大してご覧ください。


 
『とうよこ沿線』No.49…平成2年(1990)1月20日

 B5判 紙数:76ページ+8ページ分の綴じ込みマップ

 頒布:有料  定価300円
   
  読者と編集室との架け橋
  この「ボイスBOX」は、49号“梧”66〜69頁からの転載です。


 
     駅名「学芸大学」を元の駅名「碑文谷」に戻して!

 久しぶりに買った48号懐しく拝見しました。なぜならその地は小生の出生地なのです。
 ちなみに旧本籍は、東京府荏原都碑衾町大字碑文谷5百番地。昭和4年生れの私は両親とも死別しその場所はわかりませんが、自宅は目黒競馬場の裏手にあったそうです。近々その地を訪れたいと思っています。

 前号に「学芸大学の駅名問題が取り上げられていましたが、学芸大学も移転した今、私は地域に密着した駅名だった元の駅名「碑文谷」にまた戻してもらいたいと願う一人です。年老いた叔父や叔母は未だに「ヒモンヤで降りて…」と言っているのですから……。
 (川崎市幸区小倉・鈴木福太郎・60歳)









  昭和28年に学芸大学が小金井に移転して30年余、なのに現在でも「学芸大学」である不可解な話です。駅名改称は店名やマンション名などに使っている一部関係者や東急にとっては不都合な問題でしょう。しかし、ここで地域の顔である駅が実態のない「駅名」を、誰かがリ−ダーシップをとって地域問題としてみんなで考える良い機会ではないでしょうか。
  地域のことには無関心な人が多い現在、このことから学芸大学地区のガン、駐輪問題なども解決できるといいですね。(岩田忠利)


     ガード下の壁画のもとに仲間が集まって

  48号に菊名駅西口のガード下の壁画の記事を載せていただき、ありがとうございました。その後、「ガード下壁画友の会」が自然発生的にでき、1223日には青山でクリスマスパーティもやりました。CBSソ二−で「明日に架ける橋」「コンドルはとんでいる」をプロデュースした牧さん(菊名在住)や壁画の作者・小林洋子さんも参加し、大変楽しいものでした。
 (港北区篠原北・会社員・菊地原浩二・31歳)
      

「踏切上に電車が止まる 開かずの踏切」と「錦が丘の桜」で有名だった菊名。そこに今や新たに「西口の壁画」が名物に加わり、沿線人の一人として喜んでいます。そのうえ新しい仲間の輪ができるなんて、素晴らしいことですね。(岩田忠利


  壁画(縦3.5m×横12m)の作者・小林洋子さんからの手紙

 昨年暮れに「壁画35m×横12mを描いてみないか」という話があり、ボランティアではありましたが、私が住む菊名駅のJRガード下に描かせていただきました。
  8月の日曜日を利用して9月中旬からは仕事を辞めて壁画に専念、自分の好きなように描かせてもらい、106日に出来上がりました。出来栄えのよしあしはともかく、ぜひ皆様に見ていただきたく写真を同封させていただきます。
 壁画を描いたことによって、自分の未熟な作品ですが発表の場を持てたことは感謝感激です。とくに小さい頃からこの壁にはいろんな思い出があります。暗くて怖い所だったので走って通ったりしました。壁に絵を描けたことは大きな喜びでしたが、それ以上の喜びは地域の多くの皆様との出会いがあったことです。

 制作中、近所の皆さまの思い遣り

 老夫婦やカメラマン・畳屋さん・画家さん・壁画の隣にあるカレー屋さんとの出会い、なかでも画家さんとのそれは、なんとも言えぬものです。 絵を描き出した頃、彼は私に「お前はそんなヘタクソな絵を描いて申し訳ないと思わないか? コンクリートのままのほうが僕は好きだった。あの雰囲気が良かったんだ」。
 確かに自分にも自信がありませんでした。その後も彼は幾度もやって来ては文句を言っていましたが、「お前は面白い奴だ。絵は気に入らんが……」と言いながらも夕方に差し入れとしておソバの出前を取ってくれました。私は鍋焼ソバ、彼は掛けソバでした。

 見知らぬ人が私に声を掛けたり差し入れを持ってきてくれたりで友達が増えました。追い込みの時など朝方5時半までコンクリートにじかに座って描いていると「女の子は体を冷やしてはいけない」とダンボールを持ってきてくれる人、「朝方まで独りでは危ない」といって必ず誰かが付き合ってくれたり。カレー屋のおじさんは私にいつも夜食を作ってから店を閉めるようになりました。 いろんな人が夜集まって乾杯し、絵についての意見を言い合うことも。それはとても充実した毎日でした。



菊名駅西口のガード下に小林さんが描いた壁画の一部。カラー写真でないのが残念。万歳している人が作者の小林さん

この体験から「人の優しさって、まだまだ捨てたもんじゃないんだナ」ってつくづく感じさせられました。いま私は、フリーアルバイターで他人から見れば余りよく映らないでしょう。でも本当に自分のやりたいことができる今の自分は、幸せです。自分らしく生きるということは常に自分をストレートに出し、飾らず人と触れ合うことのできる魅力を持ちあわせることだとわかりました。壁画を通して実に様々なことを学ばせていただきました。
  そして今では私を生んでくれた父・母に感謝をしたい。また描く機会があればいつでも描きたい。皆様ありがとうございました。
 (港北区菊名・小林洋子・20歳)









  私は子どもができて以来、前のように取材などで色々な方と出会う機会がなく、編集などデスクワークが中心です。読者の方や取材相手とも電話や手紙だけでは淋しい気がしていました。しかし一面識もない方からも、こんなふうに手紙をいただいたりすると、会えなくとも温かい気分を味わえるのかと嬉しくなりました。「まだまだ捨てたもんじゃないナ」って気分っていいですよね。(高橋かすみ)

              参考資料にさせていただいて

 山形から上京、結婚して大倉山に住み、その後、中目黒に。まさに「とうよこ沿線」に住んでいます。
 東京のことを知らない故に、まず自分の足元から探ってみようと、暇をみつけては歩き回わっています。その際、いろんな資料で下調べをするのですが、そのひとつに『とうよこ沿線』が役立っています。
  イラストマップは便利であり「アルバム拝借」は、とっても貴重な資料を提供してくれます。そんななかで「雪谷特集」NO.44の「土地っ子昔ばなし」は、ちょうど湧水を追っていただけに、参考にさせていただきました。お礼をかねて雑文を同封しました。
 (目黒区大橋・教員・東海林次男・38







この東急沿線地域は、都内のどこの沿線よりも丘や谷間が多いことはその地名が物語っています。かつてはその谷戸から湧水がこんこんと湧き出て、住民の生活用水として欠かせないものであった、と特集地を取材するたびに古老からうかがいます。
 なお、同封の原稿は連載「われらコロンブス」に「湧水を求めて――東急沿線に沿って」と題して載せさていただきました。(岩田忠利)


我がふるさとの「ゆかり唄」を

 前略「神奈川宿ゆかり唄を作りました。「いろは歌留多を」と思いましたが、なかなか語呂が揃わず、ゆかり唄としました。御笑覧ください。

煙草いっぷく能満寺(俗謡) (能満寺)

神奈川のあるだけ酒を能満寺(能満寺)

火は慶運寺(俗謡姓)   (慶運寺)

滝の川東と西に御本陣  (両本陣)

本堂に泊まりて施療ヘボンさん (成仏寺)

浦島が偲びて濡れし涙石  (成仏寺)

将軍の泊りし跡や御殿町  (御殿跡)

荷車の急ぎて通る飯田道 (飯田横町)

お手折りの梅をかざして江戸城へ (金蔵院)

このミコシ渡せ渡さぬ夏祭 (熊野権現社)

旅人のおのずと脱げし稲荷前(笠かけ稲荷社)

神面を拾いしまつる神明社 (神明社)

神奈川の名の起こりなる上無川 (上無川)

神奈川は江戸より七里程ケ谷へ (七里役所)

死ぬよりはましと台場へ土運び(お台場)

黒船にあわてて築く砲台場 (お台場)

この山の無くなるまでは話し種(権現山合戦)

本覚光寺楠の大樹に星条旗 (ハリスと本覚寺)

鹿背姫の大蛇となりて松あわれ(物見の松)

 (神奈川区東神奈川・熊野神社宮司・熊本 力)
      












今や人口700万人でオランダの国より大きい神奈川県。その「かながわ」の地名の由来が実は、今号の特集地・白楽地区を流れる川「滝の川」が「上無川」と呼ばれた大昔、「かみなしがわ」が「かんながわ」、さらに「かながわ」に転化したといわれます。みなさんご存じでしたか。
 その河口にあり、東海道の中でも屈指の賑わいを見せた神奈川宿。その名所旧跡を招介する「ゆかり唄」を神奈川熊野神社の宮司・照本さんが、49首も作ってくださいました。これは郷土愛と郷土史観なしには詠めないものです。誌面の都合で割愛して申し訳ございません。(岩田忠利)


             昔のガス橋の写真を見て…

 先日1123日、武蔵小杉の西明寺で従兄弟の「小林英男1周忌法要」に参列し、故人の74年間書き綴った日記のコピーと『とうよこ沿線』47号・48号を遺族から頂戴いたしました。

47号「アルバム拝借」に掲載されているガス橋の写真″は、ほんとうに懐かしい思い出です。私は川向うの大田区下丸子に大正6年に生まれあの橋は確か私が旧制川崎中学2年生の時、昭和6年に架橋されたと記憶しております。二つの橋脚の間を何回も往復したものです。距離が5060メートルで程よい競泳の場でした。昭和10年頃撮った全景写真がありますのでそのうちお送りします。

ガス橋もまだ無い大正末期の腕白盛りの頃、毎日一日中、フルチンで水浴びしたものです。この頃、奇態なことですが、下丸子の子供は川向うの上平間の子供と仲が悪く、やっと向こう岸につくと石を投げられ、また疲れ切って引き返したもの。
 といって隣の新田や矢口の子供たちとも肌が合わす、むしろ鵜の木や久が原の方へよく遊びに行きました。子供心にも下丸子は橘樹都側とも荏原都側ともソリが合わないことを感じていました。



『とうよこ沿線』47号掲載のガス橋
昭和32年6月、山田勇さん(中原区田尻町)撮影







――中略――

大田区史「平川家古文書」によると下丸子村は、貞享3年(1686)武蔵国橘樹都下丸子村宝永7年(1710)武蔵国荏原都下丸子村とあり、この間の大洪水かその他の変動で川の流れが変わったものと思います。江戸時代中頃以前は下丸子は今の神奈川県側にあったことは確かです。
  そういえば私の古い親戚はほとんど現中原区の神地・小杉・上丸子・中丸子・平間、そして川崎や鶴見市場など神奈川県に残っています。
 (横浜市栄区東上郷町・平川正巳)





 たった一枚の写真の中にも、多くの先輩諸兄の楽しい思い出や、さらに江戸時代にまでさかのぼると地域の知られざる歴史を探訪する楽しさもあって興味は尽きませんね。
  毎号私は見ず知らずのご家庭をご用聞きのように「古い写真はございませんか」と訪ね歩きます。虫けら同然にあしらわれることもしばしばですが、平川さんのような方がおられることは何よりも励みになります。頑張らなくちゃあ。(岩田忠利)


       碑文谷の君への淡い恋

 東横沿線のことを知りたくて、各号を愛読している。近年は、昔の珍しい写真が多くなり、ほんとに楽しい。で、48号の「昭和初期の碑文谷池」の写真を見て、またある感慨を。
 昭和6年春、隣の家(現新宿区中落合)のM嬢と毎朝、通学のため省線自白駅へ。でその成蹊高女の同級生M嬢を知り、淡い恋心を。その彼女が碑文谷からと教えられ、一体どこなのか、と。後年東横線で通勤となり、朝夕、車内から碑文谷池を見ては、彼女のその後は? と思ったものだ。
  (港北区新吉田・毎日新聞社社友・名取義一)
        





昔の君がお元気でいらっしゃるといいですね、名取さん。当時の思い出を胸に本誌を片手に碑文谷公園を散策してみたらいかがでしょう。彼女にバッタリなんてこともあるかも……。(岩田忠利)


     ガレージセールに参加して

 1029日(日)晴れ。48号の「コミュニティーボード」に掲載された元住吉の「木月公園ガレージセール」に我が家で初めて出店しました。『とうよこ沿線』で知って興味をもち、責任者の桑水流さんに電話したところ、「何が売れるかわからないからなんでも並べてみたら」と言われて、ヤカンから背広・本・バック・ライター・動かない時計……。
  完売するつもりで気合いは充分、結果はまずまず(?) おばさんパワーに押され気味でラストは半額、6割、8割、「いいやもってけ、ドロボー」ということに相成りまして、とにかく楽しい一日でした。
 そ、そう、編集室の美女「ナナちゃん」に会えて大満足でした。
 (港北区日吉・会社員・佐藤正明・34歳)






 自分のお要らないものも、誰かにとっては必要なもの。安く売っても十分使ってくれる人の手に渡るのはいいことです。佐藤さんちのご主人のように皆さんも参加してみて!
 あの節は奈々子がお世話になりました。あのようにまだ役に立たない女性ですが、よろしく
! 
(その1歳半の子持ち・高橋かすみ)

  

    『とうよこ沿線』のおかげで家内が元気に…

  家内が女性の宿命ともいうべき“不定愁訴”に悩まされるようになってから1年半になります。それまではこれといった病気をしたこともなく、明るい性格で家事が得意。旅行、デパート巡りが大好き。誰とでも仲良くなる。園芸が好きで麻雀狂(徹満OK)……。

 それが心臓がどきどきし、不安感でいてもたってもいられない。人と会いたくない。話もしたくない。麻雀も全然やりたくない。昼寝などしたことないのに朝からゴロゴロ寝てばかり。食欲は減退。体重も5キロも減るなどかなりの重症となりました。
 その間、病院を変えたり漢方に頼ったり、新聞・テレビ・雑誌・医学書などから情報を収集したり、人伝てに良いと聞かされたことは何でもやってみましたが、実効が上がらず困っておりました。

 そんな折、たまたま私の職場(NTT松見営業所)で手にした『とうよこ沿線』を何気なく読んでいたところ、市川 宝先生の連載、シリーズ「赤ひげ教科書」が目にとまり、不定愁訴に関する先生独自の治療法に何か曙光を見出せるのではないかと家内に読まさせたところ、最初は「綱島までは遠くて…」とためらっていましたが、座しては現状の打開は図れないと決心して市川先生をお訪ねしました。

家内の話によると先生の治療法の特徴は投薬・注射などは極力控えて問診、自己暗示法等により患者のストレスを取り除き、精神の安定を図ることを主体としたものだということです。先生は患者の我がままには絶対に妥協せず厳しい態度で臨まれるとのことですが、その厳しさのなかにも思いやりとユーモア溢れるご指示に家内も次第に全幅の信頼を置くようになり、僅か2カ月でとても元気になりました。麻雀も復活! 但し徹満だけは止めました。

 一家の主婦に寝込まれたら家中が暗くなり、男がいくら威張ってみても家庭の経営は、とてもやり切れるものではありません。家内が元気を取り戻すことができて心から有難く思っております。
 貴誌にお礼を申し上げますと共に、同じような悩みをお持ちの方々に参考になればと思い投稿させていただいた次第です。ありがとうございました。
 (横須賀市武・NTT社員・飯澤洋一)






 本誌との出会いが回復のきっかけになるなんて嬉しい限りです。同じような病気で苦しんでいる方にもぜひ参考に、と飯澤さんの投稿を全文掲載いたしました。
 よかったですね。市川 宝先生もさぞやお喜びのことでしょう。(高橋かすみ)


      趣味人呼び掛け欄を設けて!

   久し振りで渋谷を通ったので『とうよこ沿線』を買いました。来春には50号、10周年とのこと、おめでとうございます。当初、記事のネタ切れになるのでは、と心配していましたが、そういうこともないようで感心しています。

 新企画の提案ですが、「趣味人呼び掛け欄」を設けてはいかがでしょうか。「〜を集めている人乞う連絡」とか「〜の好きな人集まりましよう」といった類です。

 私事で恐宿ですが、私は今、国家公務員(総務庁から大蔵省へ出向中)で平日は仕事ばかりですが、大学時代は東大ピアノの会というサークルでひたすらピアノを弾いていたこともあり、今でも土・日にはピアノにのめり込んでいます。日本アマチュア演奏家協会というのにも加入はしているのですが、是非同じ位のレベルのバイオリンの人を探したいと思っているものの、なかなか見つけられなくて困っているところです。アマチュアのバイオリンの人は弦楽四重奏とかアマオケに入ってしまうようです。たまにはフランクのソナタ位やる気になっていただけると嬉しいのですが……。謝礼付きでプロの方でもいいのですが……。といった内容を載せるのは一案かと思います。
  (練馬区石神井町・国家公務員・山本茂樹・29歳)








  学生時代によく投稿していただいた茂樹さん、ほんとにお久し振りです。
 本誌は行政区域を越え沿線住民同士の交流のはかれる雑誌をめざしていますので、とってもいい案だと思います。「ボイスBOX」あてにお送り下さい。さりげなく山本さんもPRしていますが、一緒に演奏したいと思う方はご連絡下さいね。(高橋かすみ)


      母にも読んで聞かせました

 長い間、学芸大学・都立大学駅を利用して通勤しています。48号を書店で見つけ、学芸大学周辺特集になっていたのですぐ求めました。

昔の写真やイラストによる地図、自宅周辺の名所旧跡のニュース・昔話、面白く拝見しました。76歳の母にも読んで聞かせました。これだけの情報を集めての編集もー苦労だったと思います。貴重な一冊になることでしよう。
 16頁にあるように駅前の自転車放置には困っています。
  (目黒区碑文谷・会社員・菅野誠之・53歳)







学芸大学在住の方やご当地にゆかりの人々から同様なお便りをたくさん頂きました。昔から住んでいる人には懐かしく、若い方にはもっと身近に感じさせる一冊になったようです。
 今は一部スタッフが白楽特集号の編集に連日徹夜で取り組んでいます。今後とも皆さんのご協力をよろしくお願いします。(高橋かすみ)


     地元なのに知らない所が多くて

 初めて『とうよこ沿線』を読ませていただきましたが、私のよく行く「学芸大学とその周辺」の特集だったので、とても楽しかったです。
 特に「ドラマを地でいくボクシング一代」は私の知人があの牛若丸原田さんと義兄弟なので興味深く読みました。
  目黒に住んでいながら、まだ知らない所が多いのでとても参考になり、この本を持って地図を頼りに出掛けてみたくなりました。これからも、ますます素晴らしい編集をしてください。
 (目黒区目黒・主婦・重永洋子・31歳)
























 地元のことでも意外に知らないものですよね。学芸大学の鷹番に住んでいる90歳の山中さんというおじいちゃんは、『とうよこ沿線』のイラストマップを毎号見てはカメラを持ってその特集地をくまなく歩き回ることを趣味のようにしていました。

数年前、この方が編集室にバックナンバーを買いに見えた時、たまたまTBSの美人アナウンサー・三雲孝江さんが私と談笑していて彼女が、
 「そのお歳で電車にも乗らずに学芸大学から編集室まで歩いてこられたのですかぁ、まあ、ホント!」
  すると、この人「“横浜そごう”の開店のときには自宅から編集室の前を通って行きましたからね、ここは半分道ですよ」。
 その健脚ぶりに彼女は驚嘆していましたが、彼も彼女に向かって、
 「もしかして、あのテレビの三雲孝江さんでは?」
  と本人だと知って、びっくり……。

 だいぶ脱線しましたが、歩くことは長寿の源。皆さんも、本誌を片手に沿線を歩きましょう! (岩田忠利)

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る