編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.669 2015.06.03 掲載

 
『とうよこ沿線』No.43…昭和63年(1988)8月15日

 B5判 紙数:72ページ+8ページ分の綴じ込みマップ

 頒布:有料 定価200円
   
  読者と編集室との架け橋
  この「ボイスBOX」は、33号“柳”58頁からの転載です。

    その日の大倉山・終戦秘話!?

  え―っ! ほんとに! 知らなかった!!  えっ一「何が?」ですって。そりゃあんた、樫号の終戦秘話「その日の大倉山」ですよ。現在の大倉山記念館にあのような過去があったとは……。

大倉山の緑が丘幼稚園の園児だった私はあの頃、山全体が遊び場でした。第1、第2公園、くじら公園などでブランコ乗りもしましたが、男の子にとっては何と言っても探検ごっこ≠ノ格好の場所だったのです。ところがその中でもあの記念館(精神文化研究所のこと)だけは恐くて近づくことが出来なかったことを憶えています。
 なぜならば、「あそこにはミイラが住んでいる」「中庭には人骨がたくさん埋まっている」と噂されていたからです。

 今思えば、あの建物の歴史的な重みが独特の、何者も寄せつけないような雰囲気を醸し出していたのでしょう。
 (港北区太尾町・斉藤健・学生・22歳)

    







小さい頃、大倉山梅林へ行った時のこと。華やかなお花見とは対照的にひっそりと立つ建物の雰囲気に、幼いながらも何か重みを感じました。
  女の子と夜の散歩でもしたら「ここは幽霊が出るんだー」「きゃーっ」うまくいけば抱きつかれたりして…。  (五月女恵子)


    内容の濃さに感心しました!

私は日吉でひとり暮らしをしている学生です。『とうよこ沿線』の編集室の前を通りすぎるたびに、がんばっているなあ、と思っていましたが、今回日吉の特集ということで、初めて買ってじっくり読んだのです。内容の濃さに感心しました。今度、バックナンバーを買いに立ち寄るつもりですので、よろしく!
 私は「お茶まんじゅう」が大好きです。おいしい店を教えて!
 (港北区日吉・富永美貴子・学生・22歳)


この富永さんも3月17日付で会員に。聡明な女性で、これからの活躍が期待されるホープです。甘い物がお好きのようですが、そうは見えないスマートな方。ちなみに私は甘い物が好きではないのに最近腹が…。ぜひ今度ひけつを教えて下さい。
 (足立 将)


 

      五十余年の時を超えて…

 懐かしい青春の面影を、御誌を通じて、五十余年ぶりに眺めることが出来、誌上の人名で旧友の健在も知りました。ただただ感激の至りで有難う存じます。
 私は戦地で6年余り過ごし、帰りました時は、横浜は大空襲ですべてのものは灰燼に帰して、写真はもとより、あらゆる記録を失ってしまいました。

 御誌によって、若き日の思い出が走馬燈の様に次々と浮かび上がって参ります。
 (藤沢市藤沢・堀田清一・歯科医)









 昔の写真はその時のドキュメント、再現不可能です。昔の写真を担当する者にとって戦前・戦中の写真探しは横浜大空襲で焼失した家が多く、苦労します。しかし、堀田先生のように感激していただけますと私どもの微力でもお役に立てた、と嬉しく存じます。お便りを励みに、がんばります。(岩田忠利)

 

      地域「日吉」の特殊性

日吉と聞いて、私はまず亡き父を連想しました。父は慶応ボーイで、丸帽にペンの徽章でかなりモテたらしいのです。慶応義塾を愛し、娘の名に一文字をつけた位ですから。80歳まで長生きをした父は、三田や日吉の地へ招待されるのを楽しみにしていました。お伴は昔から私や孫たちと決まっていて、私にとってもなつかしい土地であるのです。

街の歴史のページ。仕事柄よく電話を使うのですが、なぜ日吉は044を廻さねばならないかと疑問に思っていたところでした。日本で初めて自動電話の試験が行なわれ、横浜との合併はそれ以後であったとは……。毎号勉強になるので次はどこだろうと楽しみに待っています。
 (横浜市南区中里・上野慶子・団体職員・59歳)    

 駅の売店の公衆電話にも「市外局番を回してください」と注意書きがあるほど日吉は横浜のはずれ″なのてす。それにしてもスマートな慶応ボ−イは今も昔もモテるのですね。ダサイ私はどうしてもW大派ですから、早慶戦では一気に燃えてしまうのです。(五月女恵子)

    イギリスの田舎からも応援してます!

編集長、ママさん、長い間ご無沙汰しておりまして申し訳ございません。昨年8月にこちらに来て、11月に長女摩耶を出産しました。今やっと育児にも慣れ、元気に主婦しています。

『とうよこ沿線』、とてもなつかしいです。その後発刊は順調でしょうか? スタッフも増えましたか? 近況を是非教えてください。
  慶応大学はラグビーに野球に、ついているようですね。日吉はにぎわってますか?
 ここはロンドンよりさらに300キロ北西の田舎。日本のネオン、パチンコ、東横線、なつかしいです。帰国は来夏と思いますが、遠くながらも応援しております。
 (イングランド・西村 雅)
 


 会員でいらっしゃった当時平井雅さんの西村さん、編集長もママさんももちろん元気に張り切ってますよ。日吉の編集室はいま、タウン誌大賞受賞で盛り上がっています。帰国後のご来室お待ちしています。(五月女恵子)

        延べ2333名が登場の

   編集の音(抜粋)


  は本号から参加した会員です。



桜木町駅前の歩道橋を昇ると必ず日本丸の4本マストを振り返り「見返りのマスト」と名付けています。思えば昭和初期に定期補修で横浜ドッグに入渠した頃の第一世練習船・日本丸も、私も若かった。
(大倉山のもの好き・山室まさ)







41号も42号も多摩川を狭んでいるが、昔は隣村同様の地。千束には代々の親戚もあり懐かしい。洗足池にもよく遊び、維新の英傑を偲んだ。今度の武蔵小山は目蒲線開通当時は一番の繁華街。43号が待たれる。ふと創刊2、3号の座談会の記事を読み返し、沿線の発展に感無量。「早く枇杷(ビワ)号を食べたい。」
(武蔵小杉・小林英男)





東京ドームに初見参。10年前の修学旅行以来で後楽園は跡かたもなかったが、「〇〇県○○中学校の修学旅行の皆さまァー」のアナウンスは昔のまま。
(大倉山・元田舎の中学生・町田久美子)




5月入会、早速43号に掲載できる写真の撮影に取り組みましたが、何分このような企画に参加することは初めてで、暗中模索を続けています。一日も早く協力者の一員になれるよう頑張りますので…。
(上野毛・写真狂・杉村理一)





「花みずき通りと呼ばむ 漸くに我が住む街にも並木植えらる」――昭和28年の定住頃と比べると、街も全くキレイに、そして住みよくなったものだ。
(武蔵小杉・自由人・天笠伝次郎)





武蔵小山商店街に初めて買い物に行った日。「ママ、お山はどこ。早く行こうよー」と泣いた5歳の弟。困りながらも笑う母の顔。今や彼も29歳。母は他界。武蔵小山はちょっと懐かしい街。
(大口・主婦業大好き・石川映子)









学校のウサギが小屋から抜け出し、地中深く穴を掘って出産。人間に甘えず、賢い母さん。しかし息子どもは、買い物袋のサニーレタスと編集室の絨たんが大好き。甘やかしてはいかんな。
(臨時ウサギの母・四手井晶子)








5月5日のチラシ配りの日は暑かった。私の担当は洗足池周辺一帯。日頃車や自動車で中原街道を通りながら池を横目でながめる程度だったが、実際に周囲を歩くと歴史の宝庫でもあった。視点を変えると、思わぬ発見をするものだ。
(綱島・会社員・田中久雄)







自転事で通勤している。時間にして15分。仕事も自転車で得意先まわり。一日中自転車で走りまわっているので、この夏は陽に焼けそう。子供の頃に戻れそうな今年の夏です。
(祐天寺・銀行員・一色隆徳)



(元住吉・石野ひでお)





「白内障の手術を日帰りで」という某紙記事。で、早速531日手術。翌日は見える人達の症例が殆どだが、私の眼は網膜症というおまけが発見されただけ。命の火が消えるまで駄目の目と付き合うしかないとは……。
(編集室・鈴木善子)






自動車学校をやっと卒業。「車はいつ?」と聞かれるけれど、駐車場なしの狭いアパート住まいでは当分無理。駐車場借りるぐらいのお金があったら、もっといいとこへ引っ越したい。いつもこんなことばっか言ってるな。
(日吉・鈴木ゆうこ)






いまお茶の水まで約1時間かけて通勤しているが、その間、結構本が読める。幕末から明治維新に凝っていたが、最近は明治から昭和の激動期が面白い。良し悪しは別としても、戦後の政治家はアメリカに追従ばかりしていてなさけない。
(奥沢・最近またゴルフを始めた・小田房秀)





冷房車の窓が開いていたりすると腹が立つものです。しかし先日車内で窓が開いていたので「何だ非冷房車か」と思い、我慢していると前のおじさん「窓を閉めませんか。これ冷房車ですよ。」
(日吉・学生・大沼慎太郎)






死んだはずのおじゃま虫がまた編集室に現われ、手足をふるわせ、「お願いです、フマキラーだけは撒かないで下さい」と言っていた。『とうよこ沿線』……懐かしいんだもんねー。
(妙蓮寺・会社員・菅間映二)



(日吉・高校生・高橋幸恵)








通学途中、浦和〜北浦和間の線路左側にある看板にドギモを抜かれた。「カンナは男盛」。どうやらカンナとは、木材を削る鉋(かんな)のことらしい。前号の「変」特集以来、変な物につい目がいってしまう。
(都立大学・変な学生・吉野嘉高)







果てしない宇宙の中で出会い、共に同じ時を過ごすハメになった皆様方。これも何かのご縁です。東京は柴又、帝釈天のそばで産湯につかった者でござんす。
(日吉・劇団員・佐藤由美子)






先日、街で階段へ降りる為に手助けを求める車椅子の人に出会った。友人ら4人と勇気を出して手伝ったけれども、すごく重かった。体力のある自分でさえ大変だった。手伝える人がいなかったら、あの人はどうするのかな。
(日吉・学生・藤本秀樹)





うちの近くの新築マンションは、所在地が緑が丘なのに大体「自由が丘」を名乗っている。住宅展示場も「自由が丘住宅公園」だ。自由が丘はどんどん拡大し、見栄・自由が丘も増殖中。それもこれも、自由が丘の街の魅力である。
(緑が丘・漫画家・畑田国男)




はじめまして! 絵(右の絵は自作)とカヌーと幸四郎が大好きです。
よろしく!
(葉山・赤尾直香)















将来大人になって極道息子にでもなったら「親の死に目にも会えない親不幸者になるぞ!」。子どもの頃、親から何度も言い含められた言葉であった。

711日夕方、前橋市の実家から「父、危篤」の電話。続いて翌晩8時、「父、死す」の訃報。が、1カ月遅れの編集に追われる私は、ついに父親の臨終に立ち会うことができなかった。

今年130日夜半に他界した母親のときも、そうだった。「枕元に兄弟や近しい者、みな集まっているから…」との催促の電話を徹夜続きの編集最後の追い込みのときに受けた。どうしても抜け出せなかった。通夜と告別式を済ませ、トンボ返りするのが精一杯だった。

子どもの頃はもちろん、社会人になっても両親には青少年時代よりも手を焼かせた私だった。なのに、その両親の死に目にも会えないとは……。
 ああ、私は、あの天下の極道者を自認する安部譲二さんと肩を並べるほどになってしまったのだろうか。
 (本会代表・編集長・岩田忠利)

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