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「老い妻の髪へかかりし花びらは 告げず帰らん花見のしるしと」――等々力緑地公園での一首。今年は古稀の年、好天にも恵まれていて良いお花見でした。
(武蔵小杉・自由人・天笠伝次郎)
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歴史といえば今まで貴族とか指導者の歴史しかなかったような気がする。だけど数からいえば我々庶民の方が絶対的に多い。その庶民の歴史があってもよいと思う。だから町並の再現など、どうかしら?
(菊名・元NTT(旧電電公社職員)・本田芳治)
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カラオケが巷の酒場で普及してから随分と久しい、歌わずにいられないというところだが、昔の御仁には一体どのようにして時間をつぶしていたのか。今のノンベイは、不器用かつ無粋かもしれない。
(自由が丘・会社員・西野裕久)
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「お元気ですね」と言われて「オツリで生きているようなもの」と答えましたら「平均寿命は延びましたよ」とのこと。平均年齢80歳ならアト5年きり無いわ。そう考えるとイヤーな気持ち。人間って勝手ね。
(大倉山のもの好き・山室まさ)
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実は私、東横線住民じゃないんです。それに東横線よりも国鉄の夜行列車が好きなんです。もういいじゃありませんか。国鉄民営化に涙した、あなたはだあれ。それはわたし。
(横須賀線・新川崎・関口浩太)
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取材、原稿書き、レイアウト、早く仕上げなくっちゃ学校の課題の方もたまってることだし……何からはじめようかと考えだすと手も足も出ないダルマのような私。
(池尻大橋・出もどり学生・黒田直子)
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初めて友人が死んだ。交通事故だった。連絡を受けた時、驚きと悲しみが同時に襲ってきたけど涙が出なかった。人の命ってなんとは儚いんだろう。彼女は今雲の上で何を思っているのだろうか。私はただただボーッとしているだけだった。
(元住吉・OL・井道由美)
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社会に出て身にしみているのが時間の大切さ。業務において迅速な対応・行動を要求されることは言うまでもないが、それ以上にプライベートな時間を作りだすのは難しい。要努力。
(祐天寺・そろばん苦手な銀行員・一色隆徳)
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イラスト 石野英夫 |
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祐天寺の境内を通ることが日課となり2年。その度に、何かすっーと落ち着きます。折々の風景を楽しみ、時には「無」の境地でたたずみ……。そして足速に駅へ急ぐ。今日も時間と闘いながら。
(祐天寺・会社員・若林幸雄)
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あのときこうすれば…と後悔することもあるけれど、あのときこうしたから良かったということも、たくさんあった。後で自分がどう思うかなんてわからない。その時々で納得できるようにやっていくしかないのかしら。(日吉・夏は嫌い・鈴木ゆうこ)
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一つのきっかけで、人生の方向がちょっとずれたような気がする。毎日の続きの今日だけど、そのきっかけは、いつ訪れるかわからないもの。意外なところにそのきっかけがころがっていたりして。
(向河原・会社員・斉藤かすみ)
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男としてでなく、女としてでなく、人間として人を愛し、大切にしていきたい。『とうよこ沿線』の人の「和」「輪」大切にしていきたいと思います。末長く、皆様、よろしく。
(日吉・主婦・田代洋子)
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桜の花咲く中での心弾むクロス配りでしたが、某宅で犬に吠えられ、身動きできずに泣きべそをかきました。そこで在原業平の歌にちなんで。
「富士塚に犬飼う家のなかりせば クロス配りはのどけからまし」
(妙蓮寺・嫌犬権を作りたい学生・五月女恵子)
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距離が一番近いのは西武線野方駅、徒歩6分。が、所沢に行くときは徒歩8分の同都立家政駅を利用し、吉祥寺方面は自転車8分の高円寺駅、渋谷方面のときは自転車10分の中野駅から乗ります。こんな我が家の最寄り駅は?
(高2・高橋園子)
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先日、山下公園に用事がありました。公園内は青空の下、花壇展が開催され、見事な光景でした。ここが、大晦日から元旦にかけて、編集室の若い人と、渋谷から徒歩で踏破した終着点だったと感慨を新たにしました。
(緑が丘・阿部信彦)
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この時期、初めて日本の梅雨を迎える前の不安を思い出す。ノアの大洪水なみだと思っていたのです。今は、梅雨の魅力がわかってきました。それに、最近の雨具はカラフルで、傘の花の咲きっぶりもー段とあざやかです。
(日吉・仏語教師・アルメル・マンジュノ)
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創立7周年記念に当たり
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昭和55年2月の節分の翌日のことでした。仲間と熱海伊豆山に泊まり、帰りの電車の中で友人・石川 浩君(白楽在住)が「何か新しいことをやってみたいが……」と私に相談を持ちかけたのです。私はとっさに「これからは情報化時代。それもマスコミにはない身近な情報がきっと重要になってくるよ」と偉そうに話したものでした。
せっかちな私は、彼をそのまま日吉の自宅まで連れてきて、また地域情報の必要性を説いたのです。
離職し浪人中だった彼と本業の合い間をみつけて動く私は、以来2カ月ほど創立準備に奔走しました。
苦戦する仲間集め
まず最初に直面した問題は、“仲間集め”でした。沿線に住む私の知人宅を回っては雑誌発行の趣旨説明。こちらが熱心に話せば話すほど相手は私が理想主義者と見えるらしく、「その理想はよくわかる。しかし現実は厳しいよ。資金のメドがついていないのなら、どうせ長続きはしない。1号か2号、身銭叩いて本を出すのが関の山。今から止めた方がいいよ」。説得に行ったつもりが説得されて帰る始末。他の知人のもとへ行っても、殆どが体良(ていよ)く断わるのです。こんな屈辱の連続、理想と現実の狭間に焦燥し悶々としていました。
功を奏した新聞折り込み
しかし私には微かな信念と情熱がありました。「この広い世の中、一人や二人、私の雑誌発行の趣旨を理解してくれる人がきっといるはずだ!」。
苦肉の策として私が考えだしたのは、私の意見を活字にしたチラシをつくって新聞折込み広告……。何事も実行してみることですね。これが大成功――参加したい、応援したい、さまざまな反響に仕掛人の当方がびっくりするほど。医師、商店街役員、とび職の頭、会社役員、町内会長、サラリーマン、主婦、学生、定年退職者らが続々と……。これで一挙に30名を超える仲間が集まった。
6時間に及ぶ発起人会
ついに、陣容が揃い、昭和55年4月1日、発起人会を開くことに……。
賛同者19名が出席し、延々6時間に及ぶ活発な議論の末、本会名を「東横沿線を語る会」とし、誌名は『とうよこ沿線』、編集方針は「政治・宗教には中立。東京・川崎・横浜の行政の枠を超え、沿線住民のための住民参加型雑誌をめざす」、さらに発行周期などを決め、いよいよ念願のスタートを切ったのでした。
早いものであれから、もう7年――。その間、38号発行に至るまで参加した沿線住民の皆さんも延べ300名を超えました。
編集室は、まさに“人間波止場”
会員各人が余暇をみつけては、編集室に昼夜集まり取材・編集・広告募集・配本に、と額に汗して活動してくださいました。その会員さんの中にも、受験・就職・転職・移転・病気・恋愛・結婚・出産・育児など各人各様の一身上の都合で編集室をあとにした人も多い。
またその数に増して入会者も。ここ編集室は、まさに入船出船で賑わう“人間波止場”のようです。それだけに、実にい・ろ・い・ろ・な悲喜こもごものことが起きたり、あったり、それはもうテンヤワンヤの日々……。
これはあたかもドラマのようでした。昭和55年4月1日、その日は長編ドラマの開幕日でした。
「東横沿線を語る会」代表 岩田忠利
綱島街道を自転車で飛び回る
7年前の春、岩田が本を出すという。「資金は?」と訊くと「無いッ」にびっくり。自転車に乗って日吉に、それから元住吉や小杉に、さらに綱島に、と綱島街道を走り回り、無差別に商店・会社に飛び込んで広告のお願い……。資料は掲載された新聞記事だけ。いま思うと無茶でしたねえ。
それが悲劇の始まりで7年間やっています。
本誌編集次長 鈴木善子
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