編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.649 2015.05.21 掲載 

 
『とうよこ沿線』No.23…昭和59年(1984)7月1日

 B5判 紙数:76ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…
 
 鮎で有名な広島県油木町の出身で
24歳。数か月前から人が変わったように積極人間になり、広告・本誌普及に活躍中。純朴さ、誠実さがとこへ行っても歓迎される。
 コンピューター会社の残業後、編集室に現れることから“夜の男”の異名をとる。

    

    私の文化的余暇活用法

         プログラマー  小田房秀(二子玉川園

 田園調布の店先でユニークな表紙にひかれてふと手にしたのが『とうよこ沿線』。後記に相当する「編集ノート」のページに「白い扉を開けると……」と誰かが書いていた。私も興味をひかれ、編集室を一度どうしても訪ねてみたくなった。

やっと辿り着き、いざドアを開けた時はさすがに勇気がいった。中に入り編集長にこの本の内容をいろいろと話して頂き、どれも新鮮な感動であった。私の仕事はコンピューター関係で本作りのことは何も知らなくて、本が出来るまでの作業、取材・編集・レイアウト・写真・広告募集・配本など、どれひとつをとってみても初めて聞くことばかり……。

 私の本格的な活動は今年1月、車を買ってからである。まず手始めは配本。本を販売してもらっているお店に新しい本を届けに行く。喫茶店、お医者さん、レストランなどいろんな業種の所に置いてあるから社会勉強になって面白い。

そのつぎが取材。見ず知らずの人の所に行っては、相手の話をいろいろ聞き出す。これが大変な仕事で自分ですら何を喋っているのかわからない。「結局、キミは何が言いたいんだァ」と、くる。

こうした失敗を繰り返しながら1年、マルチ・ライフワークとしてこの『とうよこ沿線』に若き日の想い出を残してみたい。



 岡山出身。高校時代は新聞部で活躍、結婚前は、大阪のファッション専門商社でカタログ・広告の制作者だったキャリアウーマン。特技に書道・ピアノ、趣味に水上スキーという動静あわせ持つ陽気な奥様。
 本誌では「私の街のベスト店」に健筆。

 

     

       わが子のふるさと


     主婦  福原 のぶ子(日吉


今冬の寒波のせいで、北国にも似て、急激におしよせた春の訪れのあとは、一気に夏の趣。自然の花や木々も、いっせいに芽ぶき、まさに百花繚乱。近所の住宅街を子連れで散策しながら、「日吉の花」を存分に楽しんでいます。

 日吉に移り住み1年、生後5か月だった娘も上手に歩けるほどに成長し、最近また純粋の日吉っ子≠ェ誕生しました。偶然、本誌「艶腺漫遊記」でおなじみのアルメルさんと同じマンションであったことから、引越して間もないある日、彼女と一緒に編集室を訪れたのが始まりでした。

 以前、貿易関係の職場で働き、しかも多少、SP部門の仕事にも携わっていたため、岩田編集長がこのコミュニティー誌にご自分の夢と想いを託し、地域文化を育てるために奔走していらっしゃる体験談は、編集の苦労話をも含めてとても興味深いものでした。さらに、本誌の内容の幅広さ、会員の方々の層の厚さにも驚いたことを覚えています。

 これからも『とうよこ沿線』を通して、2児にとっては将来、ふるさとにもなるこの土地や人をもっと知り、私自身は生活者としてこの地にさらに深く、広くかかわってゆけたらと思っています。

世田谷区立奥沢中学3年、14歳。あだ名は「イソッペ」。仲間評は「ひょうきんでバカ騒ぎが好き」。たしかにイタズラっ子だが、熱帯行が趣味で動物好きだけあって友人が多い。
 行動に持続性が出れば将来の逸材になろう。
 
         

   

       再入会したボク

   世田谷区立奥沢中学3年  磯野 猛(奥沢


 

僕がこの『とうよこ沿線』と出合ったのは、小学校6年の時。すでに入会していたへンな友達がいて、この会のことをくわしく話してくれました。僕は、即入会。

 それからは毎日のように取材先をさがし、僕の記事が初めて7号にのった時は、もう感動でした。気をよくした僕は、鼓笛隊や野球チームの取材などもしました。何といっても一番印象深く残っていることは、元住吉の商店街でひらかれた第1回移動編集室。黒山の人だかりのする所でタタキ売りや舞台の上で校歌を歌ったことです。

 思い出せばいろんなことがありました。しかし中学1年になると、他のことに興味をもち出し、だんだん『とうよこ沿線』から遠ざかってしまい、とうとうやめてしまいました。

 そしてまた、2年ぶりに編集室を訪ねてみると、びっくり。知らない会員の人達がいっぱいいるのです。そして久しぶりの編集室は、2年前と少しも変わっていない。あの頃のことがなつかしくなった僕は再入会しました。

 今は、りっぱな会員証もできました。編集室も、東横線の電車がよく見える2階の広い場所に移りました。
 ここで僕は、学校では体験できないことをたくさん身につけるようにがんばりたいと思います。みなさん、ヨ・ロ・シ・ク!


          延べ2333名登場の

   編集の音(抜粋)

    は本号から参加した会員です。



なかなか信じてもらえないけど、まだ19歳・未成年デス。「よっしゃ、未成年パワーだ!」と意気込んではみたけれど、「タマリバー」など14ページの担当で、見事に玉砕……。
(なんたって祐天寺・大学生・一色隆徳)





21号の檜号からスタートの「縁線で愛コーナー」で、早くも間もなくアツアツのカップル誕生の気配。編集室に居ても何だか出雲の神様の出店に居るようで、全くいい気分!!
(武蔵小杉・自由人・天笠伝次郎)






4周年記念号は広告面でも記念号であった。アルメル夫妻が広告取りに奔走したり、新人・斉藤嬢が頑張ったり、72歳の乙女・山室嬢が40数軒の広告を集める大活躍。4年にして初めて会員の手で雑誌ができた、そんな実感……。
(編集室・ママ)




『とうよこ沿線』に入って早いものでもう20時間、いろんな事がありました。不意の雨に打たれての配本、夜1時に及ぶ編集会議!? 前途多難、未熟者ではありますが、若さでこれからがんばります。
(大森・都立南高3年・福田智之)





「私の街のベスト店』や『沿線のタマ・リバー(溜り場)』の取材に追われ、家に帰れば「仕事を手伝え」と言われるし……。アルバイトにも行きたいなあ。はて、本業はどこへ行ったのだろうか?
(武蔵小杉・まだ学生・戸次政明)





この場をかりて一言いいたい。私は女子大生でも、勤め人でも、ましてや主婦でもありません。まだ14歳で中学生です。なのに、どこへ行っても信じてもらえません。どうしてなんでしょう……。
(白楽・中学生らしい中学生・山影昌子)





編集室の大きな窓に、乗客のまばらな電車が右に左に。ぼんやり眺めながら「あの電車に乗って、どこか遠くへ……」なんて、夢を追ってばかりいては、暑い屋外で取材をしている人に申し訳ありませんわね。
(大倉山・主婦・長谷川千恵子)





今日も途中下車。車窓から見える景色の中で一点に目を奪われる。変わった建物や森・人などを求めてアッチコッチ。今までになかった面白味のある沿線スケッチを残しておきたい。
(都立大学・会社役員・小菅秀郎)




30歳をとっくに過ぎてしまったのですが、いまだ独身でいます。ときどき「もうこのまま結婚できないのでは…」と考えると愕然とします。なんとかせねばと、あせっています。
(元住吉・カメラマン・出口道和)





HANO−のコンサートに行ってきました。ふっふっ、何をかくそう私はミーハー少女です。ミーハーのどこが悪いんだあ、と叫びたい今日このごろの私です。
(白楽・神奈川中3年・鈴木公美)




昼休みの楽しみといえば、なんといってもバドミントン。もう2年も続いておりシャトルの飛びかう速さは何百キロ? 終わった後はビールを飲みたい気分となりますが、シャワーを浴びてスッキリ!
(矢口渡・会社員・江原行雄)





入会して初めて取材をやった。最初は怪訝そうな顔をするが、趣旨が分かると快く協力していただける。『とうよこ沿線』はほとんどの方が知っていた。やはり伸びているのだな、と思う。
(元住吉・石野ひでお)





初めての仕事は、「映画フアン招待コーナー」。120文字足らずで一つの映画を紹介するのは、むずかしいですね。文章を書くことにかけては、人一倍時間がかかる私ですが一生懸命やります。
(二子玉川園・SE・奈良貴志)





今流行の襟巻トカゲ。本当に滑稽だと笑っていた私。ふと気がついたら、彼らは、命をかけて逃げている姿なのですよネ。後は何ともいえぬ気持ちが残りました。人間でもこういう姿ってあるでしょう?
(学芸大学・主婦・小池康子)






獅子の子は幼くして千尋の谷に落とされる。わが誌も何回か奈落の底に落ちかけたが、何とか這い上り満4年を迎えた。ロク二、ヨサンナイ(電話624371)は、早くふさわしい電話番号に替えたいものだ。
(反町・会社員・山下二三雄)




まだ、東横沿線に住んではいないのですが、近々引越しの予定であります。そこで「始めまして」のあいさつがわりにこの文を書いてます。何事も乞うご期待の21歳、がんばります。
(日吉(予定)・会社員・福井 勉)




太陽の季節“夏”がやって来ました。今年は素肌を小麦色に焼いて健康美人になろうとハリキッテいます。陰で「シミ・ソバカスに御用心」なんて言わないで! 本人が一番気にしているんだから!
(自称菊名小町・斉藤敦子)






白楽駅構内にWCが無い。駅員用のはあるという。高架工事より、WCの方が先だと思う。駅の外にも公衆WCが無いようだ。訊ね訊ねてやっとたどりついたのは仲見世の中、その汚ないこと、手洗も無い。急に全商品が不潔に感じた。
(都立大学・随筆家・前川正男)




今回、初めて配本の手伝いをさせてもらいました。結構クタビレルもんですね。皆さんの苦労が少しわかったような気がします。これからも若さにものをいわせガンバルぞー!
(綱島・建築業・加藤 清)





夢喰う虫は毎日夢を食べては鳴くのです。私の夢はね、私の夢はね…″。毎日違う夢を鳴く時、彼女は一番幸せなのでした。夢を食べ続けた彼女は死ぬまで幸せでした……可能性を楽しんでる今がやっぱり好き。
(田園調布・大4・中島雅子)





「編集ノート」原稿取り立て役がすっかり身についてしまった私。でも最近編集室にもごぶさたなので、そんな大それた役などできないと躊躇していたら、私じゃないとスゴミがないって。思わずうれしくなりました。
(日吉・会社員・久保島紀子)





友人の結婚式。披露宴の席で新郎新婦の生い立ちのスライド上映がありました。中学時代、ツッパリ少年であったのが、現在中学の先生として生徒の生活指導をしている!? ああ、私もツッパレばよかった。
(日吉・会社員・山田光雄)




まったく梅雨らしい天候になりました。今年の冬もめいっぱい冬らしかったし、夏もきっと夏らしく、ひたすら暑い日が続くのでしょう。それなら私も私らしく、素直に謙虚に生きてみたいと思うのです。
(妙蓮寺・公務員・込宮紀子)


   

           大忙し4周年

  (大倉山・大学生・桑原芳哉) 


  この原稿を書くために、いま編集室で<バックナンバー綴り>を開いています。
 前に自分が書いた文章を読んではニヤニヤ、人の書いた文や、顔写真を見てはクスクス。早く原稿を仕上げなきゃいけないのに、右手はえびせん≠ヨ、左手はバックナンバーのページヘ。でも、こうやって綴られた本の中に、自分の名前があるなんて、考えてみると夢みたいなことです。

 思えば4年前、大学にはいって3カ月、「夏休みには北海道に行こう」と思い、ガイドブックを買おうとのぞいた菊名の書店で見かけたのが、『とうよこ沿線』の創刊号でした。カウンターに20冊ほど積まれた本の下には「無料です ご自由にどうぞ」。ほんとにいいのかな−と思いながら手を出した――これがこの雑誌との出合いでした。

 それから9カ月、第4号椿≠ワでは一読者として関わっていたものが、なんと第5号橘≠ノ写真入りで華々しくデビュー。
  以来3年とすこし、「夜、家にいなけりゃ編集室」という生活が続いています。大学の友人も編集室の電話番号を覚えたり…。

 それにしても、『とうよこ沿線』が生まれて4年、僕が関わるようになって3年とすこし、月並みですが「早かったなあ」と思います。とにかく編集室で仕事をしていると、月日のたつのが早いこと早いこと。それだけ、忙しい毎日だったということでしょう。

 これから5周年、6周年、そして10周年、待てばやって来るものでは、けっしてありません。この4周年のように、忙しい中で、あっという間に迎えられればいいな、と思っているのです。

 創刊4周年

編集雑感

                    
     本当を言うと…
     
「東横沿線を語る会」代表・本誌編集長 岩田忠利



          投げかける言葉「3つのタイプ」

 正月の三が日を除くと殆ど毎日、取材や広告のことで東横沿線を飛び歩く。すると訪ねた先できまって私に投げかける言葉がある。話の内容はだいたい「3つのタイプ」に分けられる。

一つは「ところで岩田さん、本業は何ですか」とくる。『とうよこ沿線』が私の本業の片手間で生まれると思っているタイプである。

二つ目は「大変なコトですね、ご苦労さまです」。取材先や広告提供先のみなさんが雑誌づくりの現状がある程度わかり、その労苦に同情してくれるタイプ。

三つ目は「楽しそうですね、私もそういうコトができたらねえ」。雑誌づくりの楽しそうな一面のみを見て、羨望の眼でみるタイプ。

この沿線では地域雑誌は数少ない。こういった類の雑誌をつくる人間は、よほどヒマ人か、よほど道楽者とでも観ているのだろうか。

          地味で根気がいる編集作業

1のタイプ「本業は」の質問のご仁は、大抵活字とは縁遠い人が多い。雑誌や本は読むがこれを作ることの経験がない人たち。無理はない。私もそうだった。雑誌を継続して発行するにはどれほどのエネルギーが必要で、どれほどの時間を要するか……、ホントのこといえばこの雑誌発行の言い出しっぺになるまで本人の私すら、知らなかった。

当編集室の古手の会員の中にも原稿を書いて持ち込めば、それを印刷屋さんが適当に活字に組んで雑誌にすると思っているのだ。
 雑誌作りとは、本当は地味で根気のいる仕事である。編集のデスクワークはとくにそうだ。なかなか書いてくれない執筆者に“心を鬼にして”何度も何度も原稿の催促を電話や自宅訪問で行うのである。原稿が来れば一文字一文字を数えて白紙のレイアウト用紙に1行に何文字並べてページを組むか、それに写真やイラストを配していかに読者が見やすく、楽しく読んでもらうかを設計する。ただ、写真やイラストが揃っていなければそれもできない。遅れている場合はカメラマンや絵を描く人にも催促するのだ。
 表紙の裏表
4ページと広告誌面を含めた本文72ページが全部揃うまで、編集室はまさに戦場≠ニなる。

出稿してほっとする間もなく、枚正刷りが届く。初校、再校、3校と編集室と印刷所の間を原稿が3往復する。その間、カラー誌面の色校正、そして最終の製版作業のチェックである青焼き校正、あわせて5種類の校正作業がある。それが終わって、ようやく印刷工程の輪転機にかけられるのである。

                   

              自前の販売網づくりと配本

 地域雑誌がマスコミ雑誌と異なるのは、配本まで編集室スタッフがしなければならない点にある。出版物を書店などの小売業者に卸す取次業者は巨大な全国組織であって、狭い一定地域を対象とした地域雑誌などは相手にしないのである。

『とうよこ沿線』を置いてくれる店や施設を一軒一軒訪ね歩いて本誌発行の趣旨を説明する販売協力店探しも自助努力。無料配布の3号まではその労力が不要だったが、有料となるとその販売網を自前で構築しなければならない。 昼間は取材や広告営業に回り、その開拓作業は夜間。夕食後、義母・鈴木善子と毎晩地域を決めて書店・喫茶店・レストラン・スーパー・クリーニング店などを回って協力を頼み歩くのである。そして発行の都度そこへ雑誌を届けるのだが、わずかな代金でもその場で清算する仕事(納品書・請求書・領収書の作成と新刊のポスター貼り)があるのである。

本誌の配本先は、販売店・協賛店(6月現在800軒)、広告提供先、誌面登場者、グリーンメンバーのみなさんのお宅まで配本するので、その数は合わせて1500軒を超える。
  トラックに積まれた『とうよこ沿線』、これが納品になると、またもやハチの巣をつっついたような騒ぎに……。会員各人の担当配布地域は渋谷〜横浜元町・伊勢佐木町の間の東横線地域、溝の口〜鹿島田の南武線沿線、二子玉川園〜旗の台の大井町線沿線、大口〜長津田の横浜線沿線……と配本エリアはかなり広範囲である。会員はそれらの各地域のうち、土地カンのある地域と担当が決まっている。
 会員は納品の知らせを受けると、一斉に車で編集室へ。綱島街道端の編集室前には車がずらーっと並ぶ。そして、二人一組でそれぞれに上記の“配本七つ道具”を持って各担当地域へ出発する。

 これらの業務を2カ月に1回ずつ反復するのであるが、私の仕事はこれ以外に入会希望者との面談、来客の応対、資金源である広告集めなどの重要な仕事が待っている。

創刊23号までは本業の経営診断や執筆もやっていたが、有料にした4号からは盆も正月もない始末。カネもヒマもない私に「一年一度くらい旅行に連れてって」と家族にセッツかれるのが、なによりつらい。

       楽しい取材と愉快な仲間

 つぎに2つ目のタイプ「大変なコト」と3つ目のタイプ「楽しそう」が、たしかにどちらも当たっている。
この仕事ほど楽しいこと、苦しいこと、苦楽相反する要素が重なりあっているものはない、と手前味噌に解釈している。

 楽しいことといえば、まず取材そのもの。つぎに雑誌ができたときの喜びもさることながら、取材や編集活動の中で出会うスバラシイ人たちと知り合いになることだ。ちなみに私は、一冊の『とうよこ沿線』を出すたびに2箱の名刺が空になる。少くとも200名の人に出会うことになる。無名、有名、さまざまな職業の人たち……。
 この人たちの会社や商店、そして自宅に押しかける。その言葉や態度が万巻の書を読むより生きた勉強になる。
また編集室に帰ると、いろーんな個性をもった編集スタッフの連中がつぎつぎやってくる。東京から、川崎から、横浜から。最近は名古屋、新潟、埼玉からも。小学生会員だった中学
3年生から満82歳、私の両親・祖父に相当する
年代の人まで100数名。職業や社会的地位がマチマチなので、いろんな話題が飛び交い、固くなった40代のオツムを軟かくしてくれる。

 この連中は、ふしぎにみな共通項をもっている。例外もあるが、私を筆頭に大半がどこか、一か所抜けている。これがあまりにも顕著な最大公約数で、いま編集室ではスタッフの粗忽さを競う「どじコンテスト」なるものを、まじめに実施している。
 関心のある方、自信のある方は、編集室備え付けの「記楽帳」を読むといい。正式な審査基準を設け、「だれがいつ、どこで、どんなへマをやりでかしたか」克明に記されている。

以下の共通項は偽善的に聞えるかも知れないが、よく言えば好奇心、悪くいえば野次馬根性旺盛にして向上心あり。意志薄弱にして持続性なし、話好きにして論理性なし、といったら「それは編集長だ」と、きっと彼らはなじるだろう……。

外に内にこうした、きのうまで知らなかった人たちと言葉を交わし、親しくなることは、何より楽しく、明日の鋭気となるのだ。

        

              濁流上の一本橋

 間題は「苦しいこと」である。これは、ただただ、編集室の台所をまかなう資金づくり≠セ。
その資金といっても各号発行するに必要な最低限の経費が捻出できなければ発行はその号でストップ、次号発行は望めない。『とうよこ沿線』は廃刊、ツブれざるを得ないのである。

経費には印刷費・家賃・電話・電気・水道・ガス・ガソリン代・人件費などもろもろのものがあるが、最も重要な経費項目は印刷所に支払う印刷費。この印刷費が滞ると、印刷所は次号の印刷を拒否してしまうのだ。

 この経費を賄うのは、広告代と雑誌の売り上げ。ただし雑誌売り上げは1冊の定価200円、そのうち50円を販売店手数料と配本担当会員にガソリン代・食事代を支払うと消えてしまうので、当てにならない。経費にそっくり充当できるのは広告代金ということになる。

広告営業の経験者なんて一人もいない。みなズブの素人ばかり。それでも最近、フランス人のアルメルさんをはじめ数名のスタッフが「編集長とママさんだけを苦しめさせるわけにはいきません。私たちも……」と本号から大倉山の商店街を広告集めに歩いてくれた。

実際、22号までの雑誌づくりの資金と諸経費は、60代の義母・鈴木善子と私が毎号走り回り、なんとかやりくりしてやってきた。毎号ゼロからのスタート、これはまさに濁流の川に丸太一本をかけて恐る恐る渡るようなもの。一歩足を滑らせれば濁流に飲まれる……。
 そんな危険なときは、東の空が白々と明るくなるまで一睡もできない。布団の上でアグラをかき、明日はどこへ行き、どうすべきか……危機脱出の策を必死で練ったものである。

 紆余曲折の創刊4周年……。最近ようやく、沿線の皆さまにも、スタッフの諸君にも『とうよこ沿線』の存在と現状を徐徐にご理解いただけるようになった。将来に光明が見えてきたような気がする。その証拠に、私はしばらく布団の上でアグラをかいていないのである。

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