編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.637 2015.05.14 掲載

 
『とうよこ沿線』No.11…昭和57年(1982)5月1日

 B5判 紙数:92ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…


          
素晴らしい若返り法

         
広告代理業  井上 幹(大倉山


 

3年ほど前、今は編集長となっている岩田さんが、広告営業マンを求めているということを何かで知って、日吉のお宅をお訪ねしたことがあった。そのときは、いろいろと条件があわずこのことは実を結ばなかった。けれども、この時鈴木善子さんにもお会いして、健康法や、趣味などを話し合った。これが私と岩田編集長、鈴木善子さんとの最初の出会いであった。

 それからしばらくして、一昨年7月頃、新聞で「東横沿線を語る会・岩田忠利」と書かれた記事を読み、懐かしく思い、さっそく電話。嬉しいことに私のことを覚えてくださった。それ以来、大したことはできないが、編集のお手伝いをさせていただいている次第。

 編集室には小学校6年生から80歳以上まで、男女さまざまな分野の方が出入りしていて興味津々である。私も明治生まれであるが、お荷物にならないよう、せいぜい頑張るつもりである。
 編集員として文章を発表する場や、有名人を取材訪問するチャンスも与えられ、また大勢の毛色の変わった方々とお付き合いすることもでき、素晴らしい若返り法と心得ている。

毎号戴く雑誌は家内の婦人会の友人、私の詩吟の友に差し上げているが、どなたにも大変喜ばれている。



      

           白いドアの向こう

              エディトリアル・デザイナー  皆川 祐美子
(菊名)



 

 「参加して」に、編集室の白いドアのことが書いてあるのを見かけます。「白いドア」と美しく表現してありますが、純白でキズーつないというほど綺麗なドアでもありません。
  実際は、シールなどが貼り付けてある、ちょっと黄ばんだドアです。編集室に入るには、この白いドアを必ず開けなくてはいけません。新顔だろうと、昔からの人だろうと、白いドァは関所のごとく、編集室の前に立ちふさがっています。

 私が初めてこのドアと対面したのは、8カ月ぐらい前のことです。「何か役に立つだろう」そんな軽い気持ちで、白いドアの前に立ちました。深呼吸して、ノブに手を掛けたとき、新しい何かが始まるのを感じました。それが何なのかは、答えが出ません。たぶん、最後までわからないままでしょうが……。

 ラベルのないカンヅメのように、編集室の中もドアを開けてみないことには、中身はわかりません。フタを開けて、「おいしそう」とか「なーんだ」と思うものです。食べずぎらいのあなた、ほんのちょっとの好奇心でいいから、白いドアを開けてみませんか。きっと気に入ると思います。

 今日、白いドアの向こうに立ち、深呼吸をしているあなたの姿を、私は楽しみにしています。
 編集室にいる人間は、バラエティに富み、どんな性格の方が来ても、それなりに対応できます。「話が合わない。ちょっと…‥」なんてことは、決してありません。安心して参加して下さいね。



         思い立ったら、即どうぞ

学生  有田 智子(田園調布)


 

 「出会いはいつでも、偶然の風の中‥・」なんて言うと、ずいぶんカッコ良く聞こえますが、私と『とうよこ沿線』との出合いは、実際はたまたま立ち寄った書店で手にした本誌に、弟の出身校が「わが母校」として取りあげられており、「フ−ン、じゃあ、まっ、いっちょ買っで帰るか」といったくらいのものだったんです。

 しかし、偶然とは恐ろしいもの。その頃私は「編集室」というものを見たくてしょうがない時期でした。そんな矢先に「移動編集室公開」のお知らせ。「行くっきゃない」と決心するまで、ものの1秒とかからなかったのは、私の性格なのでしょうか。

 そうこうして行った移動編集室は、編集室というより本誌の即売会という感じ。おまけに小学生から主婦まで幅広いスタッフ陣。見学に行ったはずの私が、気づいた時には会員名簿に署名していたというそそっかしさ。それを「決断力が早いことはいいことだ」とむりやり自分自身納得させました。

 あれから半年。号を重ねるごとに数多くの想い出ができました。初めて行った編集室で、着くなり2時間も校正をやったこと、「わが母校」で私の母校をとりあげたこと、ここで出会って別れた人、などなど……。 

 取材・編集という一見華やかに見える仕事の裏で地道に努力を続けるスタッフ。小さな協力を惜しまない地域の人々。そんな人々の熱い想いがこの『とうよこ沿線』の中にはこめられています。
 『とうよこ沿線』が好きなあなた、心からご来室をお待ちしています。

掲載される自分の原稿

    
                 団体職員  
伊奈 利夫
(桜木町)

 

 私と「とうよこ沿線』とのおつきあいは、第4号椿≠ゥらでした。
 もちろん最初は買ったのではなく、知人から貰ったのがきっかけでした。当時、レタリングを習っていて、某雑誌にも手を出していたので、タウン誌的な雑誌に大変興味があったのです。
 私は新聞でも雑誌でも最初に目がいくのはタイトルやカットで、『とうよこ沿線』も例外ではなく、各記事のタイトル・カット類に、いくらか私の割り込める余地がありそう。さっそく編集室宛に売り込みの手紙を書き『とうよこ沿線』とのおつきあいが始まりました。

 手作り雑誌の良さで自由に原稿が書けますが、それがそのまま雑誌に載るのでおろそかにはできません。雑誌に載った自分の原稿を見て、「ああすればよかった、こうすればよかった」と反省の連続です。私も今に、この雑誌で勉強して、記事の持つ雰囲気を壊さないようなタイトル文字をデザインできるようになりたいと思っています。

 『とうよこ沿線』を読んで、誌面作りに参加したいと思ったら、誰でもその時がチャンスです。きっと、もっと早く参加していればよかったと思うに違いありません。
 編集室には老若男女が昼夜を問わず集まっています。このような、異様(?)な雰囲気はほかでは味わえません。
最近、編集室のドアの締まりが悪いのも、少しずつ会月が増え、出入りが多くなったせいかもしれませんね……。


     情報の“送り手”、延べ2333名の声から

   編集の音(抜粋)




『とうよこ沿線』との出合いは、創刊号キャンペーンで本を手渡された時。だから共に歳をとっているわけです。もうすぐ3年目になるのですね。これからも、お互いに美しく成長して行きたいな。
(日吉・会社員・久保島紀子)



創刊号の号名「夏」から、秋、柊、椿、橘、榎、萩、楓、梅、桃、今回の欅と続き、7月の12号の号名は何となるか、楽しみだ。桃号は品切れの現状。まる2年をむかえて、よくも成長したものだ。
(反町・会社員・山下二三雄)





「とうよこ沿線物語」の取材でようやく、日記王・小林英男氏にお目にかかれました。60余年、60十余冊の日記群を拝見し、大きな感動を覚えました。60年かかって彫り上げた仏像を拝むような気がしました。
(都立大学・随筆家・前川正男)






“日記王”の称号には恐れ入った。早速前川氏御来訪。どんな記事が出るか心配だ。日記は偶然スタートして自分中心に家庭、近所、生活、健康、公共の事等書いて早や68年。カキクケコの人生はまだ続く。
(武蔵小杉・元郷土研究会・会長・小林英男)






編集長から届けられた30冊の楓″と梅≠フ2号を近くの家庭に配布。自宅の塀にビラ3枚を張り出したら、5人から問い合わせがあった。統いて桃″10冊をある会合で配ったら大変喜ばれた。これからも続けてゆきたいと思う。努力が第一だ。
(妙蓮寺・銀行員・横田祝甫)





530分から4時間も電車にゆられてたいくつだった時、ふと考えました。こんな時に『とうよこ沿線』があればと……。それからというもの『とうよこ沿線』をいつも持ち歩いています。
(田園調布・中学生・村田 毅)





皆さんの親切に甘えていていいのかしらと思い、どうやってお礼をしようかしらと考えていると、不肖息子が言いました。「いい原稿が出来ればいいんじゃないの」。それが出来れば言うことないさ! 
(緑が丘・主婦・内野瑠美)




足掛け3年。今まで、いかに多くの人の参加・協力があったことか……。整然としたものは、すっきりしているが冷たさを感じる。渾然としたものは、雑多ではあるが親近感がある。『とうよこ沿線』は
(日吉・カメラマン・森 邦夫)





アンチ巨人の集まり、嫌巨会(けんきょかい)をつくりました。冗談半分、本気半分です。ただし、会長の椅子はいまだ空席です。何しろ、なり手がいないのです。全員、ごく謙虚なものですから。岩田さん、会長になってくれませんか。
(緑が丘・漫画家・畑田国男)




考えているより、やってみよう……こういう性格って、いくつになっても直らないものですね。「面白そーう!」と、考えなしに取材をお引き受けしたものの、ペン一本で伝えることのむずかしさ――。初参加です。どうぞよろしく。(上野毛・主婦・久木朋子)




スキーの魅力のひとつは死んでもいい!≠ニ思う一瞬と死んでたまるか!″と思う瞬間にあります。『とうよこ沿線』にも、背中を走る同じ緊張感があって、すっかり魅了されてマス。
(自由が丘・学生・丸田起弥)






信頼――好きな言葉の一つです。「人を見たら泥棒と思え」一番きらいな言葉です。でも現実を知った私の心は抑えようもない淋しさが……。反面、徹夜で本作りに頑張る若者たちが私のそばにいてくれたのが救いでした。
(編集室・鈴木善子)






ついこの間、桃号が発行されたと思っているのに、なんともう欅号。僕もどうやら、この頃では、皆に名前と顔が一致してもらえたみたい。これも毎号少しずつ編集室に顔を出すようになったからでしょう。その分だけ頑張らなくちゃ! と思いつつ……早く本当に頑張った、と言えるようになりたいもの。(桜木町・団体職員・伊奈利夫)





「東横沿線を語る会」が554l日に発足して、ついに丸2年の歳月が流れた。その間、日吉の小さな編集室を舞台に人さまざまな出会いのシーンが演じられた。その数は延べ2000名を超えた。これから何年目にして1万名を突破するか、楽しみだ。
(本会代表・編集長・岩田忠利)

「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る