編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.635 2015.05.13 掲載

        画像はクリックし拡大してご覧ください。


 
『とうよこ沿線』No.9…昭和57年(1982年)1月1日

 B5判 紙数:92ページ

 頒布:有料 定価200円
   
      参加して…

          

第2のAKEMIよ 来たれ! 

          
学生  野沢 明美(日吉


 

私のアパートは編集室から歩いて7分程。ついつい時間も忘れて夜遅くまでいつく虫であります。そんな気楽さも手伝って「ちょっと出てこないか」という編集室からのお誘いに「あのォちょっと……考えてみます」と言いつつ、結局はトコトコ出かけてゆくのであります。あな、おそろし、これはもう引力です。

 この雑誌に本当の愛着が湧いてきたのは最近のことです。それまでは編集室に全く顔も出さず、本が出来あがるまでの苦労を知らずにいましたから。その点で第8号は私なりに協力でき、一番思い出深いものになるでしょう。扉の詩も忘れられません。

 ドアをあけると知らない人。言葉を交す。次に会った時には、もう力まなくてもいい知り合いになっている。こうして編集室には出会いのドラマが繰り広げられていると思うんですね。あの狭い空間に様々な思い出。3月就職、田舎に去るのはさみしいのです。

 そこで、私のようにおっちょこちょい、それでいて本人はいっこう平気、という強い(ず太いとも形容)精神の持ち主がいたら、ぜひ編集室の白いドアをノックしてみて下さい。あなたに期待しています。

 信州の辰野の近くに行った時はぜひ一言かけて下さいね。6月には「ほたる祭」があり、かの、さだまさしさんもこの祭に何回か来ており、曲も書いているんですよ。秋は私の家でりんご狩りなどいかがでしょう。あ、そうそう、りんごのご注文があれば、産地直送でお届けします。しっかり宣伝、親孝行!



          人との出会い――6/28 編集会議 

                  小学6年生  千葉 敏行
(奥沢)


 

  ぼくは、この「東横沿線を語る会」に入会して一番印象深いのは、昭和56628日の編集会議です。
  その日は確か雨でした。ぼくは日吉能率進学教室のテストを終えて、『とうよこ沿線』が置いてある、或るレストランに行き、その後編集室へ向かいました。

午後2時に会議は始まりました。最初の自己紹介。あードキドキ……。ぼくの番だ。「ぼくは、奥沢の千葉敏行で………よろしくお願いします」と言った。大人のタバコのにおいはいっそう暑い感じなのに、ひや汗ひやひや。ぼくは自分の町のことを一生懸命しゃべりました。そのおかげでいろいろな人に知ってもらうことができました。

 普段の日に編集室に行くと「ヨー、坊主」「おーチンバ、まだ生きていたのか」とか言って、みんながニコニコして迎えてくれます。

 7月1日、榎号が出ました。榎号をまとめて取りに行った時、表紙を見ながら、つくづくうれしくなりました。翌日、先生に渡すのと学級文庫に置く分を学校に持って行きました。すると「われもわれも…」と、『とうよこ沿線』のまわりに集まってきました。まるで教室中が『とうよこ沿線』一色になったみたいでした。

 みなさん、ぼくはこれからもがんばっていい文を書きます。それで、ぼくが『とうよこ沿線』に少しでも役立ち、この雑誌が何十年もず一っと続けばいいなあ、と思っています。

この会に参加したことが、ぼくの小学校時代の一番いい思い出となりそうです。


        本誌を支える陰の実力者

                  印刷営業  
平沢 時雄
(日吉)


 

この沿線誌が立派に軌道に乗って勇躍している秘密というか、原動力といおうか、それは果たして何であろうか。愛読者の方からもよく似たような質問を受けることがある。ユニークな話題、知りたい見たいことがいっぱいの誌面の企画性、優れたリーダーの牽引力、バラエティーに富んだ参画者たちの協力などが頭に浮かんでくる。

本誌の参加者たちのことばを借りれば、編集長の個人的な人柄、人生観、さらに一つ一つのことばや説得力、実行力に魅入らされて、なかば信仰的(?)になってしまった方が多いようだ。かく言う私もその一人なのだけれども……。

さてしかし、と考えたがるのが私の性癖。タウン誌が一般の月刊誌や週刊誌と性格や成立条件が違うことは勿論だけれど、経済的な自立性が求められ、避けて通れないものであることを考えれば、本誌も経済的裏付けがなければならない。
 軌道を走る本誌の裏側から見つめたとき、私は編集長の力も立派ながら、広告の分野で大活躍の鈴木善子おばさんの天才的能力に敬意を表したい。とにかく並の広告社でも取れないような仕事から、広告を出したことのないようなところからも、どんどん協力を得てくる才能は尊敬せざるを得ない。

この会の代表兼任の編集長の力を信じ、馬車馬のように走る行動力こそ陰の実力者、と私は見る。お二人とも行動的で明るく、奥が深い。私のような者を創刊時から今日まで引付けている魅力と言える。私はこの二人にいつまでも学びたいと思う。

『とうよこ沿線』の魅力

    
                 郷土史家  
小林 英男
(武蔵小杉)

 

よい齢(80歳)をして毎日多忙な私だが、何となく『とうよこ沿線』から離れられない。
  初参加は昭和55年8月の「沿線の昔を語る誌上座談会」からである。

そこで第一に得たものは多くの友人であろう。大学の先生から小学生に至る年齢層、そして約半数は女性である。編集会議の賑やかなこと。こんなグループの集まりは外にはない。先日も雨を冒して編集会議に行ったが、用務の都合で先に帰るのが惜しかった。

第二に感じたことは沿線に有名人が意外に多いことである。故小汀利得氏も田園調布におられ、最後は中原区内の病院で亡くなられ、高津の市営火葬場でダビにふされたと聞く。まだまだ隠れた偉人がおられると思う。そして今はまだ卵かヒヨコでも将来は日本の国を背負って立つような人物が現われるかも知れない。期待している。

第三に私の行動は知らぬ間に編集スタッフになっていた。初めは「駅名の由来」を書いたり書き手を依頼したり。配布も担当した。無料の時代は区役所を通じ区内の町内会長等へ、また小杉会館に毎週1回集まる3つのクラブのロータリアンヘ、その他近くの官公署等へであった。有料となった今は、区役所へは頼めない。毎号ロータリークラブのメンバーには発行を首を長くして待ってくれる人もいる。

 私が80年間、生まれ故郷が忘れられないように、この雑誌『とうよこ沿線』の手伝いから離れられない。この会には、何か得体の知れない魅力がある。


   情報の“送り手”、延べ2333名の声の中から

   編集の音(抜粋)

  

1982(昭和57)新年特集

 『とうよこ沿線』スタッフいろはカルタ

  参加スタッフ71名・・・うち16名がここに登場
    
★作品は、もちろん本人の手描きです。



中高年の方ならご存じ、
「トンコ節」の久保幸江さん


「えんせん農園」開設の功労者、細川達男さ


本号デスクキャップ、
佐藤保子さん


短歌の選者、石本隆一先生


俳句の選者、ご存じクスケンこと、
楠本憲吉先生


詩の選者、荒川洋治先生


表紙の井崎一夫先生


本誌面随所で活躍、
漫画家・畑田国男先生


歌謡曲3500を世に出した
作詞家・石本美由起先生


イラストの浅野左多子さん


文学作品紹介の
内野瑠美さん




創刊号から写真で活躍、
川田英明さん




編集室のママさんこと、
鈴木善子




この世にこの男がいなければ…
なんて恨まないでぇ
「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る